鉢形城
Hachighata Castle, Japan


登城日:
2007. 05. 14







鉢形城は秩父山地を流れていた荒川が
関東平野に流れ出る境目の辺りにあるお城です。

ここは鎌倉街道が走り、上州や信州へ
向かう交通の要衝の地です。

地図はこちらです→ Mapion

1476年(文明8年)に関東管領・山内上杉氏の
家臣・長尾景春が築城したそうです。

その後、上杉氏の支配下に置かれていましたが、
1546年(天文15年)の河越夜戦で、上杉氏が敗れると
北条氏の勢力が増し、北条氏康の四男・氏邦が
土地の豪族・藤田康邦に入り婿し、
この鉢形城の城主となりました。

川越の様子はこちらです。

氏邦は1560年(永禄3年)に鉢形城を大改修し、
上野沼田城、箕輪城も持つ大城主になったそうです。

その鉢形城も、秀吉の小田原攻めの際、
前田利家、上杉景勝らの軍勢に攻め込まれ
1590年(天正18年)に、一ヶ月に及ぶ籠城戦の後に
開城し、家康の関東移封の後は、家康配下の
成瀬正一、日下部定好が城代となったそうです。

鉢形城は荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の
上に築かれた天然の要害となっています。



北側から、笹曲輪・本曲輪・二の曲輪・三の曲輪
と続き、大手が南の端に位置しています。
大手の周囲には伝逸見曲輪や伝大光寺曲輪があり、
深沢川の東側に外曲輪が南北に広がっています。

この鉢形城は1932年(昭和7年)に国の史跡に指定され
また日本100名城にも選ばれています。



荒川畔 〜 本曲輪
Jan. 18, '08

二の曲輪、三の曲輪
NEW! Jan. 19, '08

伝逸見曲輪〜外曲輪
NEW! Jan. 22, '08



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荒川畔 〜 本曲輪


鉢形城へはJR八高線の寄居駅から歩いて10分程です。
駅前からの道を南に歩き、寄居の集落を抜けると
荒川に架かる正喜橋を渡ります。

交通量が多く、ダンプカーが頻繁に走る道。
歩道の無い、橋の右手の荒川越しに
鉢形城址の杜が見えてきました。



鉢形城は荒川に面し天然の要害に
なっていることが一目で判ります。

橋を渡り終えた袂が笹曲輪の跡です。

鉢形城の搦め手口にあたります。
道路が三叉路に分岐している
左手に笹曲輪の郭跡がありました。



笹曲輪に建つ鉢形城址碑です。
満開の躑躅が城址碑を
赤紫に染めているようでした。

この笹曲輪跡は、芝生公園のように整備されていて
鉢形城の模型も屋外展示してあり、
お城の概要がよく判ります。

ここからいよいよ鉢形城の登城の開始です。
笹曲輪の南の木々の生い茂った
丘陵に向かっていきます。



一段高くなったところから振り返って眺めた笹曲輪。
そして、ここには石垣の跡も残っていました。



関東には石垣のあるお城は珍しいとのことで、
しかも戦国時代のお城だった鉢形城に
石垣があったとは驚きです。

この石垣跡を過ぎると、木々が
生い茂った雑木林の中を歩いていきます。



丘陵地の森に入り込んでしまったような感じです。
木が生い茂って自然に還ってしまった様です。

区画に分かれ、一段一段高くなっていきます。
曲輪の西北側は土塁のように高くなっていました。



その土塁の上からは荒川の流れが見渡せます。



対岸には寄居の町が見渡せました。
自然豊かな長閑な景色です。


一段高くなったところは、中央に草むらが開け
やっと曲輪の跡らしい雰囲気になってきました。



その一画に田山花袋の碑がありました。



田山花袋がこの鉢形城で詠んだ詩を
武者小路実篤の書という事です。

古びて苔むした鉢形城址碑もありました。



この本曲輪の様子は、打ち捨てられた荒城といった
雰囲気で、昔はここで激しい戦いがあったとは
なかなか想像出来ません。

この城址碑の立つ一角の奥にも更に
一段高い曲輪があったのですが、
そこは立ち入り禁止になっていました。


荒川に向かっては、急斜面の崖になっています。



この断崖を攻めあがる事は
殆ど不可能だった事でしょう。

木々の間から眺める荒川です。



埼玉県の名勝に指定されている
「玉淀」と呼ばれる景勝地と思います。


この本曲輪の東側には道路が走り、
道の反対側には林業試験場跡の建物が建っていました。

この辺りが伝御殿曲輪と思うのですが、
林業試験場跡の敷地には
入る事が出来ませんでした。




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二の曲輪、三の曲輪


本曲輪の見学を終え、二の輪に向かいました。
正喜橋から伝御殿曲輪を通る道路に沿って、
二の曲輪に向かうと、三叉路となり、
道路が右手、荒川の方向に下っていきました。

この道路は、本曲輪と二の曲輪の間に
築かれた堀切を通っているようです。

その三叉路の先に、神社の鳥居がありました。



二の曲輪にある城山稲荷神社の鳥居です。

この鳥居をくぐり、参道を歩いていくと、
左手に二の曲輪が見えてきました。



雑木林のようだった本曲輪とは異なり、
広々とした眺めです。
地元の婦人が二人、曲輪の片隅に座り
お喋りに熱中していました。

この二の曲輪は1997年(平成9年)に発掘調査され
掘立柱建物跡・工房跡・土坑そして
溝などが発見されたそうです。


参道に沿って、二の曲輪の南端に行くと
土塁や空堀、そして復元された橋が見えてきました。



上の写真は、二の曲輪と三の曲輪の間に
築かれた馬出に架けられた木橋です。

この二の曲輪と三の曲輪との間には
大規模な土塁と堀が発掘されています。

1997年と1999年(平成9年と11年)の発掘調査で
最大幅約24m、深さ12mの大規模な
堀だった事が判明したそうです。



堀の底には畝が張り巡らされた障子堀だったようで
この堀は北条氏のお城に多く見られるものだそうです。

遺跡保護の観点から堀は埋められ、
土塁も低く復元されているようで、
当時は上の写真よりも、もっと
壮大な城郭だったようです。


この堀の先が三の曲輪です。



この曲輪はよく整備されていて
石積土塁や四脚門が復元されています。

三の曲輪の土塁は、全長100m、高さ4.2mに及び、
土塁の内側には川原石を3〜4段に積み重ね、
雁木とよばれる階段状の遺構も有ったようです。



復元された石積土塁です。
この土塁の向かいに復元四脚門があります。



この四脚門は廃城直前の遺構との事です。
土塀が門の両側に続き、お城というよりも
武家屋敷の門のような雰囲気もします。

実際、この門の奥の一画からは囲炉裏や
鍋などの日常品が出土しており、
日常生活の場所だったようです。

門をすぎ、一段高くなっている所には
四阿(あずまや)も復元されていました。



ここでは庭園や茶道具も見つかり、
宴会や茶会を行う特別の場所であったようです。
三の曲輪の片隅には井戸も復元されていました。



そして、二の曲輪との間にある馬出へと
向かう木橋から眺めた二の曲輪です。



そして、満開の躑躅の花と復元西阿です。



この復元西阿のある一画は、
秩父曲輪とも言われていたようです。

曲輪の北西からは荒川の流れを
見下ろすことが出来ました。



長閑な景色ですが、1590年(天正18年)、
前田利家や上杉景勝の軍勢が攻めた時には
荒川の対岸に大勢の兵が集結していたことでしょう。


三の曲輪から隣にある諏訪神社
そして大手に向かいました。

三の曲輪の外れに土塁が残っていました。



高さは3m程で、当時の遺構なのか
ある程度復元されたものかは
判りません。
でも、この土塁に上がることが出来たので、
ここから復元四脚門を見下ろして見ました。



塀の後ろ側に雁木が作られ、戦いに
備えた門という事がよく判りました。




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伝逸見曲輪〜外曲輪


発掘調査や復元され、整備されている
二の曲輪と三の曲輪から道路を隔てた
反対側に大きな馬出がありました。



今は水も枯れていますが、当時はおくり泉水
という大きな堀に突き出していたようです。

この馬出しの右手に伝逸見曲輪があったようです。
水堀を隔てて眺める伝逸見曲輪です。



遠くに見える三角形の山は車山と思います。



1590年(天正18年)の戦いでは、この山から
大砲を打ち込まれ、多くの犠牲者が生じ、
それが開城に至った一因だったようです。


道路に沿って南西に向かうと、諏訪神社がありました。
三の曲輪の土塁のすぐ裏手にある神社です。



神社の案内板には武州日尾城主・諏訪部遠江守が
鉢形城の家老として出仕した時に、信州の諏訪神社を
分祀奉齋したとありますが、創建の
年代は定かではありません。

諏訪神社の南側には境内をかすめる様に
JR八高線の線路が走っていました。



この写真の右手が大手だったところです。

大手から伝逸見曲輪への小道が続いました。
この辺りは畑になっているようで、
うっかりすると畝を踏んずけてしまいそうです。



道端に名前の知らない
白い花が咲いていて綺麗でした。

伝逸見曲輪の高台から眺めた景色です。



以前は水堀だったところです。
今は草に覆われ、城址のようには見えません。
写真、左手が馬出です。


伝逸見曲輪の後は、鉢形城の南端を通る
泉水坂を下り、鉢形城歴史博物館を目指しました。

坂を下ると、鉢形城の東の守りと
なっていた深沢川を渡ります。



深沢川はお城の案内図で見ると細い川で、
どの程度の防御に聞いていたのかな?と
思っていたのですが、実際に見てみると
かなり険しい渓谷になっています。

この深く切れ込んだ深沢川を越えて攻め込むのも
かなり難しい事だったと思います。
深沢川を渡ると駐車場が現れ、
鉢形城博物館がありました。



残念ながらこの日は休館日でした。
博物館の外側に、戦国武将や大名達の
家紋を展示してあって、それをカメラに収めました。

徳川氏の家紋が三つ葉葵というのは有名ですが、
織田信長や豊臣秀吉、今川氏などの家紋を
初めて知ったような気がします。


博物館の裏側は、深沢川の
切れ込んだ谷になっています。

博物館の北側、深沢川の東側には
外曲輪が南北に広がっています。

深沢川の外側にあるこの曲輪は
芝生が広々と敷かれ 、その外側は
土塁で覆われ守りを固めています。



勝手な想像ですが、火器がの発達によって
その射程距離が伸び、その攻撃から逃れる為に、
急遽城郭を広げる為に天然の要害の深沢川の
外側に曲輪を築いたような気がします。

しかし、そうだったとしても、その更に遠くの
車山から大筒を撃たれてしまった鉢形城。。。
時代の流れは速く、時の流れとともに
戦国の堅城も、いずれはその役割を
終えていたのかも知れません。


鉢形城址の見学を終え、寄居駅に向かう途中、
綺麗なオレンジ色の花が咲いていました。





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