川越城
Kawagoe Castle, Japan

登城日:
2007. 04. 14 & 2012.4. 17

【川越城 概要】

川越城は北条早雲の流れを引く後北条氏と
扇谷上杉氏が覇権を争ったお城です。

この川越城が築城されたのは、1457年(長禄元年)。
扇谷上杉持朝が太田道真・道灌父子に命じて作らせたそうです。

その後、1537年(天文6年)に後北条氏が川越城を攻め落とし、
この状況を打開すべく、扇谷上杉氏は1546年(天文15年)に
古河公坊・山内上杉氏と組み川越城奪回を図るのですが、
後北条氏の奇襲に遭い、敗退しています。

この戦いは河越夜戦といい、これ以降
後北条氏は関東全域の支配を強めていったそうです。

江戸時代に入ると、江戸の北の護りという位置関係にあり
幕府の要職にある譜代大名が城主になったそうです。

川越城は埼玉県川越市の市街地の東の端にあります。

川越城は、江戸時代に入ると、酒井氏、堀田氏、
大河内松平氏、柳沢氏、秋元氏、越前松前氏、
松井松平氏と、城主が目まぐるしく変わります。

1639年(寛永16年)に川越藩主・松平信綱が川越城の
拡張・整備を行い、本丸、二の丸、三の丸等の曲輪に、
4つの櫓、13の門からなる城郭が完成したようです。


上の城郭図には馬出を持った二つの大手門や
(南、西と方角を記した字のすぐ隣です)
堀や城壁が2重、3重に本丸を取り囲み
堅牢な城郭だった事がわかります。

1767年(明和4年)に川越城は前橋藩松平氏の所領となります。
前橋城が利根川の氾濫で使用不可能となり、川越城を
居城とすることが認められます。

1846年(弘化3年)に二の丸御殿が焼失し、2年後の
1848年(嘉永元年)に本丸御殿が建立されます。
これが現存の川越城の本丸御殿です。

川越城には2007年と2012年の4月に訪れています。
この時の様子を紹介します。

【川越城へのアクセス】

東京の池袋からJR埼京線、東武東上線で川越駅へ、
または新宿から西部新宿線で本川越駅へ向かいます。
川越駅、本川越駅からバスで札の辻に向かい、
札の辻から西に徒歩約12分です。

西武新宿線の特急「小江戸号」の乗車記はこちらです。

【川越城登城記】

西武鉄道の本川越駅前の大通りを東に向かい、
東照宮や喜多院を訪れた後に、川越城に向かいました。

川越の街の様子はこちらです。
西武鉄道の「小江戸号」の乗車記はこちらです。

まず向かったのは、川越城・本城の
南端にある富士見櫓跡です。

富士見櫓は本丸の南西(上の図の中央やや上)に建てられ
絵図を見ると、天守代用の櫓だったように思います。

喜多院から住宅地を歩いて行くと、
雑木林に覆われたこんもりとした
丘が現れました。


撮影: 2012年4月

ここが富士見櫓の跡です。
丘の下の部分は当時は堀だったところです。
堀跡に、田曲輪門跡の碑がありました。

櫓台があった丘には階段や遊歩道の整備中でした。
川越市では2000年から富士見櫓の復元整備事業に
着手しているそうです。

富士見櫓跡には富士見稲荷神社が建ち、
その奥に櫓跡と思われる空き地がありました。


撮影: 2012年4月

下の写真は神社の奥の櫓跡と思しき空き地です。


撮影: 2012年4月

いつの日にか、富士見櫓が復元されるのが待ち遠しいです。

富士見櫓跡を訪れた後、やや東側の細い坂道を上っていくと
川越城の本丸跡に入り、三芳野神社の境内に入りました。


撮影: 2012年4月

三芳野神社は元々は平安時代に創立された神社ということですが、
1624年(寛永元年)に時の城主・酒井忠勝によって再建されたそうです。

この三芳野神社は城郭内にあるごく普通の神社のようですが、
わらべ唄の「とおりゃんせ」の発祥の地とされているようです。

神社の境内にはその碑もありました。


撮影: 2007年4月

当時の町人達はお城の中にある神社に、
恐々とお参りしていたのでしょうか。

この三芳野神社から通りを隔てた所には
古風な建物が建っていました。


撮影: 2012年4月

これが川越城の本丸御殿です。
1848年(嘉永元年)に藩主・松平斉典が建立したものです。

当時は16棟、1025坪の規模を誇っていたそうですが、
明治以降、順次解体され、今は唐風の屋根のある
玄関と大広間部分、そして移築復元された
家老詰所のみが残っています。

しかし、本丸御殿が残っているのは高知城
ぐらいしか例がなく、貴重な文化遺産です。

高知城の様子はこちらです。

本丸御殿の内部は、細長い建物の周囲を廊下が囲み
廊下に挟まれるように、いくつかの部屋が続いています。


撮影: 2012年4月

そして本丸御殿に直交するような形で家老詰所が建っていました。
御殿と家老詰所の間の空間の庭の様子です。


撮影: 2012年4月

家老用部屋には当時の家老たちの人形が置かれていました。


撮影: 2012年4月

川越藩主は、老中等の幕政の中枢に就いていた為
江戸城に詰める事が多く、藩政は主に
家老達によってなされていたようです。

家老詰所から眺める本丸御殿です。


撮影: 2012年4月

本丸御殿は質素な建物で、川越藩の
質実剛健の気風を現していたのでしょうか、
それとも藩の財政難の故なのでしょうか・・・

川越城本丸御殿を辞して、氷川神社に向かう途中
駐車場の傍らに本丸門跡の碑をみつけました。


撮影: 2007年4月

うっかりしていると歩いていても見落としてしまいそうな程
街路樹の間の目立たないところに建っていました。

川越の街は、小江戸と呼ばれた当時の面影を
残す蔵造りの街並みが残っていたりするのですが、
川越城は、当時の城郭の殆どが市街地化されてしまい、
当時の面影を残すのは、本丸御殿周辺のごく一部です。

川越城から蔵造りの街並みを目指して歩いていくと、
川越城中ノ門堀跡がありました。


撮影: 2012年4月

川越城の西大手門から本丸の間には、3つの堀が
巡らされていましたが、中ノ門堀はその真ん中の堀でした。


撮影: 2012年4月

中曲輪と追手曲輪の間に築かれた中ノ堀は
深さ7m、長さ18mの堀だったようです。

当時の川越城の堀の多くは埋められてしまっていますが、
残されたこの中ノ堀は、2008年と翌2009年に
かけて整備されたそうです。

この後、川越の街中の散策を続けたのですが、
不意に市役所のところで川越城大手門跡の
立派な碑を見つけました。


撮影: 2007年4月

その近くには築城に携わった
太田道灌の像もありました。


撮影: 2007年4月

太田道灌の風貌が、今に正しく伝わっているのかどうか
知りませんが、ちょっと頼りなさげな印象の像でした。
きっと武勇ではなく、関東各地のお城の築城で
名を馳せた人なので、この像の方が彼の印象を
よく伝えているのかも知れません。

市役所の北数百mのところにある東明寺辺りが
河越夜戦の激戦地だったそうで、碑も残っています。


川越の訪問記はこちらです。

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