外堀から高知城内へ
土佐電気鉄道の路面電車を高知城前で降り、
北に向かうと、高知城の天守が見えてきました。
土佐電気鉄道の乗車記はこちらです。
小高い丘の上に建つ高知城の天守です。
都会の眺めから一転して、
時代が遡った感じになります。
ビル街を抜けると、高知城の
外堀が見えて来ました。
この外堀に囲われた一角は大高坂山の
麓の平坦地で、当時は下屋敷がありました。
749坪の広大な敷地には馬場や
藩主の隠居屋敷やがあったようです。
外堀に沿って北に向かって歩くと
追手門が見えて来ました。
1801年(享和元年)に再建された現存の城門です。
追手門に近づくと、その向こうに
高知城天守が聳えていました。
この光景は、高知城の眺めの
中でも秀逸だと思います。
堀に架かる土橋を抜けて
堂々とした造りの追手門に向かいました。
追手門は高知城の正門で
立派な内枡形門となっていました。
野面積から打ち込みハギへと移行する時代の
石垣の上に追手門や土塀が築かれています。
追手門を抜けると、いよいよ高知城内です。
天守を目指して行くと大高坂山の
麓に板垣退助の銅像がありました。
板垣退助は高知藩士の嫡男として
1837年(天保8年)に生まれた
明治時代の自由民権運動家です。
岐阜で暴漢に襲われ、その時に言った
「板垣死すとも自由は死なず」
という言葉は特に有名です。
岐阜城の登城記はこちらです。
板垣退助像の脇の階段を上り、
一段高いところにある杉の段
という所に向かいます。
その手前の石垣に石樋がありました。
これは雨の多い高知城独特の排水設備です。
石樋は、石垣に水圧が掛かるのを防いでいて、
排水が石垣に当たらない様に突き出ているそうです。
階段を上った所が杉の段です。
幕府から下賜された「御鷹之鶴」を受け取る
際には、藩主はここまで出向いたそうです。
また藩主が参勤交代などで、高知城を離れる際には
藩主の一族がここで見送りやお出迎えをしたそうです。
階段を上ったすぐ右手に
山内一豊の妻の像がありました。
結婚の持参金10両で立派な馬を買い、
その馬を信長の目に留まって以来、
一豊の出世が始まったという話は
良く知られています。
杉の段から見上げる三の丸の石垣と
その向こうに聳える天守の様子です。
この三の丸の石段の下を通り
南にある太鼓丸跡を目指しました。
途中で、杉の段への石段を
振り返って眺めた様子です。
左側の石垣に石樋が見えています。
迫り出している本丸の石垣を
迂回するように太鼓丸跡に向かいました。
太鼓丸跡は花壇として整備されていました。
太鼓丸にあった鐘撞堂の跡が築山として残っています。
鐘撞堂は明治以降に本丸に移されています。
再び、本丸の石垣の下を通り、
三の丸へ向かいました。
上の写真、左手の犬走りを行くと
三の丸へ直接出る事が出来ますが、
三の丸の入り口の鉄門を通るべく
右側の通路に向かいました。
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三ノ丸
杉の段から再び石段を上り、
鉄門に向かいました。
立派な算木積の鉄門の石垣です。
当時は、この石垣の上に入母屋造りの
2階建の門が載っていたそうです。
短い石段を上るとすぐに左に折れ
再び石段を上っていきました。
鉄門を抜け、右に折れると二ノ丸ですが
真っ直ぐに続く石段の先には、
詰門が見えてきました。
石段を上りきった所で、左手に本丸の石垣が伸び
その下に、細い犬走りが続いていました。
ここは本丸の石垣が二段になっている
その間の所に位置しています。
犬走りの様子を眺めてから先ほど
石段から見上げた詰門に向かいました。
この詰門は二ノ丸から本丸へと向かう
廊下橋が上に載り、まるで行き止まりの
関所の様に聳えていました。
右側の扉が門の入り口になっていて
ここを抜けると反対側の空堀に出ます。
実は、この門を抜けても本丸への
近道にはならないのですが、
忍び込んだ敵は、この門に導かれるような
巧妙な造りになっていた様です。
詰門から引き換えし、三ノ丸へと向かいました。
三ノ丸へと向かう途中で眺める天守です。
三ノ丸は、往時は三ノ丸御殿が建ち、
年中行事を行う大書院・裏書院や
藩主の控えの間の御居間があったそうです。
曲輪の東北隅には丑寅櫓が建っていました。
今では、更地になっていますが、
訪れた2009年夏には整備中でした。
三ノ丸から見上げる二ノ丸石垣です。
この三ノ丸からから二ノ丸に向いました。
その途中、三ノ丸の入り口から
詰門の方向を眺めた様子です。
石垣や石段が折り重なり、
その間に詰門が見えています。
厳重だった高知城の様子が伺えます。
上の写真の右端から石段が続き、
ここを上ると二ノ丸に至ります。
古びた石垣の間に、石段が続いていました。
この石段を上っている途中に
振り返って天守を眺めました。
つい先ほどまで降っていた雨に濡れた
石垣が雰囲気を醸し出していました。
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二ノ丸
三ノ丸からの石段を上ると二ノ丸に至ります。
石段を上ったところには詰御門がありました。
今は石垣が残るだけです。
二ノ丸の様子です。
二ノ丸は標高40mにあり、
その面積は4,128平方メートルだそうです。
この二ノ丸も今は建物は残っていませんが
当時は総面積1,233平方メートルもあった
二ノ丸御殿が建っていました。
この広大な御殿が、明治に入ってから
取り壊されてしまったのは、なんとも残念です。
二ノ丸の西北隅には3階建ての乾櫓も
ありましたが、それも取り壊されています。
二ノ丸から高知城北側を眺めた様子です。
二ノ丸の北側には水の手門がありました。
いまは石段が残るばかりでした。
あまり見所の残っていない
二ノ丸跡から本丸に向かいました。
二ノ丸と本丸の間には
現存の廊下橋が架かっています。
廊下橋とその向こうに聳える
高知城天守の眺めです。
廊下橋の向こうには廊下櫓が聳え
往時の重厚な高知城の雰囲気が残されています。
二ノ丸から眺めた本丸天守の様子です。
二ノ丸と本丸の間の空堀の向こうに聳えていました。
二ノ丸からは、空堀を上から見渡せます。
空堀には、詰門の二階に廊下橋が掛かっています。
詰門に誘導された敵兵は、この二ノ丸や
本丸から集中砲火を浴びてしまう事でしょう。
廊下橋の西側から本丸を眺めた様子です。
一段高い本丸の周囲を固める廊下櫓から
西多聞へと続く櫓の向こうに天守が聳えています。
幾重にも重なる甍が素晴らしい景色です。
高知城懐徳館入り口の案内が
掲げられた廊下橋の入り口です。
壊徳館は現存する本丸御殿の事です。
背の低い廊下橋を抜けるといよいよ本丸です。
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本丸
本丸内
廊下橋をくぐり、廊下門下の石段を
上るといよいよ高知城本丸です。
高知城は本丸以外は、当時の建物が
追手門しか残っていないのですが、
この本丸は当時の建物がすべて残されています。
本丸に入ると、本丸御殿が目の前に現れ
その向こうに天守が見えています。
この景色は、江戸時代から変わる事のない眺めです。
この本丸は大高坂山の山頂、標高44.4メートルにあり、
広さは1,580平方メートルあります。
かなりの広さを有しているのですが、天守や
本丸御殿をはじめ、東西の多聞櫓、廊下門、
鉄門、納戸蔵など、すべての建物が残っていて
手狭な印象を受けます。
左手に本丸御殿と天守を眺めながら本丸を進み、
突き当たったところにあるのが黒鉄門(上左写真)、
その手前、右手にあるのが西多聞櫓です。
本丸の内部を一通り巡った後に
本丸御殿に向かいました。
上の写真は、本丸御殿入り口から
眺めた本丸の様子です。
本丸御殿 (壊徳館)
本丸御殿は1603年(慶長8年)に創建され、
藩の公式行事である対面を行う場所や
藩主の居室もあったようです。
実際には、二ノ丸御殿や三ノ丸御殿があるので
特別な儀式以外は、本丸御殿は使われなかったようです。
現在残る本丸御殿は、1727年(享保12年)の
大火による焼失した後に1749年(寛延2年)に
再建されたものだそうです。
藩丸御殿の内部の様子です。
玄関を入り、式台の間から九畳の間、
四ノ間を通り、奥へと向かいました。
御殿には、大河ドラマ「功名が辻」で
山内一豊室の千代役の仲間由紀恵さんが
着用した服が展示されていました。
こちらは三ノ間の様子です。
三ノ間と二ノ間(下段の間)の間には
透彫欄間がありました。
二ノ間(下段の間)から
上段の間を眺めた様子です。
ここでは藩の正式行事である対面式が
行われ、上段の間に藩主が座って、
下段の間の藩士に相対していた事でしょう。
その上段の間と二ノ間の
東側の庭の様子です。
多くの建物が建ち並ぶ本丸故でしょうか
庭は思っていた以上に狭いものでした。
本丸御殿の次に廊下門に向かいました。
廊下門は、本丸の守りを固める重要な門です。
窓もなく、倉庫の様な建物の内部では
「長宗我部と一領具足」の展示がありました。
長宗我部氏は、戦国時代末期に土佐の豪族から
四国全土を治める程まで勢力を伸ばした戦国大名で
豊臣秀吉の時代には土佐一国を治めていました。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍に付いた為に
改易されてしまいました。
その後、土佐に入った山内一豊は、
長宗我部の旧臣を弾圧した為、
江戸時代を通じて土佐では
山内氏家臣と長宗我部旧臣の間で
確執が続いていました。
次は、いよいよ天守を紹介します。
本丸天守
廊下門を訪れた後、いよいよ天守へと向かいました。
高知城の天守は4重5階建で、高さは18.5mあります。
1601年(慶長6年)に建てられた天守は、
1727年(享保12年)の大火で焼失してしまいましたが、
1749年(寛延2年)頃に再建されたそうです。
再建された際には、創建当時の姿を
忠実に再現したと言われています。
本丸の内部は窓が少なく暗く、
太い梁が天井を走り武骨な感じです。
現存天守の存在感を示していました。
天守内には展示物は少なかったのですが、
その一つが往時の高知城の模型でした。
やはり、二ノ丸や三ノ丸にも
御殿が建ち並ぶ様子は見事です。
最上階の六階には高欄が付き、
周囲を巡る縁に出て外を
眺められるようになっています。
これは高知城の南を眺めた様子です。
上左の写真は、南東方向です。
木々の間に追手門が見えています。
上右の写真は、南西方向の眺めです。
本丸の黒鉄門や西多聞櫓の向こうに
高知の街並みが続いていました。
こちらは本丸の北東に位置する
三ノ丸を眺めた様子です。
2009年7月当時、三ノ丸が整備中で立ち入り
出来なかった様子が本丸からよく判ります。
そして本丸の建物群が眼下に見えていました。
本丸と二ノ丸との間に架かる廊下橋の下の
空堀に埋もれるように位置している詰門の様子や
所狭しと建ち並んでいる本丸の建造物の様子が良く判ります。
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御台所屋敷跡・西ノ丸
高知城天守に登った後は、二ノ丸に戻り、
水の手門から高知城の西側に向かいました。
水の手門から二ノ丸下の帯曲輪を通りました。
ここには更に一段下の帯曲輪へと下りる
綿倉門跡の石垣がありました。
ここから二ノ丸の石垣下を通り
本丸の西側へと向かいます。
高知城は東側にある追手門が表口で、
多くの観光客も本丸の天守を訪れると
そのまま追手門に引き返してしまうので
この辺りは、とてもひっそりとしています。
二ノ丸の石垣の陰から、
本丸の建物群が見えてきました。
高知城本丸の西櫓や廊下門などの
白壁の建物が石垣の上に聳え、
実に堂々とした眺めです。
この本丸西側の一段低いところが
獅子の段と云われているようです。
ここから本丸南側に向かう小路がありました。
石垣下から眺める本丸の土塀です。
この先で、本丸へと向かう坂道がありました。
ここを上ると、本丸の黒鉄門
へと行くことが出来ました。
本丸の様子はこちらです。
黒鉄門まで足を伸ばした後に、
獅子の段の下の御台所屋敷跡に向かいました。
ここは柿葺き屋根の塀が巡らされていたようです。
御台所屋敷は東から西に下る斜面に位置していて
真ん中に石段があり、上下に分かれています。
これはその石段の様子です。
この御台所屋敷跡からは搦手門に
向かう忍道が続いていました。
この辺りは木々も生い茂り、
ひっそりとした佇まいでした。
坂道を下ると西ノ丸跡です。
いまでは弓道場が建てられていて
その脇に、搦め手門跡の石垣がありました。
高知城搦手門を出ると致道館跡がありました。
この様子は、高知の散策記で紹介します。
高知市街地の散策記はこちらです。
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