掛川城
Kakegawa Castle, Japan
登城日:
2006. 01. 03, 2009. 06. 13
掛川城は、山内一豊の居城だった
お城として知られています。
この掛川城は、駿河の守護大名今川氏が
家臣の朝比奈氏に築かせたのが始まりです。
15世紀半ばの事です。
その後、掛川城は家康の領有となりましたが、
1590年(天正18年) 秀吉は家康を関東に移封し
配下の山内一豊に、この城を守らせました。
山内一豊は近江長浜から掛川に移封し、
その後、関が原の戦いで一豊は大功を挙げ、
土佐20万石の大大名へと栄転しました。
長浜城の様子はこちらです。
高知城の様子はこちらです。
掛川城は逆川の北側に、本丸、天守丸、二の丸
そして三の丸が寄り沿う様に配置された
比較的コンパクトなお城です。
掛川城の天守は、1993年(平成5年)に
当時と同じ木造建築で復元されています。
また1855年(安政2年)から1861年(文久元年)に
かけて再建された二の丸御殿が現存しています。
この掛川城に、2006年正月と
2009年6月に訪れました。
JR掛川駅より徒歩10分程です。
【掛川城登城記】
大手門
掛川駅で下車し、駅前から北に向かいます。
駅前の道を真っ直ぐ進むと、すぐに
復興なった天守が見えてきました。
天竜浜名湖鉄道の様子はこちらです。
左が天守、右が太鼓櫓です。
逆川が手前に流れ、当時の本丸と
二ノ丸の辺りが公園になっています。
この東側に掛川城大手門がありました。
商店街を歩いていると掛川城の大手門が、
建物の間からひょっこりと現れました。
この大手門は復元ですが、櫓門の堂々とした
造りは当時の門を模しているそうです。
掛川城の大手門は、山内一豊の時代に
掛川城の城郭が整備された際に
今の位置に置かれたそうです。
当時の門は1854年(嘉永7年)の大地震で倒壊し
1858年(安政5年)に再建され、明治になって
廃城になった後に、民間に払い下げられ
そこで火災に遭い焼失したそうです。
大手門には発掘調査で出土した
門の基礎の模型が展示されていました。
大きな石を穴に埋め、その周囲を半円状に
河原石を積み重ね、その上に門柱の
礎石が置かれておいるそうです。
大手門をくぐったところには
門番所が現存していました。
現存している城門は比較的各地で見られますが
こうした門番所はなかなか残っておらず
貴重なものです。
この門番所は、大手門と同じく嘉永の大地震で倒壊し、
1859年(安政6年)に再建されたものだそうです。
大手門の近くには三光稲荷がありました。
三光稲荷は、山内一豊が、伏見城築城に
関わった縁で、伏見稲荷を勧請したものだそうです。
三光稲荷は、後醍醐天皇が吉野御幸の際に
伏見を通りかかった際、折からの暗闇で
難渋していた時に道中の安全と神助を願った所、
明るい雲が現れたという逸話に基づいています。
大手門から逆川に沿って掛川城を目指しました。
川から眺める天守と太鼓櫓の様子です。
小高い丘の上に建つ掛川城天守は
市内の至る所から眺めることが出来、
とてもいいランドマークになっています。
掛川城のすぐ南を流れる逆川を渡ります。
当時は堀の役割を果たしていた逆川。
2009年7月に訪れた際は、堤防に
花が咲きのどかな光景でした。
二の丸御殿
この掛川城は復元された天守もさることながら、
江戸時代の御殿が現存している事でも知られています。
丁度団体客が天守に向かったところだったので、
先に、御殿を見学する事にしました。
掛川城の御殿は二ノ丸にあり、
1854年(嘉永7年)の大地震で倒壊した御殿を
1855年(安政2年)から1861年(文久元年)に
かけて再建したものだそうです。
江戸時代には、どのお城にも御殿があり、
藩の公務や藩主の公邸として使われていましたが、
当時の御殿が残っているのは、二条城や高知城など
全国でも極めて稀という事です。
二条城の訪問記はこちらです。
高知城の訪問記はこちらです。
下の写真は、御殿の入り口から
眺めた掛川城天守です。
御殿の内部は、藩主と家来との
対面場として使われた御書院上の間を中心に
その奥に藩主の公務の場所だった小書院。
東側には、奉行や目付けといった、
お役人が使った執務室がいくつも並んでいました。
この写真は、御書院上の間です。
当時、この書院で実際に大名が
家来に面会していたかと思うと、
時を越えた不思議な感じがしてきました。
二の丸御殿から綺麗に芝生が敷かれた
二の丸へと出てみました。
すぐ近くに天守が綺麗に聳えていました。
思わず見とれてしまうような
綺麗な天守です。
二の丸の本丸側には、
深く堀が掘られていました。
十露盤堀です。
深さは5m程もあるでしょうか。
堀底は2列に溝が掘られているようでした。
本丸
掛川城の本丸へは逆川に架かる橋を渡り、
白壁に囲まれた階段の先にある
太鼓門に向かいます。
階段の左手に見えるのは太鼓櫓です。
当時はこの位置にはなかったそうです。
階段を上った四足門から
眺める三日月堀です。
この堀も十露盤堀と同じく
本丸と二の丸の間にある堀です。
四足門をくぐり左手に聳える太鼓櫓です。
この太鼓櫓も天守と共に、掛川の
城下から良く眺める事が出来ます。
元々、この位置には荒和布櫓という
見張り用の櫓があったそうです。
現存のこの櫓が1854年(嘉永7年)の大地震の後に
建てられた太鼓櫓を1955年(昭和30年)に
三の丸から移築したものだそうです。
この太鼓櫓の先に本丸がありました。
ここは藩主の住まいである本丸御殿がありました。
発掘調査で礎石などが確認されたそうですが、
驚くことに掛川城築城前は、墓地だったそうです。
当時の人は、その様な事は気にしなかったのでしょうか。
毎日が死と隣り合わせの日々だったせいかも知れません。
この本丸跡は、今では花広場として整備されています。
復元天守
御殿の見学を終え、いよいよ
復元天守へ向かいました。
小高い丘の上に建つ掛川城天守です。
掛川城の天守は長浜城から移封した
山内一豊が建てたのが始まりです。
姿の美しさから「東海の名城」と呼ばれたそうですが、
1854年の大地震で倒壊してしまったそうです。
白壁に沿って、丘を上り天守を目指します。
先ほど訪れた二ノ丸御殿が眼下に見えてきました。
国の重要文化財に指定されています。
落ち着いた雰囲気の建物でした。
いよいよ天守が目の前に聳えてきました。
その天守は、1993年(平成5年)に
当時と同じ木造建築で復元されました。
山内一豊は、土佐に移封された後、
高知に掛川城天守を模して
高知城を建てたと言われており、
掛川城天守の復元にあたっては
高知城も参考にされたそうです。
天守は3層4階の作りです。
天守の最上階からは、掛川の街が望めます。
当時は、城下町の周囲を堀で囲った
総構の造りだったそうです。
今では、ビルが建ち並ぶ掛川の街ですが、
高台にある天守からは眺望が広がり、
とてもいい眺めでした。
竹の丸
掛川城二の丸の北側は、江戸時代には
侍屋敷が並んでいたそうです。
今も白壁の塀にその面影を残す
この一画は竹の丸と呼ばれていたようです。
この竹の丸に江戸時代の葛布問屋・
松屋が邸宅を建てたそうです。
門を抜けたところに建つ
葛布問屋の松本家の主屋です。
国の有形文化財に指定されているようです。
そして2階建のこちらの建物は離れです。
離れは当初平屋でしたが、大正末から
昭和初期にかけて2階建に改装されたそうです。
離れの前の庭園の様子です。
江戸時代末から明治にかけての
豪商の暮らしぶりが伺えました。