茂木城
Motegi Castle, Japan


登城日:
2010. 2. 6








【茂木城 概要】


茂木城は、鎌倉時代の有力御家人・八田知家の三男・知基が
源頼朝から賜った下野国茂木郡を守るために築いたお城です。
知基は茂木氏を名乗り、1610年(慶長15年)まで、
約400年間、茂木氏の居城として続きます。

その間、1556年(弘治2年)には佐竹氏に攻められ
茂木氏は佐竹氏に従う様にまります。
1585年(天正13年)には後北条氏と
結城氏によって一時期奪われています。

茂木氏は関ヶ原の戦いの後、主君の佐竹氏と共に
秋田に移封となり、その後に茂木城に入った
細川忠興の弟・興元はこの茂木城を引き払い、
麓に陣屋を構えたのでした。


茂木陣屋の登城記はこちらです。






茂木城は、茂木の町を望む桔梗山に築かれています。
街に面した切り岸の上に本丸が置かれています。



本丸の北側には千人溜と呼ばれる広い空間が確保され、
それを囲む様に、西に二の丸、北に三の丸が配されています。

東の低地に向かって大手門があったようです。



【茂木城へのアクセス】


真岡鐡道・茂木駅から徒歩15分程で
本丸に辿り着きます。


真岡鐡道の登城記はこちらです。
真岡鉄道のHPはこちらです。





【茂木城登城記】



本丸
Feb. 08, '15

出丸〜大手門〜三の丸
Feb. 11, '15

千人溜〜二の丸
NEW ! Feb. 17, '15



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本丸







真岡鐡道の茂木駅から茂木の町を
南北に貫くように歩くと10分程で、
崖のような山に突き当たります。



(この写真は2014年に茂木を再訪した際のものです)

この山の上が茂木城址になります。

集落と茂木城址の間を流れる逆川を
百騎橋で渡り、城址を目指しました。



神明神社に向かう階段を上り
そこから更に急斜面を上っていきます。



この急坂を上り終えると
茂木城の本丸に辿り着きました。



本丸は、サッカーのグランドよりも
一回り大きい程の広さがありました。
本丸跡には遊具も置かれていますが、
南側と西側には土塁もしっかり残っています。

本丸からその北側に広がる千人溜を眺めてみました。



千人溜は、その名の通り大勢の軍勢を揃えられる広い敷地です。
当時はここには、建物は建っていなかったのでしょうか。
千人溜の西側に二の丸跡があります。


こちらは、本丸南側の土塁です。



この土塁からは茂木の町が一望出来ました。



真岡鐡道の茂木駅も城跡から眺める事が出来、
下館から乗って来たSLの姿も見えていました。

真岡鐡道の乗車記は
こちらです。

こちらは本丸西側の土塁です。
この土塁は3m程の高さがある立派なものでした。



西南の角には望楼があったようです。

本丸の西側には馬出の様に
櫓台の様な曲輪もありました。



そして本丸の西北には二の丸との間に
深い堀切も残っていました。



深さは10m近くもあるでしょうか。
見事な堀切です。


本丸を一巡し、東側の虎口から
一段低い駐車場に向かいました。
そこから眺める本丸の様子です。



更に大手門付近に向かうと
本丸の全貌が見えてきました。



周囲から一段高い本丸の様子が良く判りました。



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出丸〜大手門〜三の丸







茂木城の本丸の東側の虎口から階段を下り
駐車場へと下りて行きました。

本丸の東側には出丸があり、そちらに向かいます。
出丸との間には茂木城の開城城主・茂木知基に
ちなんで付けられた知基橋が架かっています。



本丸下の駐車場と出丸の間には深い空堀が巡らされ
知基橋はその空堀の上に架かっています。



橋の上から眺める空堀の様子です。
幅は10m近くあるでしょうか。
とても立派な空堀でした。


知基橋を渡った先の出丸の様子です。



出丸も本丸の2/3程度の広さのある大きな曲輪でした。
出丸の東南の端に櫓風の展望台がありました。



この展望台からも茂木の町が一望出来ました。



この景色を眺めていると、このお城が
茂木の町を守っていたのだ、と実感出来ます。

出丸の東北側の切り岸の様子です。



復元整備されていると思いますが、
急傾斜で高低差のある立派なものでした。


出丸を一通り散策した後に、先ほどの
本丸と出丸の間の空堀に戻りました。
この空堀は堀底が散策路になっています。



折れもある立派な堀で、深さは5m程はあるでしょうか。
この空堀を歩いていくと大手門があった辺りに出ました。



城内の案内図に大手門と記されていますが
土塁もなく、窪地になっています。

ここから茂木城の東の端を
北に向かって道が続いています。

この道は三の丸へと続く道で、
その途中は馬場だったようです。



整備が進められている茂木城ですが
この辺りは藪が生い茂っています。

本丸や本丸から眺めた千人溜も広い曲輪でしたが
三の丸へと向かう道も長く、茂木城がかなりの
広さの城域を誇っていた事が判ります。



大手道から三の丸への道を振り返った様子です。
城内の一部は畑になっていました。


この辺りが三の丸の東に端に位置しています。
三の丸の北側には、高い土塁が続いていました。



土塁には木々が生い茂っていて、
土塁の姿を隠していますが、この土塁も
高さが5m程もあったでしょうか。



この土塁には虎口のような切欠き部もありました。



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千人溜〜二の丸







三の丸から大手門に戻り、
次には二の丸に向かいました。



大手門の坂道を上ります。
この坂道を上ると正面に本丸が見え、
その右手にこんもりとした雑木林が見えてきました。



この雑木林が二の丸です。
その手前には、千人溜の広い空き地がありました。



案内板には左手の窪地が溜池で、
右奥の芝生が千人溜と記されています。

しかし、この一段高いところにも
広い平地が広がっていました。



茂木城は、丘陵地にある山城で
茂木城の周囲にも広い耕地はありません。
江戸時代の茂木藩の石高は1万石程度でした。

茂木城の縄張りが今見るように整備されたのは
戦国時代の後期と思うのですが、その時代にも
これ程の広さの曲輪を必要とするだけの兵力は
茂木周辺からでは調達出来なかった様に思います。

茂木城は、1585年(天正13年)には後北条氏と
結城氏によって一度奪われています。
16世紀半ば以降、茂木の辺りは佐竹氏と
後北条氏との間の境目の城だったのでしょうか。

とすると、あおれんじゃあさんが指摘する様に
この広大な敷地は佐竹氏の兵力を駐留させる
場所だったような気がします。

あおれんじゃあさんのホームページ、
『北緯36度付近の中世城郭』はこちらです:
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/


千人溜の西側には二の丸がありました。



この雑木林がその二の丸跡です。
二の丸の手前に鏡が池の跡もありました。



当時のお姫様が流行病に罹り、
酷い痣が残ってしまったそうです。
殿様は城内にあった鏡を処分したそうですが、
お姫様はこの池に映る自分の姿に嘆き悲しみ、
身を投げたという逸話が残っているそうです。


二の丸へは北側からアプローチしました。



二の丸は残念ながら雑木林が生い茂る
ばかりで見所もありませんでした。



当時は兵糧蔵がこの二の丸にあったそうです。

雑木林の中を北から南へと移動し、
本丸との間の堀切を眺めました。



大きく立派な堀切です。



やはりこれだけの規模の普請は
戦国時代も後半ではないかと思います。

ここから二の丸を下り、二の丸と千人溜との間の
窪みには、遊歩道の木道が造られていました。



当時の堀跡と思います。



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