福井城
Fukui Castle, Japan


登城日:
2007. 11. 22 & 2010. 5. 25







【福井城 概要】


福井城は結城秀康が1600年(慶長5年)に
越前68万石を拝領してした翌年から
築城に取り掛かり、6年の歳月を
かけて築いたお城です。

結城秀康は徳川家康の次男で、
岡崎信康が自害した後は、家康の
後継と成り得る人物でその能力は家康の
家臣からも認められていたそうですが、
結城秀康は、家康から嫌われていたとされ
秀吉に養子に出されたりしていたようです。

結城秀康は柴田勝家が築いた
北ノ庄城の跡に福井城を築きました。

北ノ庄城の様子はこちらです。







福井城の城域は広く、現在の福井市街の
広い範囲に及んでいます。



現存する本丸跡と内堀の周囲に二重三重に
お堀を巡らせ、二の丸、三の丸が
本丸の周囲を囲っていたようです。

お城の東南には旧吉野川を改修した
百間掘と呼ばれる幅の広いお堀で
城を守っていました。

秀康の築城当初は、本丸には高さ約28m、
4層5階の天守が聳えていたようです。



この天守も1669年(寛文9年)の大火で
焼失した跡は再建を許されなかったそうです。

結城秀康を藩祖とする福井藩は、
その後改易などで石高を減らされたりはしましたが、
一橋家や田安家から藩主を向かい入れ、
明治まで、徳川の親藩でした。

幕末期の16代藩主、松平慶永(春嶽)公は
藩政改革を行い、1862年(文久2年)には
政治総裁職に就き、幕政の中核も担っています。



【福井城へのアクセス】


JR北陸本線 福井駅から北西約200m。

福井駅西口から福井県庁に向かい
約5分程で着きます。





【福井城登城記】




三の丸柴田神社から内堀へ


柴田勝家の築いた北ノ庄城の遺構の残る
柴田神社は福井城の三の丸の縁にあたり、
ここには北ノ庄城の遺構とともに
福井城の遺構も残されていました。



北ノ庄城址公園に残る福井城の
石垣や土居跡です。


北ノ庄城址公園を後に、
福井駅前を抜けて北に向かうと
福井城本丸跡にでます。

本丸の南側に架かる
御本城橋に出ました。



本丸跡を取り囲んでいる
内堀の様子です。

雨が降り、紅葉の終わりかけた
木々が葉を落とし、ちょっと
寂しげな雰囲気です。



お堀に落ち葉が浮かび、
鮮やかな光景でした。



内堀を西へと向かいました。
本丸の南西角の様子です。



本丸跡には石垣が続き、
当時の面影をよく残しています。

本丸の西側に架かっていた
御廊下橋は、復元工事の最中でした。



2007年に訪れた際には工事中の御廊下橋ですが
2010年5月に訪れた際には既に復元されていました。



御廊下橋は本丸と内堀を隔てて
西側にある西三ノ丸御座所との間を
藩主が往復する為に架けられたそうです。



御廊下橋を過ぎ、本丸北西角の
天守台の石垣の様子です。



内堀の北側から本丸跡に入りましたが、
絵図を見ると、天守へと直結している
本丸の北側からは当時は
城内へは入れなかったようです。




西三ノ丸跡


御廊下橋の西側に道路を隔てて
中央公園があります。

ここは江戸時代に西三ノ丸だったところです。



1843年(天保14年)に、16代藩主・慶永公は
福井への初入国に際し、藩主の住居を
本丸から西三ノ丸に移したそうです。

中央公園には岡倉天心の像がありました。



こちらは由利公正の像です。



由利公正は幕末の福井藩士で、明治維新後に
五箇条の御誓文の起草に参画した事で知られています。

現在の中央公園はほぼ正方形をしていますが
当時の絵図によると、内堀に沿った
長方形をしていたようです。




本丸跡


本丸北側から本丸跡に入って
すぐの所にあった天守台です。



福井城の本丸跡には、今では県庁や
警察本部が置かれており、天守台から
威圧するような感じの庁舎が見えていました。



天守台の東側には、やや小ぶりな
控天守台の石垣が並んでいます。



控天守台の石垣は1948年(昭和23年)の
福井大震災の際に崩れ、今でも
その崩れた姿のままになっています。


天守台と控天守台の脇に
福の井という井戸が残っていました。



結城秀康公が築城した際のお城の名称は
柴田勝家が築いたのと同じ北ノ庄城という
名称だったそうですが、1624年(寛永元年)に
この福の井にちなんで、福井城と
改名されたそうです。


本丸跡を色々見て回りたいのですが、
県庁や警察本部の敷地になっているので
居心地が悪く、本丸跡の南にある
御門(大手門)跡へと向かいました。



ここは御本城橋を渡って本丸に
入ったところにあった枡形門で、
福井城の正門にあたる門でした。

高麗門に続き、瓦御門と呼ばれた櫓門があり、
その瓦尾門に多聞櫓が続く
堅牢な門構えだったようです。



門の石垣の裏手は階段状になっていて
番兵が駆け上がれるようになっています。



今は散策路として整備されていて
石垣の上に上がる事が出来ました。



石垣から眺める、
現在の御本城橋の様子です。



そして、大手門跡には、福井城を築き
福井藩祖となった、結城秀康公の
騎馬像がありました。



世が世であれば、将軍にもなれる
立場にあった結城秀康。

100万石の加賀藩を牽制する
重要な地を領地として拝領したのですが、
どんな思いで雪深い福井の地に
赴いたのでしょうか。

この日は、雲が流れ雨が
降ったり止んだりの天気です。



御本城橋を渡り、福井城を去る頃には
青空ものぞいていました。




舎人門と養浩館庭園


福井城本丸から北に400m程行ったところに
福井市立郷土歴史博物館があります。

ここに舎人門が復元されています。



舎人門は福井城の外堀に設けられた門です。

この舎人門は、博物館建設に伴う発掘調査で
外堀や石垣、門の礎石などが見つかり、
それを復元したものだそうです。



舎人門は高麗門形式で復元されています。
門には発掘された礎石が置かれていました。

門の脇には外堀の様子も復元されていました。



江戸時代の外堀は9間(約16.4m)の幅がありました。

当時この辺りは武家屋敷が広がって
いたようで、土塀も復元されていました。



当時、この塀の向こう側には
磯野氏の屋敷があったそうです。


この近くに養浩館庭園があります。



庭園の入り口の木戸です。

この養浩館庭園は旧福井藩主の別邸です。
回遊式林泉庭園の向こうに御茶屋と
呼ばれる屋敷があります。



御茶屋は主座敷の「御座ノ間」と
「御月見ノ間」などから構成されていますが
2007年11月に訪れた際には生憎修復中でした。

当時、この庭園はお泉水屋敷と呼ばれていたそうです。
現在見る規模に整備されたのは1699年(元禄12年)だそうです。

養浩館の名は、幕末の藩主・松平春嶽公が名付けたとされます。



晩秋の福井では、丁度紅葉が綺麗でした。

この近くには、松平春嶽公の像もありました。



幕末の四賢侯の一人とも云われた春嶽公。
明治維新後に新政府に加わりますが
1870年(明治3年)に政務から退いたそうです。




百間掘りと明新館跡

JR福井駅を降り立つと、ビルが並ぶ
県庁所在地の駅前の光景が広がります。



駅舎は既に新幹線が乗り入れが
可能な様に高架化されています。






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