大手門
ひがし茶屋街から浅野川を渡り、
緩やかな坂道を歩いて行くと、
寺島蔵人邸を過ぎ、住宅地の中に
石垣が見えてきました。
寺島蔵人邸はこちらです。
金沢城の北東部の隅にあたり、
ここから大手門に向かって
石垣が伸びていました。
この石垣は北東隅の櫓台
だったのではないでしょうか。
その手前、兼六園方面へと続く
白鳥掘跡です。
写真右手が新丸の土塁が続いていました。
石垣に沿って、金沢城の北側を
西に向かって歩いていくと
金沢城の大手門が見えてきました。
立派な石垣が築かれ、百万石に
相応しい堂々とした門です。
金沢城の大手門は、築城当初は
西側の黒門口にあったそうですが
高山右近の指導で、この位置に
付け替えられたそうです。
金沢城の大手門が、京や大阪に背を向けた
北側に取り付けられているのは、少しながら
疑問に思っていたのですが、地形の関係で、
南側が高い崖を利用した高石垣で守りを
固めている為でしょうか。
夜、ライトアップされた大手門脇の石垣の様子です。
大手門の西側には大手堀が残されていました。
この堀の先に黒門口があります。
堀に沿って、散策路が整備されていて、
当時の様子を思い浮かべながら
散策する事が出来ます。
一旦、堀に沿って黒門口に向かった後、
再び大手門に引き返し、いよいよ
金沢城への登城を開始します。
大手門石垣の立派な打ち込みハギの石垣です。
鏡石と呼ばれる巨石が組み込まれ
大手門の威容を示しています。
金沢城の石垣で一番大きな石が
この大手門で使われているそうですが、
写真のこの石がそれでしょうか。
立派な枡形門で、この櫓台には
立派な櫓門が載っていたと思っていましたが
屋根付の棟門が建っていたそうです。
大手門から振り返って城下を眺めた様子です。
石段の先に、当時はどんな町並みが
広がっていたのだろうかと、
思いを巡らしました。
枡形を抜けて振り返って眺めた
大手門の様子です。
大手門を抜けると新丸の
広大な敷地が広がっていました。
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新丸
大手門跡の枡形を抜けると、
目の前に広い敷地が現れました。
ここが新丸です。
この写真は、大手門から
黒門口を眺めた様子です。
新丸の広さは長さ400m、
幅100m程ものあるでしょうか。
江戸時代にはこの広大な新丸に
作事や細工所、道具所それに
割場といった建物が並んでいました。
金沢城の工房を集めた様な
曲輪だったのでしょうか。
新丸の南側には一段高い二の丸があり
二の丸北面の石垣が東西に続いています。
遠くに、二の丸に復元された
菱櫓が見えていました。
1949年(昭和24年)に金沢大学が開校すると
その校舎がこの新丸に置かれました。
1995年(平成7年)に金沢大学が
郊外のキャンパスに移転すると
石川県が国からこの地を取得し、
公園としての整備が開始されました。
新丸の北西にある黒門跡の様子です。
築城当初、大手門だったところです。
この黒門跡から城外に出ると、
左手に大手堀がありました。
黒門から再び城内に戻ります。
黒門から大手門を眺めた様子です。
黒門の正面右手は一段高くなった曲輪で
江戸時代の絵図を見ると御宮あるいは
藤右衛門丸と記されています。
御宮とは東照宮の事で、家康を祀る
華麗な社が建っていたそうですが、
明治以降、尾崎神社として
城外に移されたそうです。
新丸への法面に石垣が築かれていて、
この石垣に沿って、南に沿って進むと
右手に石段が続いていました。
この石垣は明治以降に改変されているようです。
左の石段は御宮御門跡です。
御宮御門跡から東に進むと
先ほど、大手門から遠くに眺めていた
菱櫓そして五十間櫓、橋爪門続櫓の
甍を見上げるようになりました。
この先には復元工事中の
河北門が見えていました。
河北門は、石川門と橋爪門と並び
金沢城の三御門と呼ばれていた門です。
中央に見えるのが一の門、右手には
ニラミ櫓台も復元されています。
そして、一の門の奥に二の門の
立派な櫓門の甍が見えていました。
この河北門は完成した直後の様子で
まだ門を通っての通行は出来ませんでした。
出来上がったばかりの
姿を見せている一の門です。
この河北門をくぐると三の丸を経由して
二の丸へと向かう事が出来ます。
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三の丸
新丸からの坂道を登り、
河北門をくぐり三の丸へと抜けました。
撮影: 2011年10月
河北門は堂々とした櫓門でした。
河北門は大手門から藩主が居住し
藩政の中心になっていた二の丸へと向かう
金沢城の主要な経路に位置し、
実質的な表門とされていた様です。
撮影: 2011年10月
河北門は、立派な桝形門になっています。
三の丸側の櫓門と新丸側の高麗門の間に、
土塀と櫓門に囲われた四角い空間があり、
土塀の向こうには三の丸の菱櫓が見えています。
河北門の櫓門(二の門)の内部の様子です。
撮影: 2011年10月
1759年(宝暦9年)の大火で焼失した後、
1772年(安永元年)に再建されました。
明治となり、金沢城が廃城となった後の
1882年(明治15年)に取り壊されたそうですが、
2010年(平成22年)に、発掘された礎石を用い、
当時のままの姿で復元されました。
河北門の櫓門から眺める高麗門とその
奥に建つ、菱櫓と五十間長屋の様子です。
撮影: 2011年10月
金沢城独特の鉛瓦の屋根が折重なり、
江戸時代当時の百万石・前田藩の
威光が今に伝わります。
撮影: 2011年10月
視界を広げると、新丸が右手に広がっています。
新丸と三ノ丸との段差の違いも良くわかります。
河北門を抜けると左手に
土塀が続いていました。
撮影: 2008年10月
土塀の途中、所々に屋根が付いていました。
この土塀の向こう側、一段低いところが新丸です。
土塀に沿って歩いていくと休憩所があり、
その先に石川門の二の門の立派な
櫓門が聳えていますが、ここで、
河北門の方向に振り返ってみました。
撮影: 2011年10月
三の丸の敷地を隔てて、二の丸の橋爪門続櫓、
五十間櫓そして菱櫓が立派な姿を見せていました。
その右手にある櫓門が河北門です。
鉛瓦に海鼠壁を特徴とする
金沢城の櫓群の立派な姿を
一望にすることが出来ました。
撮影: 2011年10月
江戸時代には、中央の空き地に
三の丸御殿が建てられ、より一層
煌びやかな眺めだった事と思います。
ここから、三の丸の中を
反時計回りに一周しようと思います。
まずは正面に聳える櫓群の右端にある
菱櫓と、その左に伸びる五十間櫓です。
撮影: 2008年10月
左手遠くに見えるのは橋爪門続櫓です。
破風がいくつも設けられた菱櫓とても立派です。
鉛瓦を白漆喰で壁に貼り付けた海鼠壁も
独特の雰囲気を醸し出していました。
菱櫓、五十間櫓そして橋爪門続櫓は1632年
(寛永9年)に築かれ、その後何度も火災に
遭いながらも再建されてきました。
1881年(明治14年)の火災で焼失した後
2001年(平成11年)に復元されています。
木造で、当時のままの姿で忠実に
復元されているそうで、よくぞ
これだけの建物を復元したと思います。
橋爪門続櫓と橋爪門、そして
内堀に沿って伸びる鶴の丸土塀です。
撮影: 2011年10月
橋爪門へと続く橋爪橋が内堀に架かっています。
橋爪門は二の丸へと至る重要な門でした。
復元された橋爪一の門の他に櫓門もあり、
往時は桝形の堅牢な門だったようです。
その橋爪門からの内堀と
鶴の丸土塀の眺めです。
撮影: 2008年10月
左手遠くに現存の石川櫓が見えていました。
この鶴の丸土塀は、二重構造になっていて
隙間には小石が詰められ鉄砲の弾を
通すさない工夫がされているそうです。
また海鼠壁の瓦は、壁の裏側から
鉄砲で割れば、鉄砲狭間になる様に
工夫されているそうですが、
見落としてしまいました。
そして、石川門の石川櫓と続櫓です。
撮影: 2008年10月
石川門は金沢城の搦め手(裏口)門にあたります。
多くの観光客が訪れる兼六園に面し、一の門、二の門、
続櫓や石川櫓と、門を構成する建物がすべて残されて
いるので金沢城でも最も知られていると思います。
続櫓に沿って、左側に回りこむと
石川門の二の門が見えてきました。
撮影: 2008年10月
堂々とした櫓門で、河北門二の門と同じように
ここには海鼠壁は用いられていませんでした。
二の門をくぐり、桝形を抜け、
高麗門形式の一の門をくぐります。
撮影: 2011年10月
振り返ってみた石川櫓と一の門です。
石川櫓には破風がいくつも築かれ、
海鼠壁の門の造りは豪華な城郭建築です。
門の外側は高石垣の上に
海鼠壁の土塀が続いていました。
一の門からは真っ直ぐ土橋が続いています。
撮影: 2008年10月
門や櫓の鉛瓦が幾重にも重なり、
素晴らしい眺めでした。
石川門と兼六園の間は
広い堀が広がっていました。
撮影: 2011年10月
この堀は百間堀と呼ばれ、小立野台との
間を分断する防御上重要な水堀でした。
金沢御堂を攻め滅ぼした佐久間盛政が
1580年(天正8年)から1583年(天正11年)に
築いたそうです。
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鶴の丸
鶴の丸は三の丸と東の丸の
間にある小さな曲輪です。
前田利家の夫人、芳春院が白い鶴が舞い
下りるのを見て鶴の丸と命名したという
言い伝えが残っているそうです。
江戸時代初期には加賀藩二代目藩主・
前田利長が休憩用の御殿を建てたそうですが、
大坂の役の際には、一向宗徒や百姓・町人を
ここに人質として収容したそうです。
三の丸の鶴の丸土塀が途切れたあたり、
以前は三の丸との間に南門がありました。
今は、南門跡から東の丸北面石垣と
鶴の丸倉庫が見えてきます。
撮影: 2008年10月
東の丸北面石垣は、1592年(文禄元年)に
前田利家が石垣改修を行った時のもので、
自然石や粗割りした石を積み重ねた
「野面積み」の石垣です。
撮影: 2008年10月
素朴な積み方の石垣ながら、高さがあり、
金沢城の古い歴史を感じます。
南門跡の東側には水の手門があったところです。
撮影: 2008年10月
石川門から南に続く土塀に、
古い門が残っていました。
鶴の丸は、今では庭園になっています。
鶴の丸土塀の向こうに石川櫓が見えていました。
撮影: 2008年10月
鶴の丸を西に向かうと、橋爪門続櫓や
五十間櫓、菱櫓が見えてきます。
撮影: 2011年10月
櫓群が見渡せるこの眺めも
素晴らしいものでした。
撮影: 2011年10月
この鶴の丸の南側には
本丸の曲輪が一段高い位置にあります。
本丸の北側の戌亥櫓石垣です。
撮影: 2008年10月
高さ7〜8m程の石垣が続き、当時はこの上に
戌亥櫓が乗っていました。
戌亥櫓石垣は「打ち込みハギ」と呼ばれる工法で、
石と石の間に平らな石を嵌め込んでいるそうです。
戌亥櫓石垣に沿って、歩いていきました。
撮影: 2008年10月
この辺りは訪れる観光客も少なく
石垣と曲輪に生える木々の光景は
なかなかいいものでした。
この先に、一段高いところに
鶴の丸倉庫がありました。
撮影: 2008年10月
東の丸附段と呼ばれる曲輪にあるのですが、
名前は何故か鶴の丸倉庫というそうです。
鶴の丸倉庫は総二階造りの倉庫で、
総床面積は659平米もあるそうです。
撮影: 2008年10月
現存の建物との造りが異なるので、明治以降に陸軍の
キャンプになった際に建てられたと考えられていましたが、
最近江戸時代に建てられたとの文章が発見されたそうです。
白壁の倉庫は、酒造会社の倉庫のような雰囲気でした。
撮影: 2008年10月
この倉庫の裏側に回ると、野面積みの
東の丸北面石垣が間近に見えていました。
素朴な造りの石垣ですが、これ程まで
近づいて見ると、迫力さえ感じました。
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二の丸
三の丸から橋爪橋を渡り、
橋爪門一の門をくぐると二の丸です。
撮影: 2008年10月
この写真は橋爪門一の門をくぐり
三の丸を振り返ってきたところです。
当時の橋爪門は櫓門もある枡型門で、
堅牢な構えになっていました。
一の門をくぐると海鼠壁の
橋爪門続櫓が聳えていました。
撮影: 2011年10月
櫓門は復元されておらず残念ですが
威圧感溢れるこの橋爪門続櫓を見るだけでも
当時の物々しさが伝わってきます。
左手に本丸へと続く道を眺めながら
橋爪門続櫓の脇の坂道を上ると
二の丸の御殿跡に出ました。
当時は藩主の居所があり、藩政の中心だった
二の丸も今では所々に木が生えているだけの
空き地になっています。
撮影: 2011年10月
二の丸御殿は菱櫓、五十間櫓や橋爪門続櫓と同じく、
1808年(文化5年)や1881年(明治14年)の
大火で焼失しています。
二の丸御殿跡から眺めた菱櫓と五十間櫓です。
菱櫓は三層三階の建物で金沢城一の
高さを誇っていたそうです。
撮影: 2011年10月
復元されたこれらの櫓群には
中に入ることが出来ます。
菱櫓、五十間櫓と橋爪門続櫓は二の丸の
防御の為に建てられたので、造りは
白漆喰に鉛瓦を貼り付けた海鼠壁の
堅牢な造りになっています。
撮影: 2008年10月
これらの櫓群は釘一つ使わず、伝統的な
木造軸組工法によって再建されています。
複雑に木を繋ぎ合せて組み上げていて
その様子は目を見張りました。
菱櫓の石落しです。
撮影: 2008年10月
菱櫓の破風の下はすべて
石落し構造になっています。
吹き抜け構造となっている
櫓の二階部への階段です。
撮影: 2008年10月
こちらは菱櫓の三階からの眺めです。
撮影: 2008年10月
上の写真左から、新丸と大手門の眺め、
三の丸と石川門、そして二の丸越しに
眺める本丸の様子です。
石垣の上、木々の間に見える建物は
現存の三十間櫓です。
菱櫓はその名の通り、床の形状が鈍角100度、
鋭角80度の菱形形状をしています。
大手門と石川門の二つの門の物見を
同時に行うのに都合のいい形状として
建てられたと考えられているそうです。
撮影: 2008年10月
菱櫓の模型が展示されていました。
当時もこうした模型を造ってから
天守や櫓の建築に取り掛かったようです。
そして、長い五十間櫓の内部の様子です。
撮影: 2008年10月
五十間櫓は、総二階建ての多聞櫓です。
この広々とした五十間櫓には当時、
武器が保管されていたようです。
城壁の役割も兼ねていて、金沢城の中枢部の
二の丸を防御する中心的な役割を担っていたようです。
五十間櫓の南側に建てられている
二層二階建の橋爪門続櫓からの眺めです。
撮影: 2011年10月
左の写真は、五十間櫓と内堀の様子、
右の写真は鶴の丸土塀と石川門の眺めです。
そして南側に本丸の戌亥櫓石垣が見えていました。
撮影: 2008年10月
二の丸の復元櫓群を見終わり、
二の丸の南側を西へと向かいました。
本丸との間の空堀に架かる極楽橋と
現存の三十間櫓の様子です。
撮影: 2008年10月
金沢城の前身・金沢御堂時代から
ここに橋が架かっていたそうです。
二の丸の南西隅にある松阪門跡から
振り返って眺める五十間櫓の様子です。
撮影: 2008年10月
堂々とした、端正な姿が見事でした。
そして、二の丸の北側には
二の丸北面石垣が続いていました。
撮影: 2008年10月
形や大きさをそろえた割石が積まれ、
金沢城で最も形の整った「打ち込みハギ」の
石垣と言われているそうです。
当時は、この石垣の上に二の丸表能舞台の
楽屋に使われた長屋が建てられていたそうです。
二の丸北面石垣の一段下には、
三の丸から北の丸へと続く
細長い曲輪が続いています。
ここからは、一段下がったところにある
新丸を一望する事が出来ました。
撮影: 2008年10月
新丸の南側にある湿生園も見渡せました。
ここは当時は堀になっていたようです。
新丸へと続く法面も綺麗に整備されていました。
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数寄屋敷
数寄屋敷は二の丸の西側部分の曲輪です。
ここには藩主の側室たちの住まいがありました。
新丸から階段を上り、御宮御門跡を抜けると
その右手は、当時東照宮があった
北の丸へと続いています。
ここを左手に折れてまっすぐに
進むと土橋門跡がありました。
北の丸と三の丸を繋ぐ土橋に面して
設けられた事から土橋門という
名が付いたそうです。
1631年(寛永8年)に築かれています。
土橋門は枡形門で、重厚な櫓門があったそうです。
門跡の両側に石垣がありました。
この上に櫓門が載っていたのでしょうか。
見逃してしまいましたが、この石垣には
亀の甲羅を模った六角形の石が
嵌め込まれているようです。
防火の願いが込められていたといい、
この石のお陰で、1808年(文化5年)の
大火でも土橋門が焼けなかったそうです。
土橋門跡を抜け、真っ直ぐ進み
切手門の高麗門をくぐりました。
この先が二の丸の数寄屋敷だったところです。
明治以降に、陸軍が金沢城址に駐留していた際、
数寄屋敷に第六旅団の司令部を設営しており、
その当時の建物が残っています。
ここを訪れた時は生憎の雨模様で
建物も暗く、くすんだ雰囲気でした。
この数寄屋敷と二の丸との間には
数寄屋敷石垣が築かれていました。
綺麗に形の整えられた長方形の石を積む
「切り込みハギ」様式の石垣です。
左手の石垣は1808年(文化5年)に改修されていますが
右手の石垣は1631年(寛永8年)の創建当時のままです。
右手の石の表面には「田」の字や
色々な形の刻印が押されていました。
石の切り出しの作業分担を示す刻印と
考えられているようでした。
数寄屋敷を後に切手門に戻り
東へ向かうと、再び立派な
石垣の門跡がありました。
裏口門です。
この裏口門を抜けると二の丸の
御殿跡へと抜けることが出来ます。
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玉泉院丸
玉泉院丸は二の丸の西南にあった曲輪です。
加賀藩、二代藩主・利長公正室の玉泉院が
住んだので、この名が付いたそうです。
少し前まで石川県立体育館がありましたが
今は、その体育館も解体され、
整備工事が続けられているようです。
この玉泉院丸に面した斜面に
「切り込みハギ」様式の石垣があり
玉泉院丸コースとして整備されていました。
二の丸の南西部にある松坂門から
いもり坂方面へと下っていきます。
松坂門の様子です。
松坂門から、いもり坂を眺めた様子です。
秋、いもり坂口からの登り道の様子です。
いもり坂口は、金沢市の繁華街にも近く
金沢城へと向かう多くの観光客が利用していますが
江戸時代にはこの坂道はなかったようです。
上右の写真、右側にある石垣は
明治以降に築かれたものと思います。
松坂門から坂道を少し下った所で
右下に折れる道がありました。
この道が玉泉院丸コースの散策路です。
斜面の下の薄暗い散策路をしばらく行くと
草むらの中に石垣が見えてきました。
上の写真、手前の石垣を
拡大して撮ってみました。
上部にV字状の石樋があり、その左右に
短冊状の長細い石が配置されています。
その先の石垣です。
草生していますが、切り込みハギの石垣が
間近に見られて迫力がありました。
さらに、玉泉門丸のある谷側に
櫓台のような石垣もありました。
絵図を見ると、この斜面には
幾重にも石垣が築かれていたようです。
玉泉院丸はこの斜面を下った所にあり、
小堀遠州の弟子が作ったと伝わる
回遊式庭園があったとされています。
これらの石垣は、庭園の
借景になっていたのでしょうか。
玉泉院丸からは、現存する石垣より古い
慶長年間(1696年〜1615年)頃に造られた
石垣も発見されているそうです。
庭園を造る時に埋められたと
考えられているようです。
この玉泉院庭園や鼠多門の
復元も検討されているようです。
2011年10月に金沢城を再訪した時の
玉泉院丸の様子です。
撮影: 2011年10月
いまはもっと整備が進んでいる事と思います。
西側の尾山神社から金沢城に向かうと
玉泉院丸の立派な石垣が見えてきます。
撮影: 2011年10月
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本丸・東の丸
橋爪門くぐり、坂を上って二の丸に入ると
そこから南に向かうと本丸です。
右手に二の丸と本丸の間の
堀に架かる極楽橋が見えていました。
撮影: 2011年10月
極楽橋を渡ると、現存の
三十間櫓が見えていました。
三十間櫓は1759年(宝暦9年)の大火で焼失し、
その後、長い間再建されなかったそうですが、
幕末の1858年(安政5年)に再建されたそうです。
撮影: 2011年10月
現存の重みのある堂々とした2層の多聞櫓です。
元々は食器類が収められていた三十間櫓に、
安政の再建後は武器や弾薬が収納されたそうです。
幕末の騒乱で、加賀藩が軍備増強の必要性を
感じていた為に再建されたのでしょうか。
三十間長屋の内部の様子です。
撮影: 2011年10月
内部は暗く、現存城郭建造物の重々しさが伝わります。
三十間長屋は二階構造になっていて、
二階にも上がることが出来ました。
撮影: 2011年10月
この空間に、武具が所狭しと
並べられていた事と思います。
三十間のある曲輪からは二の丸の御殿跡や
復元櫓群がすぐ近くに見ることが出来ました。
撮影: 2008年10月
三十間櫓は本丸に建っていますが、
この一画は狭く、東側に二の丸から本丸への
正門だった立派な鉄門跡がありました。
撮影: 2011年10月
鉄門は創建の時期ははっきりしていないそうです。
石垣の間を渡した櫓が乗った重厚な門で鉄板を
張った扉から鉄門の名が付いたそうです。
鉄門の石垣です。
ここも「切り込みハギ」の
精巧な石垣が組まれています。
撮影: 2008年10月
1759年(宝暦9年)の大火の後、
明和・安永年間に修復されたそうです。
鉄門を抜けると本丸の主郭です。
この先を左に折れ戌亥櫓跡に出ました。
撮影: 2011年10月
戌亥櫓は本丸の北西角に建っていた櫓です。
櫓台の石垣がしっかりと残っています。
二の丸を見下ろす位置にあり、
2層の櫓が建っていたそうです。
この戌亥櫓からの眺めです。
撮影: 2011年10月
二の丸の復元櫓群と三の丸の鶴の丸土塀や
遠く石川門の石川櫓も見渡せ、
城内一の見晴らし台と思います。
戌亥櫓の櫓台から、本丸の東側に向かいました。
本丸は金沢城築城当初は、お城の中心で
1586年(天正14年)頃には天守も建てられ、
本丸御殿も建てられたそうです。
しかし、1602年(慶長7年)に天守が焼失し、更には
1631年(寛永8年)の大火で、本丸御殿も焼失すると、
金沢城の中心は二の丸に移されたようです。
撮影: 2008年10月
今では、本丸は上の写真のように
木々で覆われ、自然に還りつつあります。
本丸の東側には、東の丸との境となる本丸内堀も
あったようですが、今では埋められてしまい、
東の丸との境は判りませんでした。
この雑木林の中を進むうちに
本丸の南東隅にある辰巳櫓跡に出ました。
撮影: 2008年10月
ここは金沢城のある台地の南の端にあたり
辰巳櫓跡からは金沢の中心街の様子が
手に取るように見えていました。
東側には兼六園の杜が見えていました。
兼六園の様子はこちらです。
撮影: 2008年10月
この辰巳櫓跡から北に向かいました。
撮影: 2008年10月
再び、雑木林の中を歩いていきます。
やがて、木々が途切れ丑寅櫓跡に出ました。
ここは本丸の北東隅にあった櫓です。
撮影: 2008年10月
この丑寅櫓は辰巳櫓と同じく、
1759年(宝暦9年)の大火で焼失してしまい、
その後は復元されなかったそうです。
丑寅櫓からの兼六園の眺めです。
撮影: 2008年10月
兼六園の入り口、江戸町跡に建つ
お土産物屋さんが軒を連ねています。
この丑寅櫓の北面の石垣が
鶴の丸で紹介した石垣です。
撮影: 2008年10月
野面積みのこの石垣は1592年(文禄元年)に築かれ、
金沢城で最も古い石垣とされています。
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いもり濠・鯉喉櫓
金沢城の南側は、主郭のある台地が尽き、
武家屋敷のあった長町などのある
低地が続いています。
この南側を守る為に、玉泉院や本丸の
南側は高石垣が築かれ、石垣の袂には、
いもり濠が配置されていました。
撮影: 2011年10月
上の写真は、玉泉院の石垣です。
この東側に本丸の石垣が続いています。
本丸南側の石垣が続き、その下に
芝生の平地が広がっています。
撮影: 2011年10月
綺麗に整備された芝生が
とても気持ちいい眺めです。
芝生の南側(上写真の右側)にいもり堀が復元され、
またこの先、左手には本丸の石垣が続いています。
撮影: 2011年10月
本丸南側の高石垣は二段に分かれていますが、
下の段の石垣は江戸時代の積み方とは
異なっている様に思います。
金沢城には戦国末期から江戸時代にかけての
色々な組み方の石垣があり、遊歩道に沿って
石組の説明や、石が展示されていました。
遊歩道を歩いて行くと、本丸南東角にある
辰巳櫓の高石垣が見えて来ました。
この石垣は20m近い高低差があります。
撮影: 2011年10月
残念ながら明治以降に、石垣が改変され
三段の石垣になっていますが、江戸時代は
麓から高石垣が築かれていたようです。
この南側に鯉喉櫓台が復元されていました。
鯉喉櫓台といもり堀の様子です。
撮影: 2011年10月
鯉喉櫓台は1664年(寛文4年)に築かれました。
しかし、戦乱の時代は既に終わっていて、
櫓は築かれなかったそうです。
いもり堀と鯉喉櫓台のこの眺めも
素晴らしいものでした。
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