タクシーを、丸岡城に隣接している
歴史民族資料館前で降り、
丸岡城へと向かいます。
左の建物が歴史民族資料館です。
真ん中の石段を上がっていきます。
途中にあった丸岡八幡神社です。
築城以来この地にあったお城の鎮守社です。
明治以降には荒れていたようですが、
丸岡城天守再建の際に、
この神社も再建されたようです。
階段を上り、小高い丘に登ると
丸岡城本丸跡に出ました。
今では空き地が広がっていますが
江戸時代には御殿が建てられていたようです。
そして、本丸の西の端に近いあたりに
日本最古の望楼型天守が聳えていました。
高さ22mの小ぶりな天守です。
1934年(昭和9年)に国宝に指定されましたが、
1948年(昭和23年)の福井大震災で倒壊し、
1955年(昭和30年)に修復再建されています。
現在は重要文化財に指定されています。
丸岡城の本丸には、色々な史跡がありました。
まず目に付いたのは、牛ヶ島石棺です。
丸岡の近くの古墳から
出土した石棺ということです。
この地は継体天皇の母親の出身地で、
古くからの歴史があるようです。
そして、丸岡城の人柱となったと伝えられる
「お静慰霊碑」です。
案内板によると、丸岡城築城の際、
天守台の石垣が何度も崩れるため、
人柱を立てることなり、貧しい片目の
お静が人柱に選ばれたそうです。
お静には二人の子供が居り、
そのうちの一人を士分に取り立てることを
条件に人柱になることを受け入れたそうですが、
お静の子供が成人する前に柴田勝豊が
移封となり、その約束が果たせなかったそぅです。
丸岡城では、4月にお堀の藻を刈るときに
毎年大雨に見舞われ、それがお静の涙雨とされ
その霊を慰めたそうです。
そしてこれは雲井竜神を祀った祠です。
丸岡城は一向一揆との戦いの舞台になったお城ですが、
戦の度に大蛇が現れ、霞を吹いて城の危機を救った
という言い伝えがあるそうです。
この祠はその大蛇を祀ったもののようです。
そして、丸岡城はこの言い伝えから
霞ヶ城という別名があります。
この井戸が大蛇が現れたと
伝えられる井戸です。
上屋が建てられていて、やはり
何か曰くありげな雰囲気です。
そして、いよいよ日本最古の天守に登城です。
急な石段を登って天守に向かうのですが、
石段の傍らに石の鯱が置かれていました。
この石製の鯱は昭和の修理から
福井大震災までの間、丸岡城天守に
載っていた鯱だそうです。
1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)に
行われた修理の際に材料不足だった為に、
瓦と同じ石製の鯱に置き換えたそうですが、
福井大震災後の修復で、オリジナルの
木彫銅版張りの鯱に戻したそうです。
丸岡城天守の内部です。
420余年の歳月を感じさせる
風格のある作りです。
2階の窓の外からは、丸岡城天守特有の
石瓦の屋根を間近に見ることが出来ました。
石瓦の枚数は6,000枚もあり、
総重量はなんと75トンにも達するそうです。
急な階段を上って、3階に向かいます。
どのお城も階段の傾斜がとても急で
足を踏み外してしまいそうです。
天守に上ってみると、今まで曇っていた空が
急に晴れ上がり、日が差してきました。
東には(上の写真、左側)、虹が架かっていました。
低い位置に見る虹はとても珍しかったです。
最上階の天守内の様子です。
やはり、現存天守の内部は
歴史を感じさせる佇まいです。
天守に上った後、空を見上げてみると
青空が広がっていました。
青空に天守のシルエットが綺麗でした。
帰り道は天守の西側の
階段を下って戻りました。
当時はこちらの階段が大手門へと
通じる登城ルートだったようです。
このあたりの石垣は当時からの
野面積みの石垣が残っているのですが、
しっかり見るのを忘れてしまいました。
天守の南側の昔は内堀だったあたりは、
現在は霞ヶ城公園として整備されています。
11月の下旬、少し遅めの
紅葉がとてもきれいでした。
この丸岡で有名になっているのは、
一筆啓上の手紙です。
江戸時代になって藩主として入封した
本多成重公の父、本多作左衛門重次が
長篠・設楽が原の戦いに参陣していた折、