三の丸
松本城三の丸は、現在の松本の地名でいうと、
大名2丁目から4丁目にかけて、女鳥羽川の
北側で松本城公園の南側にかけての辺りです。
三の丸は、松本城の外堀を取り囲んでいたので、
松本城北側の松本神社辺りも三の丸でした。
松本駅から東に向かい、本町通りで左に折れ、
北に向かうと千歳橋を渡ります。
撮影: 2012年9月
ここを渡り終えた所が、松本城の大手門でした。
惣堀に浮かぶように枡形が築かれていた様です。
今はこの辺りの惣堀は埋め立てられていますが、
松本市では惣堀の復元計画もあるそうです。
千歳橋から眺める女鳥羽川の様子です。
撮影: 2010年10月
当時は惣堀のすぐ南側を流れていた様です。
この川も、松本城の外堀の役割を果たしていたと思います。
街中に井戸がある松本の街中を散策しながら
大手門跡から東に向かうと、四柱神社の
東側に道幅が広い一角がありました。
撮影: 2010年10月
ここが江戸時代の辰巳御殿跡になります。
今は、当時を偲ぶよすがもありませんが、
綺麗に整備され、湧水を湛える井戸もありました。
撮影: 2010年10月
この辰巳御殿跡の東には、東門馬出跡がありました。
当時、松本城の惣堀には4か所の馬出があり、
この東門馬出はその中で最も大きかったそうです。
撮影: 2010年10月
馬出は、堀の内側の三の丸から土橋が架けられ
堀に浮かぶ島のような形をしていました。
撮影: 2010年10月
ここに兵を終結させたりする事が出来、
城の防御性を向上させる事が可能です。
この東門馬出跡から北に向かうと、
惣堀が今も残っていました。
撮影: 2010年10月
当時は松本城の三の丸の周囲を3.5kmもの総延長で
囲っていましたが、今では僅か300m程しか残っていません。
それでも、惣堀端に立って眺めると、さすがに趣があり
当時の様子に思いを馳せることが出来ました。
いま残る惣堀の北の端には、埋め立てられた堀の跡に
小さな公園が作られ、そこに掘られた井戸からは
こんこんと湧水が流れ出しています。
撮影: 2010年10月
当時、ここには北門馬出がありました。
この北門馬出も規模が大きかったようで、松本城の
馬出としては東門に次ぐ大きさだったようです。
当時の惣堀は、この北門で西に折れ、
松本城の北側を囲うように配されていました。
松本城の北側は外堀と惣堀との間隔が狭く、
その細長い曲輪には葵の馬場があったそうです。
撮影: 2010年10月
そんな当時の様子を偲ばせるような景色もありました。
この先には、松本神社がありました。
元々、松本神社は暘谷大神社という名前で、松本城主の松平康長と
その正室・松姫を祀っていましたが、江戸中期に戸田氏先祖の戸田宗光、
三河田原の領主だった一色義遠、そして昭和に入り深志城の
築城者・島立貞永が合祀され、松本神社と改名したそうです。
撮影: 2010年10月
松本神社の神門は、城門の様に立派で、
境内からは、国宝の天守も眺めることが出来ました。
江戸時代には、この地に不明門があったようです。
松本城三の丸の様子は、松本の散策記のページもご参照ください。
三の丸跡の至る所で湧水が流れています。
松本の散策記はこちらです。
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二の丸
松本城の三の丸の東側を巡り、
二の丸の北東から松本城の外堀を渡りました。
撮影: 2010年10月
松本城の三の丸は、すっかり市街地化されていますが、
外堀の大部分と内堀が残り、それらに囲われた
二の丸と本丸は松本城公園として整備されています。
この辺りは二の丸裏御門がありしました。
二の丸裏御門橋から眺める外堀の様子です。
撮影: 2010年10月
二の丸の東北角には櫓台もありました。
観光客の多い松本城ですが、この辺りまで
訪れる人は少ないようで、落ち着いたたたずまいです。
この辺りに、江戸時代には二の丸御殿が建っていました。
いま、その御殿は平面復元されています。
撮影: 2010年10月
櫓台から眺める二の丸御殿跡の様子です。
二の丸御殿は天守と同じく1594年(文禄3年)頃に建てられたとも
1633年(寛永10年)頃に建てられたともいわれています。
当初は松本藩の副政庁として使われていましたが、
1727年(享保12年)に本丸御殿が焼失して以来、
正政庁として使われたそうです。
撮影: 2010年10月
二の丸御殿跡から松本城天守を眺めることが出来ました。
松本城の天守は、どこから見ても端正な姿をしています。
二の丸御殿跡の南東側の様子です。
こちら側が、御殿の表側になります。
撮影: 2010年10月
二の丸御殿跡の南には柵が巡らされ、
冠木門がありました。
撮影: 2010年10月
冠木門の東側には、太鼓門が復元されています。
太鼓門は1595年(文禄4年)頃、石川康長によって築かれています。
外桝形様式の堅牢な門で、二の丸への正門の役割を果たしていました。
撮影: 2010年10月
上の写真は、太鼓門を東側から眺めた様子と
二の丸の東側に築かれた外堀の様子です。
この太鼓門は1871年(明治4年)に取り壊されてしまいましたが
1999年(平成11年)に木造で復元されています。
太鼓門から再び二の丸に入り、西へと向かいました。
二の丸は敷地の幅が狭く、すぐに二の丸と
本丸との間に横たわる内堀に辿り着きます。
撮影: 2010年10月
内堀の対岸には黒門が見えていますが、
この内堀に沿って左に折れました。
左側には松本市の博物館が建っています。
その南側に出ると、松本城の入り口があります。
撮影: 2010年10月
現在は、松本城の南側から、本丸の入り口にあたる黒門に
真っすぐ行けるようになっていますが、当時はここには橋はなく、
外堀を回り、先ほどの太鼓門に向かう必要がありました。
現在の松本城入り口の東側に伸びる外堀の様子です。
撮影: 2010年10月
外堀も現在は、この西側の部分が
埋め立てられてしまっています。
ここから、再び、二の丸に戻りました。
外堀と内堀に挟まれた二の丸の幅は狭く、
すぐに、本丸の入り口の黒門が見えて来ます。
本丸は後回しにして、内堀に沿って西側に向かいました。
やがて内堀の向こうに、国宝の松本城天守が見えてきました。
撮影: 2010年10月
松本城天守は、大天守に乾小天守が渡櫓によって連結され、
辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式天守です。
この内堀越しに眺める天守の姿は、まさに絶品です。
黒漆塗り下見板で覆われ、黒く輝く天守は
とても貫禄がありました。
撮影: 2010年10月
この角度がベストアングルでしょうか。
この二の丸が、まるで天守を眺める舞台として設計された
かの様に、美しい天守の姿を眺めることが出来ました。
この先、二の丸の外れの外堀の様子です。
撮影: 2010年10月
この近くに松本城鎮守若宮八幡神宮跡がありました。
撮影: 2010年10月
松本城の前身の深志城を築城した
島立右近貞永が葬られていると言われています。
若宮八幡宮跡から眺める松本城天守の様子です。
撮影: 2010年10月
赤い埋の橋越しに眺める松本城天守です。
この赤い橋は当時からあったと思っていたのですが、
古い絵図ではこの位置に内堀と外堀を分ける
足駄塀という塀が設けられていたようです。
本丸の北を巡る外堀の様子です。
撮影: 2010年10月
この辺りは観光客も少なく、
ひっそりとした佇まいでした。
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本丸・国宝天守
松本城の内堀越しに国宝の天守を眺めた後、
いよいよ本丸へと向かいました。
撮影: 2010年10月
本丸への入り口となっている黒門です。
櫓門の一の門と、高麗門の二の門からなる桝形門です。
撮影: 2010年10月
一の門は1960年(昭和35年)に、二の門とその脇に
続く袖門は1989年(平成元年)に復元されたそうです。
2010年に訪れた際には、櫓門の一部が
修復中で、白い幕が掛っていました。
黒門を抜けると、本丸となり、
松本城天守が聳えていました。
天守の右側に渡り櫓と乾小天守、
左側には小さく辰巳附櫓が見えています。
撮影: 2010年10月
辰巳附櫓の手前に、建っているのが月見櫓です。
本丸は芝生で覆われ、綺麗に整備されています。
江戸時代初期には、この辺りに本丸御殿が建っていました。
建坪は630坪、60以上の部屋があり、松本藩の政庁として
使われていましたが、1727年(享保12年)に焼失し、
それ以降再建されることはなかったそうです。
天守に向かって歩いて行くと、
本丸の北側に桜の木がありました。
清正公駒つなぎの桜と呼ばれています。
撮影: 2010年10月
松本城天守が落成した頃、熊本城主の加藤清正が
江戸からの帰りに、松本城に立ち寄ったそうです。
その際に、城主・石川康長が土産として選りすぐった名馬
2頭を差し出し、このうち一頭を差し上げると伝えたそうです。
これを受けて清正は、「康長公程の目利きの方が選んだ馬を、
どうして私などが選ぶことが出来ましょうか」と言い、
2頭とも持ち帰ってしまったそうです。
この話を伝え聞いた人は、さすが清正と感じ入ったそうです。
天守の前にやってきました。
撮影: 2010年10月
5層6階の天守と3層4階の乾小天守が聳えていました。
渡櫓と乾小天守
松本城国宝天守へは乾小天守との間にある渡櫓から入ります。
撮影: 2010年10月
渡櫓から棟続きの乾小天守へと入りました。
"乾"は、北西の方角を示す言葉ですが、実際には
松本城の小天守は天守の北に位置しています。
「北」は叛く、敗れるという意味があって
嫌われた為だそうです。
撮影: 2012年9月
乾小天守一階の様子です。
急な階段を上り、二階に上がりました。
撮影: 2010年10月
内部は武骨な造りで、窓の少ない構造で暗く、
現存の城郭建築という事を実感します。
撮影: 2010年10月
西側に設けられた明り取りの格子です。
築城年の古い松本城は、鉋が普及する前に建てられたのか、
格子の木組みには釿の跡が浮き上がっていました。
撮影: 2010年10月
乾小天守は、通常公開されているのは一階と二階のみという事ですが、
2010年10月に訪れた際には、四階まで行く事が出来ました。
小天守の三階は明かり窓もない、真っ暗な空間でした。
そこを抜け、四階に上がると、それまでの武骨な
造りとは変わり、花頭窓が設けられていました。
撮影: 2010年10月
元々は鎌倉期に中国から導入された仏教建築ですが
城郭建築では格式の高い所に用いられたそうです。
乾小天守四階から眺める西側の眺めです。
撮影: 2010年10月
眼下に内堀が広がり、埋の橋の
赤色がいいアクセントになっていました。
国宝・天守
乾小天守の2階から渡櫓の2階を抜け、
大天守の1階へと進みました。
撮影: 2010年10月
天守の1階も鉄砲狭間ぐらいしか、陽の光が
差し込むところもなく、薄暗い空間でした。
撮影: 2010年10月
そんな薄暗い天守1階ですが、展示物もありました。
撮影: 2010年10月
上の写真左端は、鯱真木
(しゃちしんぎ)
というそうです。
大棟下の棟木に取り付けられ、この木の先に
鯱が取り付けられていたそうです。
下の写真は、辰巳附櫓に取り付けられていた懸魚芯材です。
撮影: 2012年9月
懸魚は破風屋根に取り付けられています。
火除けとも棟木の切り口を隠す為とも言われてるそうです。
急な階段を上り、2階に上がりました。
天守2階は鉄砲蔵として、火縄銃などの
数多くの展示物がありました。
撮影: 2010年10月
これらの展示物は、松本出身の赤羽通重氏という方が
個人で収集したコレクションを寄付したものだそうです。
天守2階の明り取りの格子です。
撮影: 2012年9月
ここから内堀越しに二の丸の様子を眺める事が出来ました。
撮影: 2010年10月
松本城天守は6階建ですが、2階より上の階には
破風があったりして、なかなか眺望が開けていません。
内堀がこれ程眺められるのも、ここだけでした。
再び、急な階段を上りました。
撮影: 2012年9月
松本城の階段は、現存天守の中でも急なようで
角度でいうと60度にもなるそうです。
女性の方は、服装にも注意が必要です。
階段を上った3階は、屋根裏の位置にあり、明り取りの窓が少なく、
南側に設けられた千鳥破風の木連格子からの明かりだけです。
撮影: 2010年10月
3階から4階に上がると、天井も高く、
室内も明るく景色が一変しました。
撮影: 2010年10月
天守4階には、御座所もあり、有事の際には
ここに城主を迎える事が考えられていたようです。
撮影: 2012年9月
ここは5階の様子です。
外観としては、南に唐破風、
西に千鳥破風が設けられています。
撮影: 2010年10月
5階から天守西北に架かる埋の橋を眺める事が出来ました。
撮影: 2012年9月
この景色を眺めた後に、いよいよ最上階に向かいます。
6階へと向かう階段には踊り場が設けられていました。
撮影: 2010年10月
天守最上階の様子です。
この天守は元々は廻縁が設けられ、
高欄が巡らされる筈だったそうです。
廻縁になる筈だった6階の一番外側には
武者走りが設けられていました。
撮影: 2010年10月
この設計変更で、すらっとした
松本城天守の外観が形作られています。
天守の最上階からの眺めです。
乾小天守が真下に眺められました。
撮影: 2010年10月
南側(上左写真)は松本市街の眺めです。
江戸時代には超高層建築だった松本城天守も
近代のビルの中では埋もれてしまいそうです。
こちらは天守の天井の様子です。
梁が井形に組まれ、その上には軒を支える桔木が
四方に向かって配置されています。
撮影: 2012年9月
桔木の中央部分に荷重がかかり、軒先の位置では
上向きの力が掛って、屋根が下がらない仕組みになってるそうです。
その天井の上の方に、神様が祀られていました。
撮影: 2010年10月
祀られているのは、月齢26日の月を拝む
二十六夜神だそうです。
1617年(元和3年)に松本に移封となった
戸田氏が祀ったのが始まりだそうです。
辰巳附櫓
松本城天守を見終えて、辰巳附櫓に向かいました。
撮影: 2012年9月
この辰巳附櫓は、1634年(寛永11年)に松平直政が建てたものです。
豊臣家も既に滅び、泰平の世が始まっている為、
この辰巳附櫓には石落などの防御設備は設けられていません。
展示室となっている辰巳附櫓2階の様子です。
撮影: 2010年10月
この辰巳附櫓の展示物も、
故赤羽夫妻の寄贈したものだそうです。
撮影: 2012年9月
ここにも花頭窓が設けられています。
花頭窓のシルエットにも優美さを感じました。
辰巳附櫓から月見櫓に向かいます。
撮影: 2012年9月
その途中、大天守を眺めることが出来ました。
月見櫓
辰巳附櫓の1階に下り、月見櫓に向かいました。
撮影: 2010年10月
月見櫓も1634年(寛永11年)に建てられています。
この年、将軍・徳川家光が善光寺詣でをし、
その帰りに松本城に立ち寄るという事で、
この月見櫓と辰巳附櫓が建てられたそうです。
天下泰平の世の中、この月見櫓は戦とは
全く関係のない造りになっています。
撮影: 2010年10月
朱色に塗られた刎ね勾欄が優美さを伝えます。
撮影: 2010年10月
家光は結局、松本には立ち寄れなくなったそうですが、
松本の藩主は、ここで月見を楽しんだことでしょう。
こうして、見応えのある松本城の登城を終えました。
撮影: 2012年10月
この出口で、江戸時代から現代へと
タイムトラベルしたような感じになりました。
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