松本城
Matsumoto Castle, Japan

登城日:
2010. 10. 19, 2012. 9. 11

【松本城 概要】

松本城は、戦国時代に信濃守護・小笠原氏が
築城した深志城がルーツになっています。
1504年から1520年にかけての永正年間とされています。

その後、この地は武田信玄の支配下になりますが、
1582年(天正10年)に武田氏滅亡後、徳川家康の家臣になっていた
小笠原貞慶が城主となり、松本城と名を改めたといわれています。

1590年(天正18年)の小田原征伐の後に、松本の地は
秀吉家臣の石川数正の所領となり、城郭整備が行われ、
その子・康長によって1594年(文禄3年)頃に
天守が竣工したといわれています。

この時の天守が今に残り、松本城天守は国宝に指定されています。

松本城はJR松本駅の北約1km程の所にあります。

松本城が築かれた土地は女鳥羽川と簿川の作る扇状地で、
小笠原氏が深志城を築いた頃には、深志城の東側に
既に市場町が形成されていたようです。

江戸時代に入り、石川康長が大久保長安事件で改易となると
その後、松平康長をはじめとする戸田松平氏や水野氏
といった譜代大名が城主となり松本藩を治めました。

下の写真は、松本城を北側から眺めた俯瞰図です。


本丸周囲を内堀が囲み、二の丸が南側を囲っています。
その更に外側を外堀が囲み、三の丸が外堀の
外側に広がっています。

三の丸の外側には惣堀が巡らされていました。


現在は、本丸と二の丸が松本城公園として整備されています。
内堀は残っていますが、外堀は東側から北側にかけて
約半分程、惣堀は東側の300m程が残っているばかりです。

この松本城には何度か訪れた事があります。
最近では2010年10月と2012年9月に訪れました。
その際の様子を紹介します。

【松本城へのアクセス】

JR松本駅から1km程、徒歩約15分程です。

途中に、上杉謙信が武田信玄に送った塩を乗せた
牛車が繋がれた牛つなぎ石や大手門跡もあります。

松本の散策記はこちらです。

またアルピコ交通のタウンスニーカー号
北コースでも行く事が出来ます。

日中概ね1時間に一本の頻度で、
最寄りの丸の内まで、松本駅から8分。
運賃は200円です。

アルピコ交通、タウンスニーカー号
北コースのサイトはこちらです。

【松本城登城記】

三の丸
Aug. 24, '16
二の丸
Aug. 30, '16
本丸・国宝天守
NEW ! Sep. 16, '16

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三の丸

松本城三の丸は、現在の松本の地名でいうと、
大名2丁目から4丁目にかけて、女鳥羽川の
北側で松本城公園の南側にかけての辺りです。

三の丸は、松本城の外堀を取り囲んでいたので、
松本城北側の松本神社辺りも三の丸でした。

松本駅から東に向かい、本町通りで左に折れ、
北に向かうと千歳橋を渡ります。


撮影: 2012年9月

ここを渡り終えた所が、松本城の大手門でした。
惣堀に浮かぶように枡形が築かれていた様です。

今はこの辺りの惣堀は埋め立てられていますが、
松本市では惣堀の復元計画もあるそうです。

千歳橋から眺める女鳥羽川の様子です。


撮影: 2010年10月

当時は惣堀のすぐ南側を流れていた様です。
この川も、松本城の外堀の役割を果たしていたと思います。

街中に井戸がある松本の街中を散策しながら
大手門跡から東に向かうと、四柱神社の
東側に道幅が広い一角がありました。


撮影: 2010年10月

ここが江戸時代の辰巳御殿跡になります。

今は、当時を偲ぶよすがもありませんが、
綺麗に整備され、湧水を湛える井戸もありました。


撮影: 2010年10月

この辰巳御殿跡の東には、東門馬出跡がありました。

当時、松本城の惣堀には4か所の馬出があり、
この東門馬出はその中で最も大きかったそうです。


撮影: 2010年10月

馬出は、堀の内側の三の丸から土橋が架けられ
堀に浮かぶ島のような形をしていました。


撮影: 2010年10月

ここに兵を終結させたりする事が出来、
城の防御性を向上させる事が可能です。

この東門馬出跡から北に向かうと、
惣堀が今も残っていました。


撮影: 2010年10月

当時は松本城の三の丸の周囲を3.5kmもの総延長で
囲っていましたが、今では僅か300m程しか残っていません。

それでも、惣堀端に立って眺めると、さすがに趣があり
当時の様子に思いを馳せることが出来ました。

いま残る惣堀の北の端には、埋め立てられた堀の跡に
小さな公園が作られ、そこに掘られた井戸からは
こんこんと湧水が流れ出しています。


撮影: 2010年10月

当時、ここには北門馬出がありました。

この北門馬出も規模が大きかったようで、松本城の
馬出としては東門に次ぐ大きさだったようです。

当時の惣堀は、この北門で西に折れ、
松本城の北側を囲うように配されていました。

松本城の北側は外堀と惣堀との間隔が狭く、
その細長い曲輪には葵の馬場があったそうです。


撮影: 2010年10月

そんな当時の様子を偲ばせるような景色もありました。

この先には、松本神社がありました。

元々、松本神社は暘谷大神社という名前で、松本城主の松平康長と
その正室・松姫を祀っていましたが、江戸中期に戸田氏先祖の戸田宗光、
三河田原の領主だった一色義遠、そして昭和に入り深志城の
築城者・島立貞永が合祀され、松本神社と改名したそうです。


撮影: 2010年10月

松本神社の神門は、城門の様に立派で、
境内からは、国宝の天守も眺めることが出来ました。

江戸時代には、この地に不明門があったようです。

松本城三の丸の様子は、松本の散策記のページもご参照ください。
三の丸跡の至る所で湧水が流れています。

松本の散策記はこちらです。

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二の丸

松本城の三の丸の東側を巡り、
二の丸の北東から松本城の外堀を渡りました。


撮影: 2010年10月

松本城の三の丸は、すっかり市街地化されていますが、
外堀の大部分と内堀が残り、それらに囲われた
二の丸と本丸は松本城公園として整備されています。

この辺りは二の丸裏御門がありしました。
二の丸裏御門橋から眺める外堀の様子です。


撮影: 2010年10月

二の丸の東北角には櫓台もありました。

観光客の多い松本城ですが、この辺りまで
訪れる人は少ないようで、落ち着いたたたずまいです。

この辺りに、江戸時代には二の丸御殿が建っていました。
いま、その御殿は平面復元されています。


撮影: 2010年10月

櫓台から眺める二の丸御殿跡の様子です。

二の丸御殿は天守と同じく1594年(文禄3年)頃に建てられたとも
1633年(寛永10年)頃に建てられたともいわれています。

当初は松本藩の副政庁として使われていましたが、
1727年(享保12年)に本丸御殿が焼失して以来、
正政庁として使われたそうです。


撮影: 2010年10月

二の丸御殿跡から松本城天守を眺めることが出来ました。
松本城の天守は、どこから見ても端正な姿をしています。

二の丸御殿跡の南東側の様子です。
こちら側が、御殿の表側になります。


撮影: 2010年10月

二の丸御殿跡の南には柵が巡らされ、
冠木門がありました。


撮影: 2010年10月

冠木門の東側には、太鼓門が復元されています。

太鼓門は1595年(文禄4年)頃、石川康長によって築かれています。
外桝形様式の堅牢な門で、二の丸への正門の役割を果たしていました。


撮影: 2010年10月

上の写真は、太鼓門を東側から眺めた様子と
二の丸の東側に築かれた外堀の様子です。

この太鼓門は1871年(明治4年)に取り壊されてしまいましたが
1999年(平成11年)に木造で復元されています。

太鼓門から再び二の丸に入り、西へと向かいました。
二の丸は敷地の幅が狭く、すぐに二の丸と
本丸との間に横たわる内堀に辿り着きます。


撮影: 2010年10月

内堀の対岸には黒門が見えていますが、
この内堀に沿って左に折れました。
左側には松本市の博物館が建っています。

その南側に出ると、松本城の入り口があります。


撮影: 2010年10月

現在は、松本城の南側から、本丸の入り口にあたる黒門に
真っすぐ行けるようになっていますが、当時はここには橋はなく、
外堀を回り、先ほどの太鼓門に向かう必要がありました。

現在の松本城入り口の東側に伸びる外堀の様子です。


撮影: 2010年10月

外堀も現在は、この西側の部分が
埋め立てられてしまっています。

ここから、再び、二の丸に戻りました。
外堀と内堀に挟まれた二の丸の幅は狭く、
すぐに、本丸の入り口の黒門が見えて来ます。

本丸は後回しにして、内堀に沿って西側に向かいました。
やがて内堀の向こうに、国宝の松本城天守が見えてきました。


撮影: 2010年10月

松本城天守は、大天守に乾小天守が渡櫓によって連結され、
辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式天守です。

この内堀越しに眺める天守の姿は、まさに絶品です。
黒漆塗り下見板で覆われ、黒く輝く天守は
とても貫禄がありました。


撮影: 2010年10月

この角度がベストアングルでしょうか。
この二の丸が、まるで天守を眺める舞台として設計された
かの様に、美しい天守の姿を眺めることが出来ました。

この先、二の丸の外れの外堀の様子です。


撮影: 2010年10月

この近くに松本城鎮守若宮八幡神宮跡がありました。


撮影: 2010年10月

松本城の前身の深志城を築城した
島立右近貞永が葬られていると言われています。

若宮八幡宮跡から眺める松本城天守の様子です。


撮影: 2010年10月

赤い埋の橋越しに眺める松本城天守です。

この赤い橋は当時からあったと思っていたのですが、
古い絵図ではこの位置に内堀と外堀を分ける
足駄塀という塀が設けられていたようです。

本丸の北を巡る外堀の様子です。


撮影: 2010年10月

この辺りは観光客も少なく、
ひっそりとした佇まいでした。

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本丸・国宝天守

松本城の内堀越しに国宝の天守を眺めた後、
いよいよ本丸へと向かいました。


撮影: 2010年10月

本丸への入り口となっている黒門です。
櫓門の一の門と、高麗門の二の門からなる桝形門です。


撮影: 2010年10月

一の門は1960年(昭和35年)に、二の門とその脇に
続く袖門は1989年(平成元年)に復元されたそうです。

2010年に訪れた際には、櫓門の一部が
修復中で、白い幕が掛っていました。

黒門を抜けると、本丸となり、
松本城天守が聳えていました。

天守の右側に渡り櫓と乾小天守、
左側には小さく辰巳附櫓が見えています。


撮影: 2010年10月

辰巳附櫓の手前に、建っているのが月見櫓です。

本丸は芝生で覆われ、綺麗に整備されています。
江戸時代初期には、この辺りに本丸御殿が建っていました。

建坪は630坪、60以上の部屋があり、松本藩の政庁として
使われていましたが、1727年(享保12年)に焼失し、
それ以降再建されることはなかったそうです。

天守に向かって歩いて行くと、
本丸の北側に桜の木がありました。
清正公駒つなぎの桜と呼ばれています。


撮影: 2010年10月

松本城天守が落成した頃、熊本城主の加藤清正が
江戸からの帰りに、松本城に立ち寄ったそうです。
その際に、城主・石川康長が土産として選りすぐった名馬
2頭を差し出し、このうち一頭を差し上げると伝えたそうです。

これを受けて清正は、「康長公程の目利きの方が選んだ馬を、
どうして私などが選ぶことが出来ましょうか」と言い、
2頭とも持ち帰ってしまったそうです。

この話を伝え聞いた人は、さすが清正と感じ入ったそうです。

天守の前にやってきました。


撮影: 2010年10月

5層6階の天守と3層4階の乾小天守が聳えていました。

渡櫓と乾小天守

松本城国宝天守へは乾小天守との間にある渡櫓から入ります。


撮影: 2010年10月

渡櫓から棟続きの乾小天守へと入りました。

"乾"は、北西の方角を示す言葉ですが、実際には
松本城の小天守は天守の北に位置しています。
「北」は叛く、敗れるという意味があって
嫌われた為だそうです。


撮影: 2012年9月

乾小天守一階の様子です。

急な階段を上り、二階に上がりました。


撮影: 2010年10月

内部は武骨な造りで、窓の少ない構造で暗く、
現存の城郭建築という事を実感します。


撮影: 2010年10月

西側に設けられた明り取りの格子です。
築城年の古い松本城は、鉋が普及する前に建てられたのか、
格子の木組みには釿の跡が浮き上がっていました。


撮影: 2010年10月

乾小天守は、通常公開されているのは一階と二階のみという事ですが、
2010年10月に訪れた際には、四階まで行く事が出来ました。

小天守の三階は明かり窓もない、真っ暗な空間でした。
そこを抜け、四階に上がると、それまでの武骨な
造りとは変わり、花頭窓が設けられていました。


撮影: 2010年10月

元々は鎌倉期に中国から導入された仏教建築ですが
城郭建築では格式の高い所に用いられたそうです。

乾小天守四階から眺める西側の眺めです。


撮影: 2010年10月

眼下に内堀が広がり、埋の橋の
赤色がいいアクセントになっていました。

国宝・天守

乾小天守の2階から渡櫓の2階を抜け、
大天守の1階へと進みました。


撮影: 2010年10月

天守の1階も鉄砲狭間ぐらいしか、陽の光が
差し込むところもなく、薄暗い空間でした。


撮影: 2010年10月

そんな薄暗い天守1階ですが、展示物もありました。


撮影: 2010年10月

上の写真左端は、鯱真木 (しゃちしんぎ) というそうです。
大棟下の棟木に取り付けられ、この木の先に
鯱が取り付けられていたそうです。

下の写真は、辰巳附櫓に取り付けられていた懸魚芯材です。


撮影: 2012年9月

懸魚は破風屋根に取り付けられています。
火除けとも棟木の切り口を隠す為とも言われてるそうです。

急な階段を上り、2階に上がりました。
天守2階は鉄砲蔵として、火縄銃などの
数多くの展示物がありました。


撮影: 2010年10月

これらの展示物は、松本出身の赤羽通重氏という方が
個人で収集したコレクションを寄付したものだそうです。

天守2階の明り取りの格子です。


撮影: 2012年9月

ここから内堀越しに二の丸の様子を眺める事が出来ました。


撮影: 2010年10月

松本城天守は6階建ですが、2階より上の階には
破風があったりして、なかなか眺望が開けていません。
内堀がこれ程眺められるのも、ここだけでした。

再び、急な階段を上りました。


撮影: 2012年9月

松本城の階段は、現存天守の中でも急なようで
角度でいうと60度にもなるそうです。
女性の方は、服装にも注意が必要です。

階段を上った3階は、屋根裏の位置にあり、明り取りの窓が少なく、
南側に設けられた千鳥破風の木連格子からの明かりだけです。



撮影: 2010年10月

3階から4階に上がると、天井も高く、
室内も明るく景色が一変しました。


撮影: 2010年10月

天守4階には、御座所もあり、有事の際には
ここに城主を迎える事が考えられていたようです。


撮影: 2012年9月

ここは5階の様子です。
外観としては、南に唐破風、
西に千鳥破風が設けられています。


撮影: 2010年10月

5階から天守西北に架かる埋の橋を眺める事が出来ました。


撮影: 2012年9月

この景色を眺めた後に、いよいよ最上階に向かいます。
6階へと向かう階段には踊り場が設けられていました。


撮影: 2010年10月

天守最上階の様子です。

この天守は元々は廻縁が設けられ、
高欄が巡らされる筈だったそうです。
廻縁になる筈だった6階の一番外側には
武者走りが設けられていました。


撮影: 2010年10月

この設計変更で、すらっとした
松本城天守の外観が形作られています。

天守の最上階からの眺めです。
乾小天守が真下に眺められました。


撮影: 2010年10月

南側(上左写真)は松本市街の眺めです。
江戸時代には超高層建築だった松本城天守も
近代のビルの中では埋もれてしまいそうです。

こちらは天守の天井の様子です。
梁が井形に組まれ、その上には軒を支える桔木が
四方に向かって配置されています。


撮影: 2012年9月

桔木の中央部分に荷重がかかり、軒先の位置では
上向きの力が掛って、屋根が下がらない仕組みになってるそうです。

その天井の上の方に、神様が祀られていました。


撮影: 2010年10月

祀られているのは、月齢26日の月を拝む
二十六夜神だそうです。
1617年(元和3年)に松本に移封となった
戸田氏が祀ったのが始まりだそうです。

辰巳附櫓

松本城天守を見終えて、辰巳附櫓に向かいました。


撮影: 2012年9月

この辰巳附櫓は、1634年(寛永11年)に松平直政が建てたものです。
豊臣家も既に滅び、泰平の世が始まっている為、
この辰巳附櫓には石落などの防御設備は設けられていません。

展示室となっている辰巳附櫓2階の様子です。


撮影: 2010年10月

この辰巳附櫓の展示物も、
故赤羽夫妻の寄贈したものだそうです。


撮影: 2012年9月

ここにも花頭窓が設けられています。
花頭窓のシルエットにも優美さを感じました。

辰巳附櫓から月見櫓に向かいます。


撮影: 2012年9月

その途中、大天守を眺めることが出来ました。

月見櫓

辰巳附櫓の1階に下り、月見櫓に向かいました。


撮影: 2010年10月

月見櫓も1634年(寛永11年)に建てられています。

この年、将軍・徳川家光が善光寺詣でをし、
その帰りに松本城に立ち寄るという事で、
この月見櫓と辰巳附櫓が建てられたそうです。

天下泰平の世の中、この月見櫓は戦とは
全く関係のない造りになっています。


撮影: 2010年10月

朱色に塗られた刎ね勾欄が優美さを伝えます。


撮影: 2010年10月

家光は結局、松本には立ち寄れなくなったそうですが、
松本の藩主は、ここで月見を楽しんだことでしょう。

こうして、見応えのある松本城の登城を終えました。


撮影: 2012年10月

この出口で、江戸時代から現代へと
タイムトラベルしたような感じになりました。

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