二の丸
松代城は、長野電鉄の松代駅のすぐ近くにありました。
松代城は江戸時代の絵図などを基に、復元が進められ
本丸の一部の建物や、二ノ丸の土塁や堀など、
当時の様子が蘇っています。
まずは二の丸南門から城内に入りました。
ここは二の丸の正門にあたります。
撮影: 2011年10月
二の門南門の石垣は、復元されたのか当時のままの様です。
当時はこの石垣の上に櫓門が載っていました。
撮影: 2011年10月
この二の丸南門を抜けると二の丸になります。
二の丸は北側を除いてコの字を描く様に本丸を
取り囲んでいますが、南側の幅は狭く、すぐ前に
本丸の太鼓門と太鼓門前橋が見えていました。
撮影: 2011年10月
太鼓門前橋から眺める内堀の様子です。
内堀は本丸と二の丸の間にあり、
内堀も本丸をコの字状に囲んでいます。
太鼓橋から眺める内堀の様子です。
撮影: 2011年10月
本丸へと向かう前に、二の丸を一巡する事にしました。
二の丸南門を抜けて西に進みました。
二の丸の南西方面から内堀と太鼓橋を望みます。
撮影: 2011年10月
二の丸の本丸西側部分の様子です。
撮影: 2011年10月
二の丸の西側部分は内堀と土塁に囲まれています。
その北側の土塁には埋門がありました。
埋門を抜けると、松代城本丸の北側に出ました。
撮影: 2011年10月
松代城の北側は復元された北不明門が建ち
また櫓台が残り当時の様子を伝えています。
この辺りは紅葉の馬場と呼ばれる一角です。
本丸よりも北に、新堀という幅の広い堀がありました。
正面に見えるのは、尼巌山
(あまかざりやま)
と奇妙山です。
撮影: 2011年10月
新堀の南側に、本丸から東に外堀が伸びています。
その途中に二ノ丸へ木橋が架かっていました。
撮影: 2011年10月
その木橋から眺める外堀の様子です。
西側には、本丸の北東隅の櫓台があり、
そこが外堀の端になっています。
撮影: 2011年10月
木橋を渡って本丸西側の二の丸に向かいました。
北側と東側が土塁で囲われ、その内側は
芝生が植えられ綺麗に整備されていました。
撮影: 2011年10月
二の丸から眺める本丸の東北隅櫓(丑寅櫓)の櫓台です。
手前に見える堀は内堀です。
撮影: 2011年10月
こちらは二の丸東南角にあった石場門跡です。
撮影: 2011年10月
当時は、石場門を出た所に丸馬出があったようです。
丸馬出は武田氏特有の築城構造とされています。
二の丸の土塁に上がって、当時、
丸馬出があった辺りを眺めてみました。
2011年10月に訪れた際には、廃線間近だった
長野電鉄の松代駅が見えていました。
撮影: 2011年10月
長野電鉄屋代線の乗車記はこちらです。
二の丸の東北隅の土塁の上からの眺めです。
整備された芝生がとても綺麗でした。
撮影: 2011年10月
江戸時代には、ここに二の丸御殿が建っていました。
二の丸御殿には藩主の兄弟などが暮らしていたそうです。
1625年(寛永2年)と1717年(享保2年)と、2度の火災に
遭いましたが、その後再建されています。
二の丸跡の芝生の向こうには本丸の石垣が続いています。
その中ほどにある東不明門跡から本丸へと向かいました。
撮影: 2011年10月
門前に架かる木橋から眺める内堀の様子です。
撮影: 2011年10月
木橋を渡ると本丸です。
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本丸
東不明門跡から松代城の本丸に入りました。
右手に復元された北不明門が見えています。
撮影: 2011年10月
本丸に入った東不明門跡の様子です。
撮影: 2011年10月
松代城の本丸の四隅には当時櫓が建てられていました。
上の写真左の櫓台は本丸東北隅櫓(丑寅櫓)跡です。
本丸に入り、まずは南にある太鼓門に向かいました。
撮影: 2011年10月
太鼓門は松代城本丸の正門にあたり、最も大きな門でした。
石垣で囲われた四角形状の桝形に櫓門と桝形門を備え、
本丸を厳重に守っていました。
撮影: 2011年10月
太鼓門は、2004年(平成16年)に再建されています。
桝形門(橋詰門)から眺める太鼓門前橋の様子です。
撮影: 2011年10月
桝形門をくぐり、太鼓門前橋から
太鼓門を振り返って眺めた様子です。
撮影: 2011年10月
この眺めは、当時のお城の厳格な雰囲気が
そのまま伝わってきます。
太鼓門は2004年(平成16年)に復元されています。
太鼓門前橋は発掘調査によって4回ほど架け替え
直されていることが判っているそうです。
太鼓門前橋を渡ると二の丸で、先ほど眺めた
内堀と太鼓門の様子もとても印象的です。
撮影: 2011年10月
本丸の内部の様子です。
太鼓門櫓と南西隅の櫓台当たりの様子です。
撮影: 2011年10月
1770年(明和7年)に花の丸御殿が築かれるまでは
松代城本丸に本丸御殿が建てられていたそうです。
本丸の北西隅には天守台があります。
撮影: 2011年10月
江戸時代に入ると、天守は失われ、他の三つの
隅櫓と同じ二重の隅櫓が建っていたという事です。
天守台から北の二の丸跡を眺めた様子です。
撮影: 2011年10月
この辺りは紅葉の馬場と呼ばれる一角で、
18世紀半ばに行われた千曲川の改修工事以前は
千曲川の流れがここまで迫っていたそうです。
天守台から東を眺めた様子です。
復元された北不明門が見えていました。
撮影: 2011年10月
北不明門の手前には松代城の前身だった
海津城の城址碑が立っていました。
撮影: 2011年10月
信玄が海津城で上杉謙信と戦った頃は、千曲川を背後に、
現在の本丸と二の丸のこじんまりとしたお城でした。
松代城は、江戸時代の様子で復元整備が進されていますが、
至る所に信玄の時代の様子も至る所に残っています。
その一つが北不明門です。
北不明門は松代城の搦手門にあたり、18世紀半ばの
千曲川の改修工事以前は川に面していたので、
水之手御門と呼ばれていたそうです。
撮影: 2011年10月
太鼓門と同じく、桝形門形式の門です。
櫓門が、両脇の石垣に上には載っておらず、
この建築様式は江戸時代以前のものだそうです。
表門も、江戸時代の桝形門では、高麗門が多いのですが、
ここでは武骨な門となっていて、装飾性は感じませんでした。
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