松代城 (海津城)
Matsushiro Castle, Japan

登城日:
2004.8.4 & 2011.10.16

【松代城 概要】

松代城は、武田信玄と上杉謙信が川中島で戦いを行った際
武田方が前身基地として築いた海津城が、その発祥です。

1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いの後に城主となった
森忠政が二の丸、三の丸を整備し、それまでの土塁を
石垣の城に変えています。

1622年(元和8年)に真田信之が上田より移封され、以降
明治に廃城となるまで松代藩真田家の居城でした。

松代城は、善光寺平の南端近くに位置し、
城の北西側を千曲川が流れる天然の要害です。

松代城の縄張りは、千曲川に近い北側に本丸を構え、
本丸をコの字に囲むように二の丸が配置される
梯郭式の縄張りで、その南に三の丸がありました。


上の縄張り図は上が南になっています。

松代城には2004年8月と2011年10月に登城しています。
2011年10月に登城した際の様子を紹介します。

松代の散策記はこちらです。

【松代城へのアクセス】

長野駅から松代行のアルピコ交通のバスで
松代駅下車、所要時間約40分。

2012年4月までは、長野電鉄屋代線が
営業をしており、松代駅が最寄りでした。

長野電鉄屋代線の乗車記はこちらです。

【松代城登城記】

二の丸
Mar. 25, '22

本丸
NEW ! Apr. 12, '22

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二の丸

松代城は、長野電鉄の松代駅のすぐ近くにありました。
松代城は江戸時代の絵図などを基に、復元が進められ
本丸の一部の建物や、二ノ丸の土塁や堀など、
当時の様子が蘇っています。

まずは二の丸南門から城内に入りました。
ここは二の丸の正門にあたります。


撮影: 2011年10月

二の門南門の石垣は、復元されたのか当時のままの様です。
当時はこの石垣の上に櫓門が載っていました。


撮影: 2011年10月

この二の丸南門を抜けると二の丸になります。
二の丸は北側を除いてコの字を描く様に本丸を
取り囲んでいますが、南側の幅は狭く、すぐ前に
本丸の太鼓門と太鼓門前橋が見えていました。


撮影: 2011年10月

太鼓門前橋から眺める内堀の様子です。
内堀は本丸と二の丸の間にあり、
内堀も本丸をコの字状に囲んでいます。

太鼓橋から眺める内堀の様子です。


撮影: 2011年10月

本丸へと向かう前に、二の丸を一巡する事にしました。
二の丸南門を抜けて西に進みました。

二の丸の南西方面から内堀と太鼓橋を望みます。


撮影: 2011年10月

二の丸の本丸西側部分の様子です。


撮影: 2011年10月

二の丸の西側部分は内堀と土塁に囲まれています。
その北側の土塁には埋門がありました。

埋門を抜けると、松代城本丸の北側に出ました。


撮影: 2011年10月

松代城の北側は復元された北不明門が建ち
また櫓台が残り当時の様子を伝えています。
この辺りは紅葉の馬場と呼ばれる一角です。

本丸よりも北に、新堀という幅の広い堀がありました。
正面に見えるのは、尼巌山
(あまかざりやま) と奇妙山です。


撮影: 2011年10月

新堀の南側に、本丸から東に外堀が伸びています。
その途中に二ノ丸へ木橋が架かっていました。


撮影: 2011年10月

その木橋から眺める外堀の様子です。
西側には、本丸の北東隅の櫓台があり、
そこが外堀の端になっています。


撮影: 2011年10月

木橋を渡って本丸西側の二の丸に向かいました。
北側と東側が土塁で囲われ、その内側は
芝生が植えられ綺麗に整備されていました。


撮影: 2011年10月

二の丸から眺める本丸の東北隅櫓(丑寅櫓)の櫓台です。
手前に見える堀は内堀です。


撮影: 2011年10月

こちらは二の丸東南角にあった石場門跡です。


撮影: 2011年10月

当時は、石場門を出た所に丸馬出があったようです。
丸馬出は武田氏特有の築城構造とされています。

二の丸の土塁に上がって、当時、
丸馬出があった辺りを眺めてみました。
2011年10月に訪れた際には、廃線間近だった
長野電鉄の松代駅が見えていました。


撮影: 2011年10月

長野電鉄屋代線の乗車記はこちらです。

二の丸の東北隅の土塁の上からの眺めです。
整備された芝生がとても綺麗でした。


撮影: 2011年10月

江戸時代には、ここに二の丸御殿が建っていました。
二の丸御殿には藩主の兄弟などが暮らしていたそうです。
1625年(寛永2年)と1717年(享保2年)と、2度の火災に
遭いましたが、その後再建されています。

二の丸跡の芝生の向こうには本丸の石垣が続いています。
その中ほどにある東不明門跡から本丸へと向かいました。


撮影: 2011年10月

門前に架かる木橋から眺める内堀の様子です。


撮影: 2011年10月

木橋を渡ると本丸です。

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本丸

東不明門跡から松代城の本丸に入りました。
右手に復元された北不明門が見えています。


撮影: 2011年10月

本丸に入った東不明門跡の様子です。


撮影: 2011年10月

松代城の本丸の四隅には当時櫓が建てられていました。
上の写真左の櫓台は本丸東北隅櫓(丑寅櫓)跡です。

本丸に入り、まずは南にある太鼓門に向かいました。


撮影: 2011年10月

太鼓門は松代城本丸の正門にあたり、最も大きな門でした。
石垣で囲われた四角形状の桝形に櫓門と桝形門を備え、
本丸を厳重に守っていました。


撮影: 2011年10月

太鼓門は、2004年(平成16年)に再建されています。
桝形門(橋詰門)から眺める太鼓門前橋の様子です。


撮影: 2011年10月

桝形門をくぐり、太鼓門前橋から
太鼓門を振り返って眺めた様子です。


撮影: 2011年10月

この眺めは、当時のお城の厳格な雰囲気が
そのまま伝わってきます。

太鼓門は2004年(平成16年)に復元されています。
太鼓門前橋は発掘調査によって4回ほど架け替え
直されていることが判っているそうです。

太鼓門前橋を渡ると二の丸で、先ほど眺めた
内堀と太鼓門の様子もとても印象的です。


撮影: 2011年10月

本丸の内部の様子です。
太鼓門櫓と南西隅の櫓台当たりの様子です。


撮影: 2011年10月

1770年(明和7年)に花の丸御殿が築かれるまでは
松代城本丸に本丸御殿が建てられていたそうです。

本丸の北西隅には天守台があります。


撮影: 2011年10月

江戸時代に入ると、天守は失われ、他の三つの
隅櫓と同じ二重の隅櫓が建っていたという事です。

天守台から北の二の丸跡を眺めた様子です。


撮影: 2011年10月

この辺りは紅葉の馬場と呼ばれる一角で、
18世紀半ばに行われた千曲川の改修工事以前は
千曲川の流れがここまで迫っていたそうです。

天守台から東を眺めた様子です。
復元された北不明門が見えていました。


撮影: 2011年10月

北不明門の手前には松代城の前身だった
海津城の城址碑が立っていました。


撮影: 2011年10月

信玄が海津城で上杉謙信と戦った頃は、千曲川を背後に、
現在の本丸と二の丸のこじんまりとしたお城でした。

松代城は、江戸時代の様子で復元整備が進されていますが、
至る所に信玄の時代の様子も至る所に残っています。

その一つが北不明門です。
北不明門は松代城の搦手門にあたり、18世紀半ばの
千曲川の改修工事以前は川に面していたので、
水之手御門と呼ばれていたそうです。


撮影: 2011年10月

太鼓門と同じく、桝形門形式の門です。
櫓門が、両脇の石垣に上には載っておらず、
この建築様式は江戸時代以前のものだそうです。

表門も、江戸時代の桝形門では、高麗門が多いのですが、
ここでは武骨な門となっていて、装飾性は感じませんでした。

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