追手門から三の丸・四ツ門へ
村上の街を散策し、臥牛山の東麓に広がるかつての
城下町を歩いていると追手門跡の碑がありました。
村上市役所と村上小学校の間の路地辺りです。
大手門跡の様子です。
村上の城下にはいくつも門がありましたが、
この追手門が最も大きな門だったようです。
江戸時代の村上は,この辺りから東側に
堀が3重に巡らされ、武家屋敷が広がっていました。
これはまいづる公園に向かう途中に、
見つけた袋門跡の碑です。
袋門は二番の堀の北西の隅に設けられていました。
袋門跡の前の通りの様子です。
当時は、袋門の北側に2番目の堀があり
そこを渡ってすぐに一番外側の堀がありました。
その一番外側の堀の出入り口が山辺里門です。
その跡は50m程西側の小路にありました。
山辺里門跡の周囲の様子です。
クランク状に折れ曲がった道が
枡形門だったことを伝えています。
その南側には吉田門跡がありました。
吉田門は2番目の堀の西側に面していて、追手門から
藩主居館に向かう際に通る重要な門だったようです。
吉田門も枡形門だったようです。
吉田門から東に向かうと下渡門跡があります。
この門は二番目の堀の北の辺にありました。
下渡門の北側を東西に堀が伸びていましたが
その堀跡は窪地になって今もその跡を残しています。
村上の町の散策記は別のページで詳しく紹介しています。
村上の様子はこちらです。
下渡門跡から村上城のあった臥牛山までは、すぐ近くです。
通りの向こうに臥牛山が間近に見えていました。
この通りを行き着いたところが村上城の登城口でした。
登城口の入り口に建つ城址碑です。
当時はここに一文字門がありました。
枡形門の二重の門があり、枡形の周囲には
三層の隅櫓や2層の櫓が三棟もあったそうです。
今は、その面影は全く残っていませんでした。
この登城口の左手に平坦な場所がありました。
ここが江戸時代に藩主の居館があったところです。
当時はおよそ50m x 100m 程の敷地だったと思いますが
今はその半分ほどは住宅地になっていて、公園として
残っている部分は、細長い敷地になっていました。
居館の北東の端の様子です。
雑草が茂っていますが、急な崖となっていて
ここには石垣が残っているのでしょうか。
低地の部分は、当時は堀だったところです。
江戸時代の藩主居館跡を訪れた後に、
臥牛山の上にある村上城址へと向かいました。
七曲道という九十九折れの急坂が続いています。
かなりの急坂で、息も切れましたが、
麓からは5分程の上りだったと思います。
途中で視界も開け、村上の街も見下ろす事が出来ました。
しばらくすると山の鞍部に出ました。
立派な石垣が残っていました。
ここは村上城の二の丸と三の丸の
間にあった四ツ門跡にあたります。
ここから臥牛山頂の
村上城址の散策を始めました。
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三の丸と二の丸
麓の一文字門から七曲道を上り、四ツ門に至りました。
四ツ門は、尾根に沿って南北に並ぶ三の丸と二の丸の間にあり、
尾根の東西両側から上って来た道もこの四ツ門に繋がっています。
四ツ門は村上城の四方へと繋がる重要な門だったようです。
四ツ門から三の丸を眺めた様子です。
下の写真は三の丸に入って四ツ門を振り返った様子です。
村上城を訪れた2010年10月には、村上城は整備工事中で
三の丸には重機が入るようになっていました。
三の丸に入ってすぐに調練場があり、
その右奥に玉櫓跡がありました。
玉櫓台の石垣は形が崩れることなく、
しっかりと残っていました。
その奥に武具倉跡の碑がたっていました。
草が生い茂り礎石も見当たらなかったのですが
櫓台の石垣も見当たりませんでした。
三の丸の最も北の端には
籾櫓が建っていたようです。
この辺りは雑草も深く、碑が無ければ
櫓があったとは判らない状態でした。
籾櫓跡から眺める三面川の様子です。
当時は、村上藩に富をもたらした鮭が
盛んに遡っていた事と思います。
ここから四ツ門に戻り、南側の
二の丸に足を踏み入れました。
二の丸は平坦な地形ではなく、
本丸に向けての坂道になっています。
途中に御鐘門跡がありました。
枡形門の立派な石垣が残っていました。
石垣には草が生え、古城の佇まいを残しています。
御鐘門の枡形を上から眺めた様子です。
四ツ門を二の丸と三の丸を分ける門とすると、
御鐘門は、二の丸の丁度中央に位置しています。
これだけの門は曲輪の中央にあったというのも
ちょっと釈然としないので、御鐘門が
二の丸の入り口だったかも知れません。
ここからは、村上城の東側の景色が広がっていました。
遠く朝日岳や飯豊山も見えているそうです。
この先も坂道が続き、その向こうに
出櫓跡の立派な石垣も見えています。
御鐘門跡から先は修復工事の為、曲輪の
中は歩けずに脇を通るようになっていました。
間近に眺める出櫓跡の石垣です。
整備工事の為に、石垣のすぐ近くには行けなかった
のですが、この逆光の中の石垣の眺めも良かったです。
この後、出櫓跡の石垣のすぐ横を上って行きました。
この辺りに黒門跡の碑がありました。
出櫓跡の石垣を過ぎると本丸の石垣が見えて来ます。
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本丸
二の丸を上り本丸の石垣が見えてくると
本丸虎口の立派な枡形門跡の石垣が見えてきます。
入口にあった冠木門跡の様子です。
この石段を上れば本丸ですが、まずは
本丸の石垣の周囲をぐるっと巡る事にしました。
本丸は1649年(慶安2年)に松平直矩が
村上に入封した際に改築されています。
現在見る石垣の多くは、この時に
積み直されたものだそうです。
本丸南面の石垣の様子です。
石垣の下側はは、腹巻石垣の様に
土塁の上に乗った格好になっています。
ここから西側へと回り込みました。
本丸西側の石垣は、緩やかなカーブを描き
所々に小さな折れの入った立派なものでした。
当時は、お城のある臥牛山の木々は切り払われていた筈なので
この見事な石垣とその上に建てられた土塀や多聞櫓の
白壁が、西側の城下から見渡せたものと思います。
この石垣が村上城で最も見応のある石垣でした。
この石垣の下を歩き、北側にやって来ました。
ここからは、三面川の眺めが広がっていました。
河口から、切れ込んだ中流部の
谷まで見通すことが出来ました。
こうして本丸の石垣の下をぐるりと巡った後に
いよいよ本丸に足を踏み入れました。
先ほどの冠木門跡を通ります。
冠木門の先の枡形です。
枡形の石垣は低く、この辺りには
どのような門があったのでしょうか。
本丸に入り、先ほど下から眺めた石垣の上の様子です。
村上の街が眼下に見渡せる
素晴らしい眺めが広がっていました。
村上の街の向こうには日本海も見渡せます。
本丸内の様子です。
神社の鳥居が並んでいました。
本丸は南北に細長い形をしていますが、
東から南にかけてL字状に天守台の石垣があります。
村上城の天守は1667年(寛文7年)に落雷で
櫓と共に焼失し、以降は再建されなかったそうです。
天守台にあった城址碑です。
村上城の別名「舞鶴城」と記されています。
天守台からも村上の街の眺めが広がっていました。
陽も西に傾きかけ、日本海が輝いていました。
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中世城郭遺構
村上城の本丸を訪れた後、
本丸の東側に向かってみました。
本丸を巡るうちに、陽はかなり西に傾いたようです。
江戸時代は、村上城の西側が表側で、
本丸の東には埋門がありました。
この埋門は,江戸時代には村上城の
搦手にあたっていたと思います。
埋門の向こうは急な山の斜面になっていました。
この斜面を下ると、本庄氏が築いた
戦国時代の古城の跡が残っていました。
案内版にもこの急な坂道を「中世散策コース」
として紹介しています。
急坂を下り、しばらく行くと斜面に沿って
細長く続く平坦地が見えてきました。
帯曲輪です。
この様な帯曲輪が何段も折り重なっているようです。
なかには舌状に広がる曲輪もありました。
この曲輪は、はっきり当時の遺構とわかります。
その下には、立派な竪堀がありました。
戦国時代の村上城は、東側が大手だったようで
この竪堀は大手の登城道にもなっていたようです。
この山間を、一列縦隊で登って来たとすると
城兵にとっては格好の標的になっていたでしょう。
この竪堀を下ると臥牛山の麓に虎口があるようですが、
再び上るのが大変そうで、中世散策ルートに従い、
帯曲輪に沿って坂中門跡を目指しました。
途中で古い石垣を見つけました。
この辺りの城郭は1568年(永禄11年)に、上杉謙信の
来襲に備えて本庄繁長が整備したと言われています。
この石垣もその時に積まれたとすると
最新の築城技術が、関西から遠く離れた
越後まで、すぐに伝搬していた事になります。
深い木々の中を歩き、坂中門跡に辿り着きました。
坂中門は大きな門だったようで、
ここは広い空間が広がっていました。
坂中門の奥には鉄砲倉跡もありました。
ここからは三の丸の四ツ門はすぐ近くです。
そこに向かう途中に古井戸もありました。
千荷井戸跡です。
山の中腹には珍しく大きな規模の井戸でした。
ここから山肌を登ると四ツ門に出る事が出来ました。
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