富山城は富山市の中心部に位置するお城です。
その後、富山城は神保氏、上杉氏や一向宗の間で
1582年(天正10年)には織田信長家臣の
その後、加賀藩二代藩主の前田利長が整備し、
1639年(寛永16年)に富山藩が加賀藩から
富山駅から富山地方鉄道軌道線の
富山都心線の路面電車は富山駅前から
国際競技場前停留所から富山城は目と鼻の先です。
お堀の向こうに模擬天守閣が見えていました。
この天守閣は、1954年(昭和29年)に建てられたものです。
堀に架かる土橋を渡り本丸に向かいました。
桝形門は四角形の敷地の周囲を石垣で囲み、
鉄御門の枡形の石垣には立派な鑑石もありました。
富山城の城郭の案内板です。
当時は神通川が大きく蛇行し、富山城の
本丸とその南側の二の丸の間の内堀と、本丸と西の丸を除いて
早速、模擬天守閣に上ってみました。
上の写真は天守閣の展望台からの眺めです。
天守閣を出て、本丸から東出丸の方へ行きました。
美術館の左手には、富山藩二代藩主の
前田正甫は、新田開発や殖産興業を図り、
美術館の前を通り、東に向かうと、多分当時のものと
当時、美術館の東側には内堀があり、東側の東出丸から
石垣を左に折れると、庭園が整備されていました。
10代藩主・前田利保公が隠居後に、本丸の東側に
この碑から西側に、松川に沿って庭園がありました。
江戸時代から残る庭園の様に思いますが、
先ほどの美術館の石垣まで戻り、今度は
千歳御門です。
明治の廃城後、市内に移築されていましたが、
富山城
Toyama Castle, Japan
登城日:
2006. 07. 30 & 2012. 05. 31
1543年(天文12年)に越中守護代の神保氏が築城したそうですが、
それ以前に築城の歴史が遡る可能性もあるそうです。
抗争の地となり領主は目まぐるしく変わったそうです。
佐々成政が入城したのですが、
本能寺の変の後、佐々成政は秀吉との争いに負け、
富山城は一旦廃城になったようです。
隠居後の居城として入城したそうです。
しかし、大火により利長が高岡城に移ると
再び廃城の憂き目に遭います。
分藩されると富山城は再び蘇り、以降明治まで
富山前田家の居城となったようです。
「富山都心線」の国際会議場前からすぐです。
丸の内を経由し、国際会議場前停留所を通ります。
江戸時代の富山城には天守はなかったそうで、
この天守閣も、残念ながら当時の天守を
復元したものではないようです。
土橋を渡ると鉄御門の枡形に入りました。
2か所の出入り口を門で固めた構造になっています。
石垣の上には多門櫓が載り、そこから枡形に進入した
敵を討ち払うことが出来る構造になっています。
すぐ北側を通っていた事がわかります。
昔の城郭はすっかり市街地化されてしまっているようです。
ここは郷土資料館になっています。
最近新装されたのか、富山や富山城の歴史が判りやすく、
しかもとても充実した内容で展示されていました。
木々の中に見える緑色の櫓風の建物は美術館です。
先ほど、天守閣から眺めた美術館です。
前田正甫公
富山藩の財政を豊かにすることに努めたそうです。
病弱だった事から薬学に興味を持っていたようで、
富山の製薬業を興したそうです。
思われる石垣が残っていました。
土橋が掛かり、丁度この位置にあった門の石垣と思います。
そして、その向こうには碑が建っています。
幕末の頃建てられた千歳御殿跡の碑でした。
千歳御殿を建て、そこに桜を多く植えたそうです。
その桜が老化した為、新たに富山城北側を流れる
松川沿いに桜を植えた事を記念した碑だそうです。
縄張り図では、当時は松川の位置に神通川が流れ、
庭園の位置には神通川に沿って堀があったようです。
南に下ると立派な門がありました。
1849年(嘉永2年)に、10代藩主・前田利保公が
隠居後に建てた千歳御殿の正門だった門です。
2008年(平成20年)に現在地に移築されました。