富山城
Toyama Castle, Japan

登城日:
2006. 07. 30 & 2012. 05. 31

【富山城 概要】

富山城は富山市の中心部に位置するお城です。
1543年(天文12年)に越中守護代の神保氏が築城したそうですが、
それ以前に築城の歴史が遡る可能性もあるそうです。

その後、富山城は神保氏、上杉氏や一向宗の間で
抗争の地となり領主は目まぐるしく変わったそうです。

1582年(天正10年)には織田信長家臣の
佐々成政が入城したのですが、
本能寺の変の後、佐々成政は秀吉との争いに負け、
富山城は一旦廃城になったようです。

その後、加賀藩二代藩主の前田利長が整備し、
隠居後の居城として入城したそうです。
しかし、大火により利長が高岡城に移ると
再び廃城の憂き目に遭います。

1639年(寛永16年)に富山藩が加賀藩から
分藩されると富山城は再び蘇り、以降明治まで
富山前田家の居城となったようです。

高岡城の様子はこちらです。

【富山城へのアクセス】

富山駅から富山地方鉄道軌道線の
「富山都心線」の国際会議場前からすぐです。

富山地方鉄道の乗車記はこちらです。

【富山城城登城記】

富山都心線の路面電車は富山駅前から
丸の内を経由し、国際会議場前停留所を通ります。

国際競技場前停留所から富山城は目と鼻の先です。


撮影: 2012年5月

お堀の向こうに模擬天守閣が見えていました。


撮影: 2012年5月

この天守閣は、1954年(昭和29年)に建てられたものです。
江戸時代の富山城には天守はなかったそうで、
この天守閣も、残念ながら当時の天守を
復元したものではないようです。

堀に架かる土橋を渡り本丸に向かいました。
土橋を渡ると鉄御門の枡形に入りました。


撮影: 2012年5月

桝形門は四角形の敷地の周囲を石垣で囲み、
2か所の出入り口を門で固めた構造になっています。
石垣の上には多門櫓が載り、そこから枡形に進入した
敵を討ち払うことが出来る構造になっています。

鉄御門の枡形の石垣には立派な鑑石もありました。


撮影: 2012年5月

富山城の城郭の案内板です。

当時は神通川が大きく蛇行し、富山城の
すぐ北側を通っていた事がわかります。

本丸とその南側の二の丸の間の内堀と、本丸と西の丸を除いて
昔の城郭はすっかり市街地化されてしまっているようです。

早速、模擬天守閣に上ってみました。
ここは郷土資料館になっています。
最近新装されたのか、富山や富山城の歴史が判りやすく、
しかもとても充実した内容で展示されていました。


撮影: 2006年7月

上の写真は天守閣の展望台からの眺めです。
木々の中に見える緑色の櫓風の建物は美術館です。

天守閣を出て、本丸から東出丸の方へ行きました。
先ほど、天守閣から眺めた美術館です。


撮影: 2012年5月

美術館の左手には、富山藩二代藩主の
前田正甫公
(1649-1706)の像がありました。


撮影: 2012年5月

前田正甫は、新田開発や殖産興業を図り、
富山藩の財政を豊かにすることに努めたそうです。
病弱だった事から薬学に興味を持っていたようで、
富山の製薬業を興したそうです。

美術館の前を通り、東に向かうと、多分当時のものと
思われる石垣が残っていました。


撮影: 2012年5月

当時、美術館の東側には内堀があり、東側の東出丸から
土橋が掛かり、丁度この位置にあった門の石垣と思います。

石垣を左に折れると、庭園が整備されていました。
そして、その向こうには碑が建っています。
幕末の頃建てられた千歳御殿跡の碑でした。


撮影: 2012年5月

10代藩主・前田利保公が隠居後に、本丸の東側に
千歳御殿を建て、そこに桜を多く植えたそうです。
その桜が老化した為、新たに富山城北側を流れる
松川沿いに桜を植えた事を記念した碑だそうです。

この碑から西側に、松川に沿って庭園がありました。


撮影: 2012年5月

江戸時代から残る庭園の様に思いますが、
縄張り図では、当時は松川の位置に神通川が流れ、
庭園の位置には神通川に沿って堀があったようです。

先ほどの美術館の石垣まで戻り、今度は
南に下ると立派な門がありました。


撮影: 2012年5月

千歳御門です。
1849年(嘉永2年)に、10代藩主・前田利保公が
隠居後に建てた千歳御殿の正門だった門です。

明治の廃城後、市内に移築されていましたが、
2008年(平成20年)に現在地に移築されました。

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る