躑躅ヶ崎館
Tsutsujigasaki-Yakata, Japan


登城日:
2005. 12. 12







「風林火山」を旗印に、
優れた騎馬軍団を持ち
戦国最強と恐れられた武田軍団。

その武田軍団を率いた名将、
武田信玄の居館がこの躑躅ヶ崎館です。

「人は城、人は石垣」という
言葉に表れているように
甲斐の国の治政にも力を入れた信玄。

居館の躑躅ヶ崎館は、当時石垣とかの
厳重な構えはなかったと言われています。
強固な家臣団を築き、戦国最強の
軍隊を維持していた信玄には
必要なかったとも言われています。


その躑躅ヶ崎館の遺構が残っていると言うので、
甲府城を訪れた後に、行ってみました。
甲府城の様子はこちらです。


躑躅ヶ崎館址は、甲府駅の北
約2km程のところにあります。

地図はこちらです→ Mapion

タクシーで駅から北に伸びる道を
真っ直ぐ走ると、武田神社に着きました。
ここが躑躅ヶ崎館址です。



朱色の橋を渡って、武田神社に向かいます。
しかし、当時はこの橋は架かっておらず、
橋を渡ったところの石垣も、
武田氏滅亡後に築かれたようです。

石垣の手前、朱色の橋で渡ったのは
館の南に築かれた堀です。



東西の差し渡しは300m、
堀の幅は16mもある大きな堀です。

境内、当時の館の郭を進むと、
武田神社の拝殿に行き当たりました。



武田菱の紋が架かる拝殿。
神楽が鳴り、厳かに
神事が執り行われていました。

この武田神社に祭られているのは
信玄、その人です。

境内には宝物殿もり、
そこに、当時の「風林火山」の
旗指物も特別展示されていました。

下の写真は、境内にたなびく「風林火山」の旗。



当時は、この旗指物を見て、
恐れをなした敵将も多かった事でしょう


この躑躅ヶ崎館は当初は、
中曲輪と東曲輪と呼ばれ、現在
武田神社がある郭のみだったようですが、
信玄の時代に、西側にも
曲輪を増やしたようです。

武田神社の拝殿より奥には入れなかったので、
この西曲輪に行ってみました。

中曲輪と西曲輪との間には
土塁が築かれ、堀もありました。



12月も半ば、既に紅葉の盛りは過ぎていましたが、
色付いた木々が土塁の窪みに生い茂っていました。

木々の生い茂る西曲輪。
お屋形様の散歩道と呼ばれる小路を抜け、
躑躅ヶ崎館の北側に出てみました。

急にのどかな景色が広がりました。
甲府の街中に居るとは思えません。



この右手の山は要害山と呼ばれ、
山城が築かれ、万が一
敵に攻め込まれたときには、
その山城に籠もって戦う
算段になっていたようです。

また、周囲の山々には狼煙台が築かれ、
国境の異変をこの躑躅ヶ崎館の
信玄に伝えていたそうです。


この躑躅ヶ崎館に向かうタクシーの中で、
信玄のお墓が近くにあると聞いたので、
甲府駅に戻る途中に立ち寄ってみました。

信玄は、京を目指し、進行中に病を得、
甲府に戻る途中、信州伊那の
駒場で亡くなったといわれています。

その後、遺言により、3年間は
その死が伏せられました。

この墓は、その際、密かに荼毘に付され
埋葬された時のものです。



武田24将の一人、土屋昌次邸址であったそうです。

すぐ近くに幼稚園があり、
園児達の遊び場になっていました。



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