上田城
Ueda Castle, Japan

登城日:
2011.10.17

【上田城 概要】

上田城は、真田昌幸が1585年(天正13年)に築城したお城です。
真田氏は今の上田を含む小県郡辺りを治める在地領主でした。

その後、武田信玄が信濃に進出すると、その家臣となり、
いったん失った旧領を回復しています。

真田氏は、幸綱が1574年(天正2年)に亡くなると、長男の
信綱が家督を継ぎますが、翌年の長篠・設楽原の戦いで
戦死し、幸綱の三男・昌幸が当主となっています。

設楽原古戦場の散策記はこちらです。

真田昌幸が上田城を築いたのは、昌幸が
当主となって10年後の事になります。

上田城は、上田市の中心部にあります。
上田駅からも近く、北陸新幹線の車窓からも
城址が手に取るように見ることが出来ます。

上田城は、関ヶ原の戦いの後の1601年(慶長6年)に
破却されていますが、真田信之が松代に移封した
後に上田藩主となった仙石忠政が1626年(寛永3年)
から再整備を始め、仙石忠政の亡くなった1628年
(寛永5年)までの間に築城が行われました。

上田城の縄張りは、本丸の三方を二の丸が囲み、
その東側に三の丸を配した梯郭式と呼ばれています。


真田昌幸が築城した戦国時代の上田城と、仙石忠政の
近世・上田城とは縄張りが異なっている事と思います。

江戸時代上田藩は、仙石氏とその後を継いだ
藤井松平氏が治めていましたが、上田の地は
真田幸村を生んだ地として名高く、今も
六文銭の旗印が至る所に見受けられます。

上田城には2004年8月と2011年10月に登城しています。
2011年10月に登城した際の様子を紹介します。

上田の散策記はこちらです。

【上田城へのアクセス】

上田駅から北東に約1.5km程に位置しています。
上田駅から徒歩で約20分です。

北陸新幹線で、長野から上田に向かい、
上田駅に到着する直前に進行左手に
上田城址が見えてきます。


上田城には2004年と2011年に訪れています。
2011年に訪れた際の様子を紹介します。

【上田城登城記】

二の丸
May 31, '22

本丸
June 16, '22

尼が淵
NEW ! June 19, '22

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二の丸

上田駅から上田城に向かいます。
駅前の真田幸村像です。


撮影: 2004年8月

上田城に向かうには駅前の道を直進し、
大手通りを左折するのが、一般的ですが、
2011年に訪れた際は駅前を左に進みました。


撮影: 2011年10月

今ではホテルが建ち、この景色は見えませんが、
北側には台地が続き、その淵が崖の様に続いています。

この先で上田城二の丸の堀に分け入ることが出来ました。


撮影: 2011年10月

この堀は上田城二の丸の東端に、南北に連なっています。
大手門から上田城二の丸へと繋がる道に掛かる橋の袂です。


撮影: 2011年10月

とても心和む景色ですが、かつてこの堀底には
上田温泉電軌の北東線(後の真田傍陽線)が
走っていました。

お城の堀底を電車が走るというのは全国的にも
珍しく、この上田城と名古屋城しかその例は
無いように思います。


撮影: 2011年10月

上田温泉電軌真田傍陽線は、残念ながら
1972年(昭和47年)に廃止になっています。

二の丸の堀に架かる橋の上には
二の丸東虎口の石垣がありました。


撮影: 2011年10月

江戸時代はここが二の丸の正門だったようです。
ただし、ここには櫓門は造られずに簡単な
木戸があっただけだったようです。

築城城主の仙石忠政の死で上田城の
築城工事が中止となった影響でしょうか。

この北側に平和の鐘がありました。


撮影: 2011年10月

上田城の時の鐘は、第二次大戦の際に軍に徴用されて
いましたが、二度と悲惨な戦争が起きないようにと、
市民の手で、この場所に移されたそうです。

本丸をコの字に囲む二の丸は、この辺りでは幅が狭く、
西に進むとすぐに本丸との間の内堀が見えてきました。


撮影: 2011年10月

内堀は水堀になっています。
上右の写真は内堀の東北角です。
左手が本丸側になりますが、本丸の
北東角が切り取られた形になっています。

これは鬼門除けの為だそうです。

二の丸の様子です。


撮影: 2011年10月

二の丸の北東角から本丸への入口へと向かいました。
本丸東虎口に建つ南櫓と東虎口櫓、そして北櫓です。


撮影: 2011年10月

左端の南櫓と右端の北櫓は、明治の廃城後に一端
払い下げられ移築されていましたが、市民の寄付で
買い戻し、昭和18年から24年(1943年から1949年)に
かけて現在地に復元したものです。

中央の東虎口櫓と北櫓や南櫓とを繋ぐ袖塀は
1994年(平成6年)に古写真などを基に
復元されているそうです。

この後、本丸を訪れ、本丸の西虎口から
二の丸の西側に足を踏み入れました。

本丸の西虎口は、土橋が残るばかりで
意識することなく二の丸へと入っていきます。


撮影: 2011年10月

土橋から北には内堀が見えていました。
二の丸の東側も幅が狭く、すぐに二の丸の
西の端の二の丸西虎口にたどり着きました。


撮影: 2011年10月

南側の堀は中世の古城のような
佇まいを残していました。

北側は野球場となっています。
江戸時代、この場所は幅の広い濠だったそうです。

二の丸西虎口から二の丸へと戻り、
本丸の北側のエリアに向かいました。


撮影: 2011年10月

ここには玉垣が並んでいます。
明治になり、上田城が廃城になった後に
招魂社という神社がここに創建されました。


撮影: 2011年10月

招魂社の西側の空き地です。
ここはゲートボール場になっているようです。


撮影: 2011年10月

空き地の周囲の土塁は江戸時代からのものでしょうか?
しっかり確認しておけばよかったと思います。

この後、上田城本丸の南側の尼が淵に向かいました。
本丸西虎口から尼が淵に向かう事が出来ます。


撮影: 2011年10月

本丸西虎口跡から眺める現存の西櫓の様子です。
西櫓は仙石忠政が上田城を再建を行った1626年から
1628年(寛永3年から5年)に建てられた現存です。

西虎口の南側の尼が淵側は断崖絶壁でした。

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本丸

上田城の二の丸を訪れた後、本丸へと向かいました。
本丸へは、正門にあたる東虎口から入りました。


撮影: 2011年10月

東虎口櫓の石垣には立派な鏡石があります。
それには"真田石"という名前がついています。


撮影: 2011年10月

この石垣は、仙石忠政が築いた筈ですが、
初代松代藩主となった前城主の真田信之が
松代に移封になった際、この石を松代に
持って行こうとしたが、全く動かなかった
という伝承が伝わっています。

この逸話一つとっても、上田城において
真田氏の人気が如何に高いかが分かります。

真田氏の人気の高さは、大坂の陣で豊臣方として活躍し、
「日の本一の兵」と言われた真田幸村に負うところが
大きいですが、この上田城で徳川軍を二度にわたって
打ち破っている事も理由の一つと思います。

真田氏と徳川氏が初めて戦ったのは1585年(天正13年)です。
この戦いは小牧長久手の戦いの戦後処理にあたって、
真田領を北条氏に引き渡す事になった事から生じています。

この戦いでは、7,000の徳川軍に対し、2,000の真田軍は、
二の丸まで誘き寄せた徳川軍を前後から挟み撃ちし、
大打撃を与えています。

徳川軍の攻撃を正面から受けた本丸正面に、
仙石氏の上田城では本丸東虎口の南櫓と
東虎口櫓、そして北櫓が建てられています。

本丸に入ってすぐにこの3つの櫓に入ってみました。
まずは南櫓です。

この南櫓は本丸の南東隅に位置していて、上田城
本丸の南側にある尼が淵を見下ろすことが出来ます。


撮影: 2011年10月

尼が淵は、本丸よりも一段低い平地です。
今は芝生が植えられ、綺麗に整備されていますが、
当時は、千曲川が流れ、その淵になっていたそうです。

南櫓の内部の様子です。


撮影: 2011年10月

南櫓は、建物自体は現存ですが、廃城後に
払い下げられていたものを昭和18年から
24年(1943年から1949年)にかけて現在地に
復元したものです。

南櫓から北を眺めると東虎口櫓と
北櫓が見えていました。


撮影: 2011年10月

こちらは東虎口櫓の内部の様子です。
東虎口櫓は1994年(平成6年)に復元されており、
さすがに現存櫓の貫禄には見劣りがします。

東虎口櫓から二の丸方向を眺めた様子です。


撮影: 2011年10月

東に土橋が続いています。
真田昌幸の上田城の縄張りがどの様なものであったか
分りませんが、その時もこの辺りに門があり、
櫓が建っていたのではないでしょうか。


撮影: 2011年10月

1585年(天正13年)の第一次上田合戦では、二の丸から
本丸に向かった徳川軍を挟み撃ちにして撃退したと
伝わりますので、この辺りが主戦場であったと思います。

続いて北櫓に向かいました。
こちらも移築されていますが、仙石忠政が上田城を築いた
1626年(寛永3年)から1628年(寛永5年)に築かれています。


撮影: 2011年10月

北櫓には、真田昌幸、信繁(幸村)そして
幸昌(大助)の三代の像がありました。


撮影: 2011年10月

真田信繁の子・幸昌が生まれたのは、
関ヶ原の戦いの後、真田昌幸、信繁父子が
高野山に蟄居させられた後の事ですので、
上田城とは直接の関係はありません。

本丸東虎口にある三つの櫓を訪れた後、
本丸を西に向かいました。
ここには眞田神社が鎮座しています。


撮影: 2011年10月

この神社が創建されたのは1879年(明治12年)で、
1706年(宝永3年)に仙石氏が但馬・出石に
移封になって以降、上田城主となっていた
藤井松平氏を祀る為に創建されています。

創建当初は松平神社という名前でしたが、
その後、歴代城主の仙石氏、真田氏も合祀し、
1963年(昭和63年)に眞田神社と改称しています。


撮影: 2011年10月

社殿には六文銭の旗印が掲げられ、この眞田神社も
真田人気を象徴するような場所になっています。

最も長く上田城主と務めていた藤井松平氏からすると、
庇を貸して母屋を取られるといった感じでしょうか。


撮影: 2011年10月

本殿脇には真田井戸もありました。
この井戸には抜け穴があり、太郎山麓に通じていたそうです。
この井戸は、真田昌幸が築城した当時からのものでしょうか。

眞田神社のすぐ左手には西櫓がそびえています。


撮影: 2011年10月

この西櫓は仙石氏が江戸時代初めに築城して以来
この場所に建っていますが、しかし「西櫓」の名は
北櫓、南櫓が移築された際に名付けられたそうです。

本丸を散策してみました。
眞田神社の北側から北櫓を眺めた様子です。


撮影: 2011年10月

そのさらに北側には空き地があり、
その空き地を土塁が取り囲んでいます。


撮影: 2011年10月

土塁の北西隅には櫓跡もありました。
この櫓跡の北側の堀には金箔瓦が出土しているそうです。
この金箔瓦は真田氏時代の上田城の櫓の瓦だったそうで、
その当時は上田城は金色に輝くお城だったようです。

本丸の西側の土塁から眺める西櫓です。


撮影: 2011年10月

手前の石垣は西虎口のものです。

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尼が淵

上田城本丸の搦手にあたる西虎口に面して西櫓が建ち、
その脇に、本丸から一段低くなっている尼が淵へと
降りる階段がありました。

その階段から見上げる西櫓です。


撮影: 2011年10月

西虎口の尼が淵側は、石垣がほぼ垂直に築かれています。
尼が淵の崖が如何に急峻だったかが、よくわかります。


撮影: 2011年10月

尼が淵に降りると、西側にはゴツゴツとした
岩肌がむき出しになっていて。東側の西櫓の
下の崖は石垣で覆われていました。


撮影: 2011年10月

江戸時代、千曲川が上田城の南側まで蛇行して流れ、
城のある高台を削りながら流れていた名残が
この急な崖になっています。


撮影: 2011年10月

本丸の石垣に沿って、東に向かいました。
西櫓から南櫓へと眺めが変わっていきます。

途中で一部途切れていますが、尼が淵に
面した崖には石垣が築かれていました。

この石垣は1733年(享保18年)以降に
藤井松平氏が築いたものだそうです。


撮影: 2011年10月

西櫓と南櫓が一望できるこの眺めは
なかなか素晴らしいものでした。

この先は、二の丸下の断崖を歩くことになります。
石垣は築かれずに岩が剥き出しになっています。


撮影: 2011年10月

二の丸の東南角に出ると、崖はなくなり、
外堀が北に延びていました。


撮影: 2011年10月

こうして上田城を一巡しました。
改めて真田人気を感じるお城でした。

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