二の丸
上田駅から上田城に向かいます。
駅前の真田幸村像です。
撮影: 2004年8月
上田城に向かうには駅前の道を直進し、
大手通りを左折するのが、一般的ですが、
2011年に訪れた際は駅前を左に進みました。
撮影: 2011年10月
今ではホテルが建ち、この景色は見えませんが、
北側には台地が続き、その淵が崖の様に続いています。
この先で上田城二の丸の堀に分け入ることが出来ました。
撮影: 2011年10月
この堀は上田城二の丸の東端に、南北に連なっています。
大手門から上田城二の丸へと繋がる道に掛かる橋の袂です。
撮影: 2011年10月
とても心和む景色ですが、かつてこの堀底には
上田温泉電軌の北東線(後の真田傍陽線)が
走っていました。
お城の堀底を電車が走るというのは全国的にも
珍しく、この上田城と名古屋城しかその例は
無いように思います。
撮影: 2011年10月
上田温泉電軌真田傍陽線は、残念ながら
1972年(昭和47年)に廃止になっています。
二の丸の堀に架かる橋の上には
二の丸東虎口の石垣がありました。
撮影: 2011年10月
江戸時代はここが二の丸の正門だったようです。
ただし、ここには櫓門は造られずに簡単な
木戸があっただけだったようです。
築城城主の仙石忠政の死で上田城の
築城工事が中止となった影響でしょうか。
この北側に平和の鐘がありました。
撮影: 2011年10月
上田城の時の鐘は、第二次大戦の際に軍に徴用されて
いましたが、二度と悲惨な戦争が起きないようにと、
市民の手で、この場所に移されたそうです。
本丸をコの字に囲む二の丸は、この辺りでは幅が狭く、
西に進むとすぐに本丸との間の内堀が見えてきました。
撮影: 2011年10月
内堀は水堀になっています。
上右の写真は内堀の東北角です。
左手が本丸側になりますが、本丸の
北東角が切り取られた形になっています。
これは鬼門除けの為だそうです。
二の丸の様子です。
撮影: 2011年10月
二の丸の北東角から本丸への入口へと向かいました。
本丸東虎口に建つ南櫓と東虎口櫓、そして北櫓です。
撮影: 2011年10月
左端の南櫓と右端の北櫓は、明治の廃城後に一端
払い下げられ移築されていましたが、市民の寄付で
買い戻し、昭和18年から24年(1943年から1949年)に
かけて現在地に復元したものです。
中央の東虎口櫓と北櫓や南櫓とを繋ぐ袖塀は
1994年(平成6年)に古写真などを基に
復元されているそうです。
この後、本丸を訪れ、本丸の西虎口から
二の丸の西側に足を踏み入れました。
本丸の西虎口は、土橋が残るばかりで
意識することなく二の丸へと入っていきます。
撮影: 2011年10月
土橋から北には内堀が見えていました。
二の丸の東側も幅が狭く、すぐに二の丸の
西の端の二の丸西虎口にたどり着きました。
撮影: 2011年10月
南側の堀は中世の古城のような
佇まいを残していました。
北側は野球場となっています。
江戸時代、この場所は幅の広い濠だったそうです。
二の丸西虎口から二の丸へと戻り、
本丸の北側のエリアに向かいました。
撮影: 2011年10月
ここには玉垣が並んでいます。
明治になり、上田城が廃城になった後に
招魂社という神社がここに創建されました。
撮影: 2011年10月
招魂社の西側の空き地です。
ここはゲートボール場になっているようです。
撮影: 2011年10月
空き地の周囲の土塁は江戸時代からのものでしょうか?
しっかり確認しておけばよかったと思います。
この後、上田城本丸の南側の尼が淵に向かいました。
本丸西虎口から尼が淵に向かう事が出来ます。
撮影: 2011年10月
本丸西虎口跡から眺める現存の西櫓の様子です。
西櫓は仙石忠政が上田城を再建を行った1626年から
1628年(寛永3年から5年)に建てられた現存です。
西虎口の南側の尼が淵側は断崖絶壁でした。
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本丸
上田城の二の丸を訪れた後、本丸へと向かいました。
本丸へは、正門にあたる東虎口から入りました。
撮影: 2011年10月
東虎口櫓の石垣には立派な鏡石があります。
それには"真田石"という名前がついています。
撮影: 2011年10月
この石垣は、仙石忠政が築いた筈ですが、
初代松代藩主となった前城主の真田信之が
松代に移封になった際、この石を松代に
持って行こうとしたが、全く動かなかった
という伝承が伝わっています。
この逸話一つとっても、上田城において
真田氏の人気が如何に高いかが分かります。
真田氏の人気の高さは、大坂の陣で豊臣方として活躍し、
「日の本一の兵」と言われた真田幸村に負うところが
大きいですが、この上田城で徳川軍を二度にわたって
打ち破っている事も理由の一つと思います。
真田氏と徳川氏が初めて戦ったのは1585年(天正13年)です。
この戦いは小牧長久手の戦いの戦後処理にあたって、
真田領を北条氏に引き渡す事になった事から生じています。
この戦いでは、7,000の徳川軍に対し、2,000の真田軍は、
二の丸まで誘き寄せた徳川軍を前後から挟み撃ちし、
大打撃を与えています。
徳川軍の攻撃を正面から受けた本丸正面に、
仙石氏の上田城では本丸東虎口の南櫓と
東虎口櫓、そして北櫓が建てられています。
本丸に入ってすぐにこの3つの櫓に入ってみました。
まずは南櫓です。
この南櫓は本丸の南東隅に位置していて、上田城
本丸の南側にある尼が淵を見下ろすことが出来ます。
撮影: 2011年10月
尼が淵は、本丸よりも一段低い平地です。
今は芝生が植えられ、綺麗に整備されていますが、
当時は、千曲川が流れ、その淵になっていたそうです。
南櫓の内部の様子です。
撮影: 2011年10月
南櫓は、建物自体は現存ですが、廃城後に
払い下げられていたものを昭和18年から
24年(1943年から1949年)にかけて現在地に
復元したものです。
南櫓から北を眺めると東虎口櫓と
北櫓が見えていました。
撮影: 2011年10月
こちらは東虎口櫓の内部の様子です。
東虎口櫓は1994年(平成6年)に復元されており、
さすがに現存櫓の貫禄には見劣りがします。
東虎口櫓から二の丸方向を眺めた様子です。
撮影: 2011年10月
東に土橋が続いています。
真田昌幸の上田城の縄張りがどの様なものであったか
分りませんが、その時もこの辺りに門があり、
櫓が建っていたのではないでしょうか。
撮影: 2011年10月
1585年(天正13年)の第一次上田合戦では、二の丸から
本丸に向かった徳川軍を挟み撃ちにして撃退したと
伝わりますので、この辺りが主戦場であったと思います。
続いて北櫓に向かいました。
こちらも移築されていますが、仙石忠政が上田城を築いた
1626年(寛永3年)から1628年(寛永5年)に築かれています。
撮影: 2011年10月
北櫓には、真田昌幸、信繁(幸村)そして
幸昌(大助)の三代の像がありました。
撮影: 2011年10月
真田信繁の子・幸昌が生まれたのは、
関ヶ原の戦いの後、真田昌幸、信繁父子が
高野山に蟄居させられた後の事ですので、
上田城とは直接の関係はありません。
本丸東虎口にある三つの櫓を訪れた後、
本丸を西に向かいました。
ここには眞田神社が鎮座しています。
撮影: 2011年10月
この神社が創建されたのは1879年(明治12年)で、
1706年(宝永3年)に仙石氏が但馬・出石に
移封になって以降、上田城主となっていた
藤井松平氏を祀る為に創建されています。
創建当初は松平神社という名前でしたが、
その後、歴代城主の仙石氏、真田氏も合祀し、
1963年(昭和63年)に眞田神社と改称しています。
撮影: 2011年10月
社殿には六文銭の旗印が掲げられ、この眞田神社も
真田人気を象徴するような場所になっています。
最も長く上田城主と務めていた藤井松平氏からすると、
庇を貸して母屋を取られるといった感じでしょうか。
撮影: 2011年10月
本殿脇には真田井戸もありました。
この井戸には抜け穴があり、太郎山麓に通じていたそうです。
この井戸は、真田昌幸が築城した当時からのものでしょうか。
眞田神社のすぐ左手には西櫓がそびえています。
撮影: 2011年10月
この西櫓は仙石氏が江戸時代初めに築城して以来
この場所に建っていますが、しかし「西櫓」の名は
北櫓、南櫓が移築された際に名付けられたそうです。
本丸を散策してみました。
眞田神社の北側から北櫓を眺めた様子です。
撮影: 2011年10月
そのさらに北側には空き地があり、
その空き地を土塁が取り囲んでいます。
撮影: 2011年10月
土塁の北西隅には櫓跡もありました。
この櫓跡の北側の堀には金箔瓦が出土しているそうです。
この金箔瓦は真田氏時代の上田城の櫓の瓦だったそうで、
その当時は上田城は金色に輝くお城だったようです。
本丸の西側の土塁から眺める西櫓です。
撮影: 2011年10月
手前の石垣は西虎口のものです。
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尼が淵
上田城本丸の搦手にあたる西虎口に面して西櫓が建ち、
その脇に、本丸から一段低くなっている尼が淵へと
降りる階段がありました。
その階段から見上げる西櫓です。
撮影: 2011年10月
西虎口の尼が淵側は、石垣がほぼ垂直に築かれています。
尼が淵の崖が如何に急峻だったかが、よくわかります。
撮影: 2011年10月
尼が淵に降りると、西側にはゴツゴツとした
岩肌がむき出しになっていて。東側の西櫓の
下の崖は石垣で覆われていました。
撮影: 2011年10月
江戸時代、千曲川が上田城の南側まで蛇行して流れ、
城のある高台を削りながら流れていた名残が
この急な崖になっています。
撮影: 2011年10月
本丸の石垣に沿って、東に向かいました。
西櫓から南櫓へと眺めが変わっていきます。
途中で一部途切れていますが、尼が淵に
面した崖には石垣が築かれていました。
この石垣は1733年(享保18年)以降に
藤井松平氏が築いたものだそうです。
撮影: 2011年10月
西櫓と南櫓が一望できるこの眺めは
なかなか素晴らしいものでした。
この先は、二の丸下の断崖を歩くことになります。
石垣は築かれずに岩が剥き出しになっています。
撮影: 2011年10月
二の丸の東南角に出ると、崖はなくなり、
外堀が北に延びていました。
撮影: 2011年10月
こうして上田城を一巡しました。
改めて真田人気を感じるお城でした。
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