知覧城
Chiran Castle, Japan

登城日:
2006.11.11 & 2011.5.1

【知覧城 概要】

知覧城は、知覧の武家屋敷から
約1km程のところにあったお城です。
シラス台地の直立した崖を持つ地形を
最大限に使った、中世の山城です。

知覧城がいつ築城されたのか、
正確なことはわかっていないようです。
一説によると平安時代末期に郡司だった
知覧忠信とも言われています。

「ミージアム知覧」の資料によれば、
1353年(文和2年)、足利尊氏によって
島津忠宗の三男、佐多忠光に知覧の領地が与えられ、
以降、知覧城は佐多氏の居城となったとあります。

その後、1591年(天正19年)に佐多氏11代久慶の時に
佐多氏は禁制に触れ領地を移され、またこの頃
知覧城は火災に遭い、そのまま廃城になったそうです。

知覧城はシラス台地の縁の浸食谷を空堀とし、
浸食谷に囲まれた台地部分を曲輪としています。

本丸や今城、蔵ノ城など10余の曲輪がある
本格的な山城で、築城当時の様子が
今も残っているそうです。

【知覧城へのアクセス】

鹿児島中央駅または指宿枕崎線平川駅から
特攻観音行きバスに乗車し知覧バス停下車。
知覧バス停から約1.6km、徒歩20分程です。

また知覧武家屋敷から徒歩約25分程です。

知覧武家屋敷の散策記はこちらです。

【知覧城登城記】

知覧城入り口から櫓台
NEW ! August 25, '18
蔵ノ城
August 05, '18
本丸
August 15, '18
弓場城と今城
August 20, '18
2006.11.11 登城記
Feb. 11, '07

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知覧城入り口から櫓台

知覧城には2006年に一度訪れていますが、
その際には準備不足で、規模の大きな
知覧城を前に撤退しています。

そのリベンジで、2011年のGWに再訪しました。
ここが知覧城の入り口です。


撮影: 2011年5月

入り口の両側には高い台地が迫っています。

通路以外は雑草が深く生い茂り、
他の古城散策とは趣が異なります。

台地の崖には、第二次大戦の際に
彫られた防空壕もありました。


撮影: 2011年5月

通路は歩ける状態ですが、それ以外の所は
足を踏み入れられる状態ではありませんでした。


撮影: 2011年5月

上左の写真は、東ノ栫と今城の間の大きな空堀です。

ここを過ぎると空堀の幅が狭くなり、
周囲のシラス台地の曲輪が迫ります。
その迫力に、異次元の世界に舞い込んで
しまうかのような感覚を覚えました。


撮影: 2011年5月

途中で、本丸や蔵ノ城、今城そして弓場城の
案内表示が出ていましたが、まずは空堀底の
道を、真っすぐ歩いて行きました。


撮影: 2011年5月

本丸・蔵ノ城と、今城・弓場城との間の
空堀の底の登城道を歩いていきます。


撮影: 2011年5月

深く切れ込んだ空堀に中を何処をどう歩いたのか、
歩いた当時も記憶も薄れていますが、上の写真が
その空堀の端だったように思います。

木々の間から、道路なども見えていましたが、
ここも藪が深く、これ以上進めませんでした。

ここから引き返し、本丸や蔵ノ城を目指しました。


撮影: 2011年5月

途中で朽ちた木の階段が見えました。
古城の維持管理も大変と思います。


撮影: 2011年5月

この辺りを彷徨っていると、切れ込んだ
堀切とそれに続く小高い丘が見えました。

ひょっとして櫓台では、と思っていましたが、
帰ってから確認すると、蔵ノ城の南側に櫓台が
あったようで、どうもこの櫓台だったみたいです。

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蔵ノ城

本丸・蔵ノ城と、今城・弓場城との間の空堀の端まで
行った後に、引き返して本丸と蔵ノ城に向かいました。

空堀の様子はこちらです。

本丸と蔵ノ城へ向かう道です。


撮影: 2011年5月

所々、木の梯子が架けられているのですが
それも朽ち果て何度も滑り落ちながら上りました。

空堀から一段高い所への虎口です。


撮影: 2011年5月

一段高い所に上がると、本丸への道(下の写真左)と
蔵ノ城への登り口へと別れていました。


撮影: 2011年5月

まずは蔵ノ城に向かいました。
20m程の階段を上った所の蔵ノ城の虎口です。


撮影: 2011年5月

蔵ノ城では2001年(平成13年)から2004年
(平成16年)かけて発掘調査が行われています。


撮影: 2011年5月

発掘調査に基づいて、掘立建物の跡が
平面復元されていました。


撮影: 2011年5月

蔵ノ城の南側にはいくつも掘立建物の跡があり、
北側には木炭や窯の跡があったそうです。


撮影: 2011年5月

蔵ノ城の曲輪の周囲には、低くなって
いましたが、土塁の跡も認められました。

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本丸

蔵ノ城を訪れた後、空堀を隔てて
その反対側にある本丸に向かいました。

本丸への登城道です。


撮影: 2011年5月

蔵ノ城への登城道が、木々の間から見下ろせました。
知覧城では木々が生い茂っている所が多く、なかなか
広い範囲を見渡せずに、全体像を掴む事が出来ませんでした。

2011年5月には蔵ノ城、本丸始め、4つの曲輪を訪れたのですが
それらの曲輪の位置関係が、未だに良く分かっていません。


撮影: 2011年5月

階段を上り、辿り着いた知覧城本丸の虎口です。
登山道の周囲を木々が覆い、本丸に向かう途中では
この虎口の所だけ明るく陽が差し込んでました。


撮影: 2011年5月

知覧城本丸の様子です。
立派な城址碑が立っていました。


撮影: 2011年5月

本丸は、50m四方程度の広さがあり、
曲輪の中には緩やかな起伏がありました。


撮影: 2011年5月

ここに城主の御殿があったとすると、庭園が
築かれていたのかな、と想像していました。
本丸からは16世紀後半頃の中国製青磁器の
お皿などがいくつも出土しているそうです。


撮影: 2011年5月

本丸の周囲には土塁も築かれていたようです。

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弓場城と今城

本丸を訪れた後深い空堀の底に降り、今度は、
南側にある弓場城と今城に向かいました。


撮影: 2011年5月

一段上ったところに左右の分かれ道があり
まずは、右手の弓場城に向かいました。


撮影: 2011年5月

弓場城への登城道は比較的分かり易く、
迷わず登って行けました。


撮影: 2011年5月

シラス台地の上にある知覧城の曲輪への
登城道は崩れやすく、落ち葉も重なり、
滑りやすくなっていました。

最後の急坂を上ると弓場城です。


撮影: 2011年5月

曲輪の周囲には木が生い茂っていますが、
曲輪の中は草が刈られ、視界が開けました。


撮影: 2011年5月

弓場城の曲輪には落ち葉が敷き
詰められた様になっていていました。


撮影: 2011年5月

曲輪の周囲には土塁も残っていたようですが、
この写真を撮っただけで、今城に向かいました。

今城の虎口の様子です。


撮影: 2011年5月

今城に登ると木々の間に丸太が組まれ、
シイタケでも栽培しているようでした。


撮影: 2011年5月

今城には、近くにもう一か所虎口がありました。


撮影: 2011年5月

こちらの虎口は曲輪の入り口の土塁が
はっきりと分かります。

木々を抜けると、広い空間が広がっていました。
今城は、知覧城の中でも最も広い曲輪です。


撮影: 2011年5月

今城の奥には立派な土塁が残っていました。


撮影: 2011年5月

今城の一番奥まで行って引き返し、
登った時と別の虎口から下城しました。


撮影: 2011年5月

虎口を下から眺めた様子です。


撮影: 2011年5月

土塁も残り、堅牢な様子が想像できます。


撮影: 2011年5月

こちらの虎口を出ると、曲輪の切り立った
切岸に沿って登城道が伸びていました。

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2006.11.11 登城記

鹿児島からのバスを、中郡のバス停で下車し
知覧武家屋敷群を訪れようと思ったのですが、
道路標識に知覧城址とあるのを見つけ南に歩き出しました。

知覧の旅行記はこちらです。

道はすぐに山間へと入って行きます。
丁度、行き逢ったお婆さんに知覧城への道を尋ねてみました。

お婆さんは『知覧城は碑だけで、何もないから』と言うばかりです。
それでも、なんとかこの道を10分程行けばお城が
ある事を確かめる事が出来、足を進めました。

その先道はいよいよ山間に入り、再び不安になり始めた頃、
山間の交差点に標識を見つけました。


撮影: 2006年11月

ここで右手の坂道を下って行くと、坂を下った所に
広場のように整備されている一角がありました。
この辺りが知覧城の跡のようです。


撮影: 2006年11月

周囲は深い山で、当時のお城は
自然に帰ってしまっているようです。
山を眺めているだけでは、どこにどのように
曲輪があったのか、想像も付きません。

僅かに整備された広場の一角から
山間に入る小道が続いているようでした。


撮影: 2006年11月

広場の外れに「知覧城址」の石碑がありました。


撮影: 2006年11月

この石碑は、知覧城の由来だけでなく、
知覧城の航空写真も載っている立派なものでした。


撮影: 2006年11月

この写真を見ると、周囲の山が夫々独立していて
それが曲輪になっていたようです。


撮影: 2006年11月

石碑に地図もあったのですが、どの山が
どの曲輪か、照らし合わせてもよく判りません。

後で訪れた「ミュージアム知覧」の資料では、
1992年(平成4年)から発掘調査が始まり、
2004年から蔵之城跡が公開されているそうです。

下の写真の山は、現地では本丸と思って撮ったのですが、
後で資料を見てみると、どうも伊豆屋敷という
曲輪があったところのようです。


撮影: 2006年11月

そして、広場の向こうは山が開けています。


撮影: 2006年11月

ここはどうも大手口だったところのようです。

限られた時間の中で立ち寄った知覧城でしたが、
予想以上に深い山が連なった山城のようで、
登城するには十分な予備調査と、時間が必要だと判りました。

知覧城は国指定の城址で、発掘調査も行われているので、
また改めて、訪れたいと思います。

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