知覧城入り口から櫓台
知覧城には2006年に一度訪れていますが、
その際には準備不足で、規模の大きな
知覧城を前に撤退しています。
そのリベンジで、2011年のGWに再訪しました。
ここが知覧城の入り口です。
撮影: 2011年5月
入り口の両側には高い台地が迫っています。
通路以外は雑草が深く生い茂り、
他の古城散策とは趣が異なります。
台地の崖には、第二次大戦の際に
彫られた防空壕もありました。
撮影: 2011年5月
通路は歩ける状態ですが、それ以外の所は
足を踏み入れられる状態ではありませんでした。
撮影: 2011年5月
上左の写真は、東ノ栫と今城の間の大きな空堀です。
ここを過ぎると空堀の幅が狭くなり、
周囲のシラス台地の曲輪が迫ります。
その迫力に、異次元の世界に舞い込んで
しまうかのような感覚を覚えました。
撮影: 2011年5月
途中で、本丸や蔵ノ城、今城そして弓場城の
案内表示が出ていましたが、まずは空堀底の
道を、真っすぐ歩いて行きました。
撮影: 2011年5月
本丸・蔵ノ城と、今城・弓場城との間の
空堀の底の登城道を歩いていきます。
撮影: 2011年5月
深く切れ込んだ空堀に中を何処をどう歩いたのか、
歩いた当時も記憶も薄れていますが、上の写真が
その空堀の端だったように思います。
木々の間から、道路なども見えていましたが、
ここも藪が深く、これ以上進めませんでした。
ここから引き返し、本丸や蔵ノ城を目指しました。
撮影: 2011年5月
途中で朽ちた木の階段が見えました。
古城の維持管理も大変と思います。
撮影: 2011年5月
この辺りを彷徨っていると、切れ込んだ
堀切とそれに続く小高い丘が見えました。
ひょっとして櫓台では、と思っていましたが、
帰ってから確認すると、蔵ノ城の南側に櫓台が
あったようで、どうもこの櫓台だったみたいです。
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蔵ノ城
本丸・蔵ノ城と、今城・弓場城との間の空堀の端まで
行った後に、引き返して本丸と蔵ノ城に向かいました。
空堀の様子はこちらです。
本丸と蔵ノ城へ向かう道です。
撮影: 2011年5月
所々、木の梯子が架けられているのですが
それも朽ち果て何度も滑り落ちながら上りました。
空堀から一段高い所への虎口です。
撮影: 2011年5月
一段高い所に上がると、本丸への道(下の写真左)と
蔵ノ城への登り口へと別れていました。
撮影: 2011年5月
まずは蔵ノ城に向かいました。
20m程の階段を上った所の蔵ノ城の虎口です。
撮影: 2011年5月
蔵ノ城では2001年(平成13年)から2004年
(平成16年)かけて発掘調査が行われています。
撮影: 2011年5月
発掘調査に基づいて、掘立建物の跡が
平面復元されていました。
撮影: 2011年5月
蔵ノ城の南側にはいくつも掘立建物の跡があり、
北側には木炭や窯の跡があったそうです。
撮影: 2011年5月
蔵ノ城の曲輪の周囲には、低くなって
いましたが、土塁の跡も認められました。
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本丸
蔵ノ城を訪れた後、空堀を隔てて
その反対側にある本丸に向かいました。
本丸への登城道です。
撮影: 2011年5月
蔵ノ城への登城道が、木々の間から見下ろせました。
知覧城では木々が生い茂っている所が多く、なかなか
広い範囲を見渡せずに、全体像を掴む事が出来ませんでした。
2011年5月には蔵ノ城、本丸始め、4つの曲輪を訪れたのですが
それらの曲輪の位置関係が、未だに良く分かっていません。
撮影: 2011年5月
階段を上り、辿り着いた知覧城本丸の虎口です。
登山道の周囲を木々が覆い、本丸に向かう途中では
この虎口の所だけ明るく陽が差し込んでました。
撮影: 2011年5月
知覧城本丸の様子です。
立派な城址碑が立っていました。
撮影: 2011年5月
本丸は、50m四方程度の広さがあり、
曲輪の中には緩やかな起伏がありました。
撮影: 2011年5月
ここに城主の御殿があったとすると、庭園が
築かれていたのかな、と想像していました。
本丸からは16世紀後半頃の中国製青磁器の
お皿などがいくつも出土しているそうです。
撮影: 2011年5月
本丸の周囲には土塁も築かれていたようです。
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弓場城と今城
本丸を訪れた後深い空堀の底に降り、今度は、
南側にある弓場城と今城に向かいました。
撮影: 2011年5月
一段上ったところに左右の分かれ道があり
まずは、右手の弓場城に向かいました。
撮影: 2011年5月
弓場城への登城道は比較的分かり易く、
迷わず登って行けました。
撮影: 2011年5月
シラス台地の上にある知覧城の曲輪への
登城道は崩れやすく、落ち葉も重なり、
滑りやすくなっていました。
最後の急坂を上ると弓場城です。
撮影: 2011年5月
曲輪の周囲には木が生い茂っていますが、
曲輪の中は草が刈られ、視界が開けました。
撮影: 2011年5月
弓場城の曲輪には落ち葉が敷き
詰められた様になっていていました。
撮影: 2011年5月
曲輪の周囲には土塁も残っていたようですが、
この写真を撮っただけで、今城に向かいました。
今城の虎口の様子です。
撮影: 2011年5月
今城に登ると木々の間に丸太が組まれ、
シイタケでも栽培しているようでした。
撮影: 2011年5月
今城には、近くにもう一か所虎口がありました。
撮影: 2011年5月
こちらの虎口は曲輪の入り口の土塁が
はっきりと分かります。
木々を抜けると、広い空間が広がっていました。
今城は、知覧城の中でも最も広い曲輪です。
撮影: 2011年5月
今城の奥には立派な土塁が残っていました。
撮影: 2011年5月
今城の一番奥まで行って引き返し、
登った時と別の虎口から下城しました。
撮影: 2011年5月
虎口を下から眺めた様子です。
撮影: 2011年5月
土塁も残り、堅牢な様子が想像できます。
撮影: 2011年5月
こちらの虎口を出ると、曲輪の切り立った
切岸に沿って登城道が伸びていました。
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2006.11.11 登城記
鹿児島からのバスを、中郡のバス停で下車し
知覧武家屋敷群を訪れようと思ったのですが、
道路標識に知覧城址とあるのを見つけ南に歩き出しました。
知覧の旅行記はこちらです。
道はすぐに山間へと入って行きます。
丁度、行き逢ったお婆さんに知覧城への道を尋ねてみました。
お婆さんは『知覧城は碑だけで、何もないから』と言うばかりです。
それでも、なんとかこの道を10分程行けばお城が
ある事を確かめる事が出来、足を進めました。
その先道はいよいよ山間に入り、再び不安になり始めた頃、
山間の交差点に標識を見つけました。
撮影: 2006年11月
ここで右手の坂道を下って行くと、坂を下った所に
広場のように整備されている一角がありました。
この辺りが知覧城の跡のようです。
撮影: 2006年11月
周囲は深い山で、当時のお城は
自然に帰ってしまっているようです。
山を眺めているだけでは、どこにどのように
曲輪があったのか、想像も付きません。
僅かに整備された広場の一角から
山間に入る小道が続いているようでした。
撮影: 2006年11月
広場の外れに「知覧城址」の石碑がありました。
撮影: 2006年11月
この石碑は、知覧城の由来だけでなく、
知覧城の航空写真も載っている立派なものでした。
撮影: 2006年11月
この写真を見ると、周囲の山が夫々独立していて
それが曲輪になっていたようです。
撮影: 2006年11月
石碑に地図もあったのですが、どの山が
どの曲輪か、照らし合わせてもよく判りません。
後で訪れた「ミュージアム知覧」の資料では、
1992年(平成4年)から発掘調査が始まり、
2004年から蔵之城跡が公開されているそうです。
下の写真の山は、現地では本丸と思って撮ったのですが、
後で資料を見てみると、どうも伊豆屋敷という
曲輪があったところのようです。
撮影: 2006年11月
そして、広場の向こうは山が開けています。
撮影: 2006年11月
ここはどうも大手口だったところのようです。
限られた時間の中で立ち寄った知覧城でしたが、
予想以上に深い山が連なった山城のようで、
登城するには十分な予備調査と、時間が必要だと判りました。
知覧城は国指定の城址で、発掘調査も行われているので、
また改めて、訪れたいと思います。
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