三之丸 〜 鴻臚館跡 〜 東二の丸(水の手)
虹ノ松原からJR筑肥線に乗車した電車を
福岡市地下鉄・空港線、赤坂駅で下車しました。
ここから福岡城散策を始めます。
地下鉄・赤坂駅は福岡城の内堀の
すぐ外側、東端に位置しています。
地下鉄の駅を出て西に向かうと、
福岡城の内堀とその南にある
福岡地方裁判所が見えてきました。
お堀端の道を歩いていくと、
地下道への入り口のようなものがあり、
ふと、見てみると、地下にある福岡城の
石垣が公開されてるようでした。
1910年(明治43年)に路面電車の建設工事の際に埋められ、
1977年(昭和52年)の地下鉄工事の際に発見されたそうです。
あまり形の整っていない玄武岩の石が
やや無造作といった感じで積み重なっていました。
この地下の石垣は土曜日のみ公開されているようで、
たまたま見学出来たのは幸運でした。
多くの人が足を運んでいる様子はなかったのですが、
狭い地下の出入り口にはボランティアの方も
詰めておられ丁寧に説明をして頂きました。
この地下石垣を出ると、上の橋御門の
枡形の石垣と土塀が見えてきました。
現在は土橋が堀を分断していますが、
当時は木の橋が架かっていたようです。
福岡城の内堀の様子です。
ビルの立ち並ぶ市街地と城址を分けています。
当時は堀の幅は三十間(約50m)あったそうです。
土橋を渡った先の上の橋御門の枡形は
工事中で入れませんでした。
枡形の過ぎ、城内に入ったところの様子です。
この右手は、以前は城内にあった
平和台球場の跡地が広がっていました。
ショベルカーも置かれていて、
整備工事が進んでいる様子で、
発掘調査も行われているようでした。
この一角は、筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれた
古代の迎賓館があった場所です。
最も古い史料は688年(持統朝2年)に
新羅の国使を迎えているそうです。
こうした迎賓館は、平安京と難波そしてこの福岡と
三箇所だけに作られていたそうです。
平安時代に、中国風に鴻臚館と改名され、
838年(承知5年)から1091年(寛治5年)に渡って
史料にその名が載っているそうです。
その鴻臚館跡に当時の遺跡の
展示館が建てられていました。
初めに案内図で鴻臚館跡を見たときに
てっきり江戸時代の福岡藩の藩校の名前と
早とちりしてしまいましたが、さすがに
この北九州地区には古い歴史が息づいています。
展示館の内部には発掘調査で出土した
建物跡の遺構が展示されていました。
当時はいくつもの建物が建っていたようです。
鴻臚館跡展示館の南には
低いながら土塁が残っていました。
この辺りは江戸時代の近世城郭というよりも、
中世のお城の雰囲気が漂っていました。
鴻臚館跡の西側には石垣が続き、
石垣の西側に回りこむと、
運動場が広がっていました。
この運動場は、福岡城の本丸を取り囲んでいた
二の丸の東側の部分で、この運動場の北側には
二の丸御殿が建っていたようです。
運動場の西側には高い石垣がありました。
本丸の石垣で、折れ曲がった部分は
小天守の位置にあたります。
本丸の石垣に沿って北に向かうと
本丸北東隅の御祈念櫓が見えてきました。
このあと、扇沢御門を抜けて、
二の丸から本丸へと進んで行きました。
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二の丸 〜 本丸
御祈念櫓を見上げながら北に向かうと、
扇沢御門があります。
立派な枡形の門です。
この門は二の丸御殿と
二の丸を分けていました。
暖かい日差しが降り注ぎ、
花壇に咲いた花を見ていると、
1月とは思えない陽気です。
二の丸を抜けて南に向かうと、
本丸へと続く表御門が見えてきました。
この表御門の櫓門は藩主・黒田家の菩提寺、
崇福寺に移築され、山門として現存しているそうです。
表御門を抜けると、すぐ目の前に
先ほど下から見上げた御祈念櫓が建っていました。
現在の建物は1860年(万延元年)に建てられたもので、
1918年(大正7年)に北九州市の大正寺に
移築されたそうです。
その後、1983年(昭和58年)に再び、
今の位置に戻されました。
どことなくお城の建物には見えない御祈念櫓ですが、
大正初期に撮影された古写真と比較すると
概観や規模が異なっているそうで、
大正寺に移築された際に改変を受けたと
推定されているそうです。
御祈念櫓から南に進み、天守台を目指しました。
本丸の様子です。
いまは公園として整備されていますが、
当時は、ここに所狭しと本丸御殿が
建っていた事でしょう。
御祈念櫓の南側で、本丸の石垣が
東に出っ張っている箇所があります。
ここが月見櫓跡の石垣です。
石垣の向こうに見える空き地は
本丸の東側の二の丸跡の運動場です。
この月見櫓も崇福寺に移築されたそうですが、
その後、櫓は解体され、その部材は
福岡市が管理しているそうです。
月見櫓を過ぎ、更に南に向かい、
一段高い石垣が小天守台の石垣です。
小天守から中天守台、大天守を眺めた様子です。
立派な連立天守を想像させますが、この福岡城には
天守は建てられなかったというのが定説になっているようです。
ところが Wikipediaを調べてみると、
当時の小倉藩主の細川忠興が、彼の三男・忠利に充てた
1620年(元和6年)の手紙に、「黒田長政が幕府に配慮し、
天守を取り壊すと語った」との内容が記されているそうです。
小天守を一旦下り、大天守台の南側に回ってみました。
立派な天守台で内部には天守の礎石も残っていて
かつては天守が築かれたような気もして来ました。
天守台の西側にまわると、
旧埋門の石垣が立ちはだかっていました。
門の上には通路が設けられていますが、
当時は石垣の上に櫓門が載っていて、
この門をくぐり、櫓門を通って
天守に行く構造になっていたようです。
天守台の北側には鉄御門跡の
石垣が聳え立っていました。
この鉄御門も天守に至る要衝の門で、
この狭い門が隘路となって敵の侵入を
防ぐ仕組みになっています。
福岡城の天守に向かうには、先ほどの埋門か
この鉄御門を攻め落とさなければならず、
福岡城が実際の戦いを想定し、かなり
守りを固めて築かれた様子が伺えます。
天守台から埋門を眺めた様子です。
埋門を抜けてた敵も、ここで待ち構える
守備兵にひとたまりもなかったことでしょう。
写真手前の石垣の窪みの間の地面に
天守の礎石が置かれていました。
こうして礎石を見ると、天守はかつて
建っていた、と思えてきます。
高台に建つ天守台からは福岡市街や
城内の様子がよく見えています。
左の写真は大濠公園、そして右は本丸の眺めです。
お城の周囲にはビルが建てこんでいますが、
広い福岡城址は木々に蔽われていました。
天守台を後に御武具櫓御門から
南丸に向かいました。
御武具櫓御門の虎口も狭く、
守りやすく攻めにくい構造になっています。
当時はこの虎口の上に櫓門が建ち、
左手には鉄砲櫓が建っていたようです。
御武具櫓御門を抜け、本丸の石垣の下の
坂道を歩いていくと、着物姿の女の人をモデルに
カメラを構えている人たちに出会いました。
坂道を下りきったところが裏御門です。
裏御門は門の幅も広く、
堂々たる造りの門だったのでしょうか。
裏門から二の丸を南に進み、
南丸を目指しました。
先ほど通った御武具櫓御門の脇の
鉄砲櫓台が聳えていました。
この周辺は石垣が幾重にもあり、
とても見ごたえがありました。
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南丸〜御鷹屋敷 〜 大手門
二の丸を南に進んでいくと、
冠木門があり、この奥が南丸です。
南門入り口の冠木門です。
この南丸の西側には平櫓の多聞櫓が残り、
その両端にも二重の櫓が建っています。
この南丸の多聞櫓は江戸時代からの建物が現存しています。
平櫓の部材には江戸時代初期のものも見受けられるそうですが、
1853年(嘉永6年)から翌年にかけて建て替えられているそうです。
上の写真左側が西角櫓、右側が北角櫓です。
北角櫓は1971年(昭和46年)の復元です。
多聞櫓を左端に、南丸を眺めた様子です。
福岡城の隠れ家的な感じがします。
南丸から二の丸に戻り、
桐木坂御門跡から三の丸へ降りてみました。
桝形となっている桐木坂御門の石垣です。
桐木坂御門から三の丸に抜けて、南に向かい
先ほどの多聞櫓を下から眺めてみました。
高く築かれた石垣の上に建つ、
多聞櫓と北角櫓の白壁が綺麗です。
下から見上げた多聞櫓の姿に満足し、
再び桐木坂御門を抜けて、一旦二の丸に戻り、
二の丸から北に向かって大手門を目指しました。
二の丸の東側、本丸の北西の
隅にある御時櫓跡の石垣です。
御時櫓跡の先には二の丸と三の丸の
境にあった松木坂御門があります。
門を出たところの下り坂です。
何重にも囲まれた石垣や、この坂道を見ると
福岡城は今では市街地化され判り難いですが
かなり起伏のある地形に築かれています。
松木坂御門を出ると三の丸ですが、一般道も通っていて、
城外に出てしまったような雰囲気になりました。
この道路に沿って北に歩いていくと、
道路の反対側に古びた倉庫のような建物があります。
これが旧母里太兵衛長屋門です。
「酒は飲め飲め 飲むならば」の黒田節の歌詞は
この母里太兵衛が、福島正則から酒を勧められた
逸話を基にしているそうです。
この長屋門は母里太兵衛の旧邸に
建てられていたものを移築したそうです。
旧母里太兵衛長屋門の手前交差点を
西に向かうと現存の名島門が建っていました。
1587年(天正15年)に小早川隆景が築いた名島城の脇門を、
黒田長政が家臣の林掃部に下げ渡し、これを
明治の中頃にこの位置に移築したものだそうです。
飾り気のない無骨な門構えが
戦国時代の気風を伝えているようです。
名島門の南にある舞鶴中学の校庭脇には
三の丸の石垣も残っているようですが、
見過ごしてしまいました。
旧母里太兵衛長屋門の北側の高台は、
初代藩主・黒田長政の父、黒田孝高(如水)の
隠居地だった御鷹屋敷跡です。
その北側、大手門の脇に櫓が建っていました。
現地案内板では、潮見櫓を移築されたものと記されています。
ところが、黒田氏の菩提寺の崇福寺に移築されていた
月見櫓と思われていた櫓の部材から潮見櫓の棟札が
発見されたそうです。
この伝潮見櫓から下の橋大手門を抜け、
規模の大きな福岡城の散策を終えました。
この下の橋大手門は2000年(平成12年)8月に
不審火で焼け落ちてしまい、訪れた時には
修復工事が行われていました。
2008年11月に復元工事は竣工し、
今は一般公開されているそうです。
福岡城は、52万石の黒田藩の居城に相応しく
規模の大きい、そして石垣の見事なお城でした。
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