原城
Hara Castle, Japan


登城日:
2007. 03. 31






原城は1496年(明応5年)に日野江城の支城として
キリシタン大名・有馬貴純によって築城されたようです。
1616年(元和2年)に松倉重政が日野江城に入りますが
島原城を築城した為、日野江城と共に廃城になったそうです。


この原城が歴史上に名を留める事になったのは
江戸時代初期の1637年(寛永14年)に勃発した
島原の乱の舞台となった為です。

島原では藩主・松倉重政とその後継、松倉勝家が
圧政に耐えかねた島原半島の領民が
旧有馬氏の家臣らの下に組織化され、
蜂起し、一揆を起こします。

天草でもキリシタン大名だった小西行長の後に
天草を治める事になった寺沢広高と、次代の
寺沢堅高の圧政を受けていた領民が、
この島原の一揆に呼応して蜂起し、
14歳の天草四郎を総大将として担ぎ、
原城の島原一揆軍に合流しました。


島原鉄道に乗り、加津佐まで行った帰り道に、
原城駅で下車し、この原城に向かいました。

島原鉄道の乗車記はこちらです。



地図はこちらです→ Mapion

原城は有明湾に突き出した岬の
丘陵地帯の上に築かれています。



北側(上図では右下)に大手門があり、
三の丸、二の丸そして本丸と曲輪が続いています。
三の丸、二の丸の西側には出丸が続き、
本丸の南には天草丸という曲輪が控えています。


原城は原駅から歩いて、20分程の距離にあります。
古い町並みを抜け、小さな川を渡ると、町並みも尽き、
小高い丘が見えてきました。



民家の裏山といった感じですが、ここが天草丸です。
天草郡の約2千名がこの曲輪に立て籠もり、
福岡藩や唐津藩の攻撃を受けたところです。

天草丸から本丸を望む景色は、
とてものどかなものでした



海が押し寄せる高台の本丸は今まで見てきた
お城の景色とは随分違った眺めです。
晴れていればどこか南国のリゾート地に
いるような錯覚にも陥りうでしょう。


天草丸から田町御門を抜けて本丸を目指しました。
田町御門も、1400名の一揆軍が
守備を固めたところだそうです。

田町御門を過ぎたところから望む本丸。



小高い丘の上に櫓跡や石垣が整備されています。

本丸跡に放置されたように散在している石。



これはきっと石垣に使われた石でしょう。
その向こうに菜の花と桜が綺麗に咲いていました。

その時、追い詰められて命を賭けて闘った
島原や天草の人々の悲壮な決意も
時が経ち、やがてその歴史風化して、
のどかな景色へと変わってしまう・・・
そんな事を思うたび、世の中や人生の無常を感じます。

本丸の北側に虎口の様子が整備されていました。



虎口はお城の入り口で、原城にもここに櫓門があったようです。
調査では大量の人骨も出土して、島原の乱の時には
この門目指して、多くの幕府軍が押し寄せたことでしょう。

本丸から眺めた北側の出丸の様子です。



出丸との間に堀の様な窪地があります。
ここを幕府の軍勢が埋め尽くしたのでしょうか。
その左手には天草丸の向こうに有明海が見えています。



今にも雨が降りそうなどんよりとした天気で、
風も肌寒かったのですが、この景色を
いつまでも眺めていたかったです。

原城の本丸は100m四方程の広さがあり、
その片隅に天草四郎の像が立っていました。



僅か14歳で、島原の乱の総大将となったのは
カリスマ性を持っていたのでしょうが。

像の近くに彼のお墓も残っていました。



天草四郎、本名は益田四郎時貞というそうです。

一揆軍は88日間、この原城に籠城していましたが
圧倒的な幕府軍の前についに原城は落城し、
天草四郎はこの本丸で首を切られたそうです。

1638年(寛永15年)2月28日の事だそうです。
もともと彼のお墓は別の場所にあったそうですが、
ここに移されたそうです。


お墓の近くには、キリシタンだった彼や
多くの一揆軍の人々を偲んでか
十字架の塔も建てられていました。



島原の乱は、一般にはキリシタンの幕府への反乱
という事になっていますが、実際には圧政に絶えかねた
領民の大規模な一揆というのが実情のようです。

幕府も建前上、隠れキリシタンの征伐という
立場を取っていたようですが、時の島原藩主・
松倉勝家は打ち首という厳刑に処されていて
藩主の圧政による一揆という事を裏付けています。


天草四郎のお墓の近く、本丸北側に
池尻口門跡がありました。



原城は、島原の乱の後、徹底的に
破壊されたのですが、発掘調査によって
少しずつですが、当時の様子が蘇っているようです。

池尻口門から続く本丸北側の石垣の様子です。



さすがに豊臣系大名だった有馬貴純の
築いたお城だけあって、石垣もしっかりと
築かれていたようです。

本丸の北を西側の端まで歩いていくと
道路を挟んで、向側の出丸との間の
大きな空堀が残っていました。



そして、本丸の北側に二の丸があります。



二の丸、三の丸そして大手口と
原城址を南から北へと攻めるつもりでしたが、
二の丸に着いた途端、どんよりと垂れ込めていた
雲の底が抜けたように突然、
大雨に見舞われてしまいました。

鞄の中の折畳の傘を取り出している間に
全身が濡れてしまう程の激しい雨です。

強い横殴りの雨で、困ったなと思いながら
立ち尽くしていると目の前に一台の車が止まりました。

どうも、雨に打たれている姿を見て気の毒に思ったのか
近くでよければ車に乗せて頂けるという事でした。
この強い雨では、城址を見ることも出来ないので、
ご好意に甘え、原城駅まで乗せていって頂く事にしました。

島原鉄道の乗車記はこちらです。


知覧城で、道を訪ねた時にも車に乗せてもらったのですが、
九州では、いつも親切な人に出会っているように思います。

知覧城の訪問記はこちらです。


と言うわけで、訪問途中になってしまった原城ですが
見所の本丸は訪れる事が出来たし、人の親切にも
巡り合う事が出来、記憶に残るいい旅となりました。

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