原城は、近世の人吉城が築城される以前、
中世期に築かれていた古城です。
近世・人吉城の登城記はこちらです。
この原城は鎌倉以前から存在していたようで、
平安末期の城主は、矢瀬主馬裕だったそうです。
源頼朝が鎌倉幕府を建てた後、1198年(建久9年)に
相良長瀬を城主に任命しています。
相良氏はその後、明治を迎えるまでの670年に亘り
この地を治めていますが、1587年(天正15年)に
石垣造りの人吉城を現在の位置に築いています。
原城は上原城、中原城そして下原城の3つに分かれ、
その規模は夫々、現在の人吉城に匹敵するほどです。
原城(中世人吉城)には、2011年5月に登城しています。
その時の様子を紹介します。
JR人吉駅駅から南に徒歩25分程です。
人吉駅のあるJR肥薩線の乗車記はこちらです。
【原城(中世人吉城)登城記】 上原城跡
2011年5月2日、鹿児島県の隼人から肥薩線の列車を
乗り継いで人吉に着き、一旦、湯前まで往復した後、
人吉駅からレンタサイクルで人吉城に向かいました。
人吉城の南の端、藩の武芸道場だった郷義館跡から
東へと丘陵地に向かって道が伸びています。
丘陵地の向こうには、人吉城の前身、
中世に築かれた原城址が眠っています。
切通を抜け、景色が開けると、道端に
「忠魂の碑」と記した案内表示がありました。
この辺りに、当時は城門があったようです。
ここの右手の細い道を上ると上原城址です。
坂道を上ると、意外なほど広い空間がありました。
差し渡しは150m程はあるでしょうか。
上原城の城跡は、耕地になっているのかどうなのか
分からず、ここに足を踏み入れていいものかどうか、
迷っていました。
結局足を踏み入れませんでしたが、開けた空き地の
真ん中程には、低い段差があり、そこには
石垣も築かれているようでした。
この広い曲輪の虎口のところから振り返ると、
先ほど人吉城跡から歩いてきた道越しに
貯水池が見えていました。
この貯水池は、中原城のあった場所になります。
上原城の広い曲輪から一段下がったところには
忠魂碑や原城の案内板がありました。
中原城は、上原城の北側の高台にあったようです。
現在は、貯水池になっていて立ち入る事は出来ません。
上原城の虎口からが中原城を最も良く眺められると思います。
貯水池のすぐ東側には鉄筋のアパートが建っていますが、
このアパートの位置は中原城の東にあった下原城のようです。
駐車場の位置に、当時は空堀が掘られていたようです。
下原城は上原城や中原城の東にありました。
近世・人吉城からの道を更に東に進むと
瑞祥寺があります。
気が付かなかったのですが、上原城との間に空堀があったようです。
今は、寂れていますが、当時は藩主の菩提のお寺だったのでしょうか。
この先に四つ角がありますが、四つ角から南に
向かう道は下り坂になっていて、ここには当時
空堀があったのではないでしょうか。
この四つ角の東側には畑が広がっていました。
下の写真は四つ角の南東に広がる畑です。
原城外回りと呼ばれる曲輪で、
中世原城の最も東側にある曲輪です。
その北側に広がる畑です。
こちらは下原城の城域に当たります。
畑の向こう側に見える集落まで足を延ばしてみました。
何か当時の遺構でも残っていないか、と思ったのですが
それも見当たらず、下の写真を撮って引き返しました。
後で、地図を見てみると、この集落の先で
丘陵地が尽き、その下を肥薩線の線路が
走っていたようです。
JR肥薩線の乗車記はこちらです。
人吉城跡公園
以上で、中世人吉城の原城址の主要な曲輪を
訪れた訳ですが、下原城の北側の丘陵地も
人吉城址公園となっているようなので、
そちらも訪れてみました。
一旦、人吉城と原城(中世・人吉城)を隔てる、
切通を超えて西に向かい、三叉路を右に折れ、
谷口渡跡の方へと向かいます。
一旦、人吉城と原城(中世・人吉城)を隔てる、
切通を超えて西に向かい、三叉路を右に折れ、
谷口渡跡の方へと向かいます。
丘陵地も公園として整備され、
散策路が丘の上にも通じていました。
古城の遺構とはっきり判る地形はありませんでしたが、
所々、土塁跡かと思えるところもありました。