人吉城
Hitoyoshi Castle, Japan

登城日:
2011.5.2

【人吉城 概要】

人吉城は球磨川の中流部、胸川との合流部に築かれたお城です。

人吉城の歴史は古く、鎌倉時代初めに遡ります。
源頼朝から築城の命を受けた、遠江国相良庄
(現在の静岡県牧之原市相良)出身の
相良長頼が築城したそうです。

相良氏はその後明治を迎えるまでの
670年に亘りこの地を治めています。

築城後の人吉城は1470年(文明2年)頃、第12代当主・
相良為続の時に本格的な築城がなされたそうです。

その後、1589年(天正17年)に20代当主・相良長毎が
石垣つくりの城構とし、1601年(慶長6年)に本丸・
二ノ丸や堀や櫓群を築き、近世城郭として整備され、
以降1639年(寛永16年)まで城郭の整備が続いたそうです。

戦国時代末期までの中世の人吉城、
原城の登城記はこちらです。


人吉城の縄張りは、球磨川沿いの三ノ丸の
南東部に二ノ丸が配置され、丘陵地に
本丸と連なる梯郭式になっています。

この人吉城には、2011年5月に登城しています。
その時の様子を紹介します。

【人吉城へのアクセス】

JR人吉駅から南に徒歩15分程です。

人吉駅のあるJR肥薩線の乗車記はこちらです。

【人吉城登城記】

谷口渡跡
NEW ! May 26, '19

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大手門から馬責馬場跡

2011年5月2日、鹿児島県の隼人から肥薩線の列車を
乗り継いで人吉に着き、一旦、湯前まで往復した後、
人吉駅からレンタサイクルで人吉城に向かいました。

肥薩線の乗車記はこちらです。
くま川鉄道の乗車記はこちらです。

国宝の青井阿蘇神社を訪れた後、球磨川に沿って
川上に向かい、大橋を渡って南に向かうと
球磨川沿いに人吉城が見えてきました。


撮影: 2011年5月

球磨川と胸川の合流部に築かれた復元・角櫓と
それに続く土塀の白壁が川の青さによく映えています。

人吉城との最初の出会いがこの眺めでしたが
これは素晴らしい光景でした。

胸川に沿ってさかのぼっていきます。
対岸の土塀と多聞櫓が一望出来ました。


撮影: 2011年5月

この眺めも素晴らしい眺めでした。

胸川沿いの人吉城の復元櫓を眺める
うちに道端に地蔵堂がありました。


撮影: 2011年5月

相良氏が人吉の地に入る前に、平朝臣笠山
周防守宗慶が建立したと伝わるそうです。

この先の橋を渡ると人吉城大手門跡です。
大手門跡の脇には復元された大手門横長櫓があります。


撮影: 2011年5月

この大手門横長櫓も球磨川と胸川の合流部に築かれた
角櫓も、明治維新後の廃城令で取り壊されてしまい、
それを1993年(平成5年)に復元したものです。

その脇に残る大手門の櫓台です。


撮影: 2011年5月

大手門は櫓門で、厳重な守りになっていたようです。
大手門へと架かる大手橋は、大手門に真っすぐに
入れないように手前で鉤型となるように、
ズラして架けられていたようです。

大手門跡と大手門横長櫓との間には
胸川へと降りる石段が続いています。


撮影: 2011年5月

立ち入ることが出来たので行ってみましたが、
櫓が見上げるように迫り、威圧感を覚えました。

大手門横長櫓の様子です。


撮影: 2011年5月

訪問した時点で再建から18年が経ち、
現存のような風格も出ていました。

大手門横長櫓の前には建物の礎石跡が示されていました。
天保期(1830〜1844)には、ここは家老の
渋谷三郎左衛門の屋敷だったようです。


撮影: 2011年5月

その先に、先ほど外側から眺めた角櫓があります。


撮影: 2011年5月

元々この場所には重臣の相良清兵衛
頼兄の屋敷があったそうですが、
1640年(寛永17年)の「御下の乱」で屋敷が
焼け、その直後に角櫓が建てられたそうです。

角櫓の脇に「御下の乱」の供養碑がありました。


撮影: 2011年5月

これは専横のふるまいのある相良清兵衛頼兄を
21代当主・相良頼寛が、父の遺言に従い幕府に
届け出、相良頼兄は津軽藩お預かりとなりましたが、
これを不服とした犬童半兵衛らが反乱を起こし、
121名が死亡したものです。

角櫓の前には軍役蔵の跡もありました。


撮影: 2011年5月

角櫓から三ノ丸までの約200m程の区間には
江戸時代には上級武士らの屋敷が並んでいました。


撮影: 2011年5月

江戸時代初期には下台所や犬童市右衛門の
屋敷があったそうです。

屋敷跡から三ノ丸、二ノ丸そして
本丸の方向を眺めた様子です。


撮影: 2011年5月

小高い丘の上に本丸がありました。


撮影: 2011年5月

上の写真は、相良内蔵助の屋敷の大井戸の遺構です。
この辺りは、他にもいくつかの屋敷の跡が
整備されて、案内板も充実していました。

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御館跡から堀合門

人吉城の大手門跡から角櫓、家臣等の
屋敷跡を巡り、東に向かうと、南北に走る
道路の向こうに石垣が見えてきました。


撮影: 2011年5月

この道路が当時の馬責馬場跡と思います。
石垣に沿って南に向かうと、人吉城三の丸の
南に築かれた堀が見えてきました。


撮影: 2011年5月

この堀の向こう、一段高い区画は
駐車場になっていますが、江戸時代は
ここに人吉藩の武芸道場・郷義館がありました。


撮影: 2011年5月

郷義館は、相良氏第31代・相良長寛 (ながひろ、1752-1813)
が1788年(天明8年)に創建したものです。

郷義館跡から少し戻り、堀に架かる橋を通り、
石垣に囲まれた一角に足を踏み入れました。


撮影: 2011年5月

ここは江戸時代に御館 (みたち) がありました。
御館は1683年(天和3年)に藩主の居宅として築かれた
もので、以降人吉藩の藩政の中心になった建物です。


撮影: 2011年5月

現在、御館跡は藩主だった相良氏を祀る
相良神社になっています。

神社の脇には御館の庭園跡もありました。


撮影: 2011年5月

小さいながらも池泉回遊式の庭園が残り、
藩主・相良氏の豊かな生活がしのばれます。

相良神社から石垣に沿って馬責馬場跡を
北に向かいました。

人吉城の北の端は球磨川に面していて、
球磨川に沿って石垣が続いていました。
石垣の手前に見える建物跡は米蔵跡です。


撮影: 2011年5月

この石垣は、石垣の上部がせり出している
「武者返し」という構造になっています。

この石垣は1862年(文久2年)2月に起きた寅助火事と
呼ばれる大火で城が全焼したのちに築かれたもので、
「武者返し」の構造は耐火性を高める為だそうです。


撮影: 2011年5月

「武者返しの石垣」に沿って行くと水ノ手門です。
上の写真は、球磨川に架かる橋から
眺める水ノ手門の様子です。

水ノ手門は、球磨川の水運を生かし、年貢米等を
城内に運べるように船着き場に設けられていました。


撮影: 2011年5月

船から荷揚げされた年貢米が、石垣の裏に
あった米蔵に運ばれていました。

水ノ手門から東は、川沿いに石垣が続き、
防御性が高くなっていました。


撮影: 2011年5月

先ほどの「武者返しの石垣」まで戻り、
更に東に進むと、堀合門がありました。


撮影: 2011年5月

堀合門は御館の裏門で、江戸時代の門は
人吉市内に移築され現存しているそうです。

現在、ここに建つ堀合門は2007年(平成19年)に
再現されたものですが、石垣や塀もあり、
当時の雰囲気が良く残っています。

堀合門を抜けると、御館跡に行くことが出来ます。
そこから眺める「武者返しの石垣」の裏側は
土塁のようになっていました。


撮影: 2011年5月

この土塁には上る事が出来ました。

そこから眺める御館跡の様子です。


撮影: 2011年5月

水ノ手門も手に取るように眺める事が出来ました。


撮影: 2011年5月

西欧の技術を取り入れたという「武者返しの石垣」の
槹出
(はねだし) 工法の様子が間近に眺める事が出来ました。

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三の丸から本丸

人吉城の三の丸、二ノ丸そして本丸は
御館の東側の丘陵地に築かれていました。
御館跡から三の丸に向かいました。

石段が続いていますが、当時ここに三の丸への
登城口があったかどうか定かではありません。


撮影: 2011年5月

しばらく石段を上ると、ほぼ垂直の石垣の擁護壁の脇を
登っていきますが、この擁護壁は近年築かれたもののようです。

石段を上ると広い敷地が現れました。


撮影: 2011年5月

左手の平地は、12世紀に相良長頼が人吉城を築城する前に
この地を治めていた平氏の代官・矢瀬主馬祐を祀る於津賀社跡です。

西郷隆盛が起こした西南の役では、この人吉城も
戦乱に巻き込まれていますが、西郷軍はこの
於津賀社跡に陣を敷いたようです。

於津賀社跡から眺める球磨川の流れです。


撮影: 2011年5月

高台にある於津賀社跡からは視界が良く開けていました。
この上にある二の丸や本丸からよりも展望が効いていて、
西郷軍がここに布陣した理由が良く判ります。

於津賀社跡から眺める三の丸、二の丸の様子です。


撮影: 2011年5月

二の丸と三の丸石垣が重なり、壮観な眺めです。

この後、三の丸に向かいました。


撮影: 2011年5月

三の丸は広大な敷地が広がっていました。
当時は、西側の石垣に沿って塩蔵が建っていた
ようですが、中央は空き地になっていたようです。

三の丸から眺める於津賀社跡の様子です。


撮影: 2011年5月

三の丸にあった井戸跡の様子です。
今は躑躅が植えられていました。


撮影: 2011年5月

三の丸の井戸跡の東側に二の丸の
正門にあたる中の御門跡がありました。


撮影: 2011年5月

門の両脇には立派な石垣があり、中の御門は
この石垣の上に築かれた櫓門だったようです。
通路は折れ曲がり、桝形のようになっていました。


撮影: 2011年5月

この中の御門を抜けると二の丸です。


撮影: 2011年5月

江戸時代初期、藩主の御殿が築かれ、
二の丸は本城と呼ばれていたようです。

しかし、江戸時代初期の1683年(天和3年)には
三の丸の麓に藩主の居宅として御館が建てられ、
丘陵地にある三の丸から本丸にかけての曲輪は
無用の長物になっていたと思われます。

二ノ丸の北西には、三の丸へと通ずるもう一つの門がありました。


撮影: 2011年5月

狭い石段が続くこの門は、埋御門と名付けられていて、
土塀の下に出入り口があったようです。

二の丸から眺める広大な三の丸の様子です。


撮影: 2011年5月

二の丸の南側には本丸へと続く石段がありました。
本丸は二の丸より更に20〜30m程高い位置にあります。


撮影: 2011年5月

本丸の様子です。
本丸は三の丸や二の丸に比べると
思いの外、狭い曲輪だったようです。


撮影: 2011年5月

江戸時代を通じて天守は建てられず、
護摩堂が築かれていたようです。

本丸を訪れた後、三の丸の北にある御下門に抜けました。
二の丸と三の丸の間にある中の御門の脇から
急な下り坂の石段が続いていました。


撮影: 2011年5月

石段を降り切った所に御下門がありました。


撮影: 2011年5月

御下門の両脇には立派な石垣が築かれ、
更には櫓台もありました。


撮影: 2011年5月

堅牢な門の構えから察するに、この御下門が
江戸時代には、三の丸から二の丸に至る
大手筋にあたると思います。

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谷口渡跡

人吉城の南の端、藩の武芸道場だった郷義館跡から
東へと丘陵地に向かって道が伸びています。


撮影: 2011年5月

丘陵地の向こうには、人吉城の前身、
中世に築かれた原城址が眠っています。

原城址(中世・人吉城)の登城記はこちらです。

その手前の三叉路を左に折れると、人吉城の東端に位置する
地蔵院や清水観音跡、そして球磨川の谷口渡し跡があります。


撮影: 2011年5月

この辺りは、中世の頃からいくつもの寺院や神社があったようです。
今は、どの寺社も廃れてしまっていて、石垣が残るばかりです。


撮影: 2011年5月

北に向かって左手に地蔵院がありました。
地蔵院は室町時代の1467年(応仁元年)に
愛宕神社の別当として建てられたそうです。


撮影: 2011年5月

そして、以前は堀の役割を果たしてた小川の向こうには
清水観音跡の立派な石垣がありました。


撮影: 2011年5月

まるで櫓が建っていたかのような石垣です。
いまは訪れる人も少ない狭い谷間の道ですが、
当時はどのような光景が広がっていたのでしょうか。

そして、この先は球磨川に行き着きました。
球磨川には江戸時代、谷口渡しの跡の案内がありました。


撮影: 2011年5月

当時は、球磨川には二か所しか橋が架かっておらず
いくつもの渡しがあったようです。

また人吉藩は、この谷口渡しから上流には他藩の船が
行き来する事を禁止しており、そおの監視所もあったようです。


撮影: 2011年5月

滔々と流れる球磨川の様子です。
西側には球磨川沿いに石垣が連なっていました。


撮影: 2011年5月

川面の高さから眺める石垣は高くそびえ、
人を寄せ付けない護りの方さを実感しました。

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