知覧・亀甲城
Kikkou Castle, Japan


登城日:
2006. 11. 11







亀甲城は、知覧城の支城だったお城と言われています。
知覧の武家屋敷の東にある小高い山にあったお城です。

知覧の旅行記はこちらです。


地図はこちらです→ Mapion

知覧は、薩摩藩の外城制とよばれる、藩内に
110箇所以上の行政区域(麓)にわけた"麓"の一つです。

知覧の武家屋敷は、その"麓"と呼ばれる在郷の家臣の屋敷跡です。
とすると、知覧には領主の住んだお城があったと思われ
あるとすればそれは、この亀甲城だったように思います。


知覧の武家屋敷群を、西から本馬場通りに沿って
東の端まで散策し、突き当りのT字路を右に曲がって
亀甲城を目指しました。



通りの裏側から眺める武家屋敷群は
のどかな農村の風景です。

この景色を過ぎ、小高い丘に向かいました。
亀甲城へ小道を見つけたのですが、
鎖が張られ、進入禁止の様な雰囲気です。

武家屋敷群を散策している時は、
多くの観光客の人がいたのですが、
この亀甲城まで足を伸ばす人は殆どいないようです。

行っていいのかな?と躊躇しかけましたが、
それを乗り越え、お城に向かいました。

しばらく歩くと、道端に井戸が見えてきました。



山の影にある井戸は、どことなく異様な感じがしました。

足早に井戸を去り、少し歩くと景色が開け、
萱葺きの家が現れ、ホッとします。



この家も、知覧特有の二ツ家と呼ばれる構造で、
今は廃屋のようになっているのですが、
当時はお城に一番近いこの位置にあった
屋敷は、重臣の屋敷だったと思われます。


亀甲城址へ向かう道は、小高い丘の上の城址へ
螺旋を巻く様に続いているのですが、
古びた階段を見つけ、ショートカットして上って行きました。

この階段は、当時からの登城のルートに
なっていたのかどうかは不明ですが、
階段を上がると、開けた地形が現れました。



今は休憩所になっているようですが、
きっと当時は、曲輪の一つだったと思います。

ここから螺旋状に上る道に戻り、少し行くと左手に
木の生い茂る中に平坦な地形が見て取れました。



先ほどの休憩所が三の丸、この藪の中の平地が
二の丸跡かな?と思いながら更に歩いて行くと
程なく坂道が尽き、少しばかりの空き地が広がりました。



ここが亀甲城の本丸跡のようです。
「南朝義臣知覧氏彰忠碑」という碑が
本丸跡の片隅に立っているだけの城址でした。


小高い丘のお城なので、10分ちょっと程で登り、
来た道を引き返し、武家屋敷群の方に戻りました。
後で調べてみると、亀甲城の北側に出れば、
1853年(寛永5年)に架けられた麓川にかかる
矢櫃橋(やびつばし)を渡ったり、麓川越しに、
亀甲城の様子が眺められたようで、
それがちょっと残念でした。

また、この亀甲城が知覧の外城制の下に存在した
お城だったとすると、この規模からすると
せいぜい1000人単位の兵力を構えられる程度と思います。

戦国時代の群雄割拠の時代ならばともかく、
徳川幕府が成立した後には、ひとたび戦となれば
数十万単位の兵力が展開出来、この小さな
亀甲城は、その兵力の前では殆ど無力だったと思います。

この亀甲城に来てみて、1615年(元和元年)の
一国一城令後も薩摩藩が維持してきた外城制は
単に軍事的な防衛強化の為ではないように思えたのでした。

この辺りの考察は鹿児島城のページも参考下さい。




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