豊前 小倉城
Kokura Castle, Japan


登城日:
2009. 5. 9







【小倉城概要】


小倉城は、古くは13世紀中頃に
築城されたという記録が残るそうです。

近世小倉城は戦国時代末期の1587年(天正15年)に
森(後の毛利)勝信が6万石で移封したのが始まりです。

その後、関ヶ原の戦いで功を挙げた細川忠興が
40万石の領地を得て、1602年(慶長7年)から
7年間かけて本格的な築城を行いました。

関ヶ原古戦場の様子はこちらです。

1632年(寛永9年)に細川氏が熊本に移ると
小笠原忠真が15万石で入城します。




その後、幕末まで小笠原氏が城主を務めますが、
1866年(慶応2年)の第二次長州征伐の際に、
小倉藩は長州藩に攻め込まれ、小倉城から
撤退し、そのまま明治を迎えました。

ちなみに小倉城を落城させた長州藩は、
戦勝記念として、小倉城の太鼓を
下関に持ち帰っています。

下関の散策記はこちらです。





小倉城はお城の中心に本丸、
その南に松の丸北に北の丸を配し、
これら中心部を二の丸、三の丸が取り囲む
梯郭式の縄張りで、東側は入り江に面していたようです。



【小倉城へのアクセス】


小倉城は西小倉駅の南、約500m。
歩いて5分程です。




【小倉城登城記】



西ノ口門から松の丸を経て本丸へ
Nov. 27, '11

天守から多聞口門を経て北の丸へ
Nov. 29, '11

下台所から下屋敷、大手門へ
Dec. 02, '11

二の丸石垣跡、大門跡
NEW ! Dec. 06, '11


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西ノ口門から松の丸を経て本丸へ


西小倉駅から駅前の大通りを南にしばらく歩くと
最初の大きな交差点を過ぎると東側の角に、
水堀と石垣が見えてきました。



この水堀は小倉城内堀で、
この石垣のある曲輪は小倉城北の丸です。
堀の外側は、往時は二の丸だったところです。

小倉城の西側の水堀に沿って南に下って歩き、
西ノ口門から城内に入りました。



この西ノ口門に入る手前には、
松本清張記念館があったのですが、
時間がなく入るのを断念しました。

西ノ口門を入って右手に松の丸があります。



50m四方も無いような小さな曲輪です。
曲輪の片隅に小さな塔も建てられていました。

これは白洲灯台を模して建てられたもので、
白洲灯台は幕末から明治にかけ岩松助左衛門という
庄屋さんが私財をなげうって、海難事故の多い
響灘の白洲に建てた灯台です。


松の丸から西ノ門へ戻ると、
北側には鉄門がありました。
鉄門は本丸への入り口に当たります。



この鉄門は一般家臣らの登城口でした。
手前の石垣は後世に築かれたもので、
奥(門の左側)は幕末に小倉城が落城した際に
赤茶色に変色した部分がわかります。

西ノ口門から鉄門、そしてその東側へと
本丸南端の石垣が続いています。



この石垣に沿って東へ向かうと槻門跡がありました。

上右側の写真です。

こちらの槻門は城主や家老など
限られた人が使っていた正門です。

本丸に入り眺めた大手門の様子です。



正面の坂道を下ったところが大手門。
右側の通路の先に槻門があります。

本丸から眺めた小倉城天守です。



この天守は1837年(天保8年)の火災で焼失してしまい、
その後、1959年(昭和34年)に再建されています。

小倉城の本丸には、いくつかの塚が立っていました。



左は筆塚、右は花塚です。

そしてこちらは茶筌塚です。



小倉藩主となった小笠原忠真公ゆかりの
文化の血が濃く流れているのでしょうか。



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天守から多聞口門を経て北の丸へ


天守の横にある櫓から
小倉城天守に上ってみました。



小倉城の天守は4重5階で、
石垣の上からの高さは28.7mです。


城内には2枚の虎の絵がありました。



左が迎え虎、右が送り虎というそうです。

幕末の第二次長州征伐で
小倉城は焼失してしまいましたが
その年が1866年(慶応2年)の寅年。
その寅年にちなんで描かれたそうです。


天守内の展示を眺めながら階段を上がり、
5階の展望室から城内を眺めてみました。



上の写真は西側の眺めです。

そして下の写真は北側の様子です。



堀の横にある櫓状の建物は斎場です。
上左写真は城内にある八坂神社の杜です。

そして、こちらが東側を眺めた様子です。



当時は下屋敷があったところに
大名庭園と書院を復元した
小倉城庭園が築かれていました。


天守に登った後で、北の丸に向かいました。
本丸の西にある着見櫓です。



この着見櫓は外見は当時のままの再建です。
今は「糠蔵」という漬物屋さんになっていました。

この着見櫓の脇に多聞口門跡がありました。



この多聞口門の石段を下っていくと
本丸と北の丸の間の空堀が見えました。




小倉城の北の丸は、
八坂神社の境内になっています。



この八坂神社は870年(貞観12年)に
祇園社として創建されています。
1617年(元和3年)に小倉藩の
総鎮守とされました。

小倉祇園太鼓は、この八坂神社の例祭です。








立派な門をくぐると、北の丸と二の丸の
間にあった内堀が広がっていました。



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下台所から下屋敷、大手門へ


北の丸にある八坂神社の
境内を東に向かいました。

北の丸と下台所の間の堀の様子です。



堀の向こうに見えるカラフルなビルは
リバーウォーク北九州という商業施設です。

この右手が下台所です。
八坂神社の立派な楼門がありました。



この楼門を抜け、下台所跡の曲輪の様子です。



当時は、どのような建物が建っていたのでしょうか。
今は、小さな祠が1つ2つあるばかりです。

大きな石の鳥居をくぐりました。



下台所跡の北側の内堀です。
5月ということもあって、沢山の鯉幟が
堀の上にたなびいていました。



そして下台所の南には、
小倉城天守が聳えていました。
4重5階の立派な模擬天守です。



1959年(昭和34年)に建てられました。

小倉城天守は5階部がその下よりも
張出した唐造りになっています。
最上階が黒塗りになっていて特徴的です。

とても端正な姿なのですが、残念なのは
2階から3階にかけての大きな破風です。
当時はこうした破風は無かったそうです。


下台所の石鳥居をくぐった正面に下屋敷跡に
建てられた小倉城庭園があります。



1998年(平成10年)にオープンした小倉城庭園です。
ここには展示館や書院(下の写真)が建てられています。



書院は池に建物の一部がせり出した
懸造りになっていました。

書院の内部はとても落ち着いた空間でした。


小倉城庭園を訪れた後、更に南へと向かいました。
この先に大手先門跡がありました。



いわば城内の奥にあたる下屋敷や下台所と
表にあたる大手門側とを隔てていた門でしょうか。



門跡に見える近代的な建物は
北九州市役所ですが、
当時は厩があったといいます。

この先に大手門がありました。



本丸への表門にあたります。
本丸の東側の石垣が続き、
当時の様子がよく残っています。

本丸の南側の松の丸の南端の石垣です。



小倉城は本丸、松の丸と北の丸を除いて
当時の城郭は市街地化されてしまったいますが、
二重櫓が16基、平櫓が117もあった大きなお城だったようです。



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二の丸石垣跡、大門跡


小倉城の散策を終えて、
西小倉駅に向かったのですが、
市街地化されている二の丸の石垣を見つけました。



場所は、小倉城北の丸の西側、
西日本工業大学大学院の
地域連携センターです。




この建物の一階部分に
石垣がありました。



石垣は、南北方向に続いていました。
一部に屏風折れがある野面積の石垣です。

縄張り図で見ると、内堀の西側に
石垣が並行して築かれているので、
その石垣と思います。

立ち入っていいのかどうか、ちょっと
不安になりながら写真を撮っていました。


ここから西小倉駅に向かう
途中の大きな交差点です。



小倉の街を東西に貫く国道199号線です。
昔は、ここに西鉄北九州線の
路面電車が走っていました。




この交差点の角に大門跡の碑がありました。



当時、今の国道199号線は
長崎街道と呼ばれる街道だったようで、
この位置に不明門が建てられていました。

間口8間(15.2m)の立派な櫓門だったようです。



この門は両側が堀になっており、
その堀に築かれた石垣が
歩道に残されていました。



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