長塀 - 須戸口 - 不開門
熊本城には市電を市役所前で下車し、
城の南の端、堀の役割を果たしている
坪井川に出てみました。
熊本市電の乗車記はこちらです。
坪井川に沿って長い塀が続いています。
その名も長塀です。
日本で一番長い塀ということです。
この長塀に沿ってお城の東側に廻っていくと
須戸口門を過ぎます。
この先には稲荷神社、熊本大神社が
熊本城の石垣の袂に建っています。
その急勾配で高く積み上げられた
石垣の上に載った建物が見えてきました。
これは東十八間櫓という多聞櫓です。
これ程高い石垣を下から眺めた事も初めてだったし、
その上に天に突き出るように建っている
当時の城郭建築を見るのも初めてだったので
その姿に思わず感動を覚えてきました。
石垣を遠くに眺めながら神社を抜け、
お城の北側に回りこみました。
再び高石垣の上に平櫓が見えてきました。
よくぞこの高い石垣の上にあの建物を
建てたものだと思ってしまいます。
この石垣の下から坂道を上っていくと門があり、
そこがお城の入り口になっていました。
この門は不開門(あかずもん)です。
お城の鬼門の北東にあり、
普段は閉じられていました。
この不開門から熊本城に入ったのですが、
今思うと裏口入学の様で、ちょっと後悔しています。
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東竹の丸、竹の丸、飯田丸
不開門を抜け、城内に入りました。
先ほど下から見上げた多聞櫓が
ならび、左手には更に石垣が積まれ、
その間の狭い通路の様なところを通っていきます。
長く続く多聞櫓は当時から現存している
北十八間櫓、東十八間櫓そして、
しばらく間を置いて、源之進櫓と続いています。
白漆喰の壁が続き、当時の
雰囲気が伝わってくるようです。
上の写真は四間櫓と十四間櫓です。
この十四間櫓の辺りまで来ると、
東竹の丸の敷地も広くなります。
当時は東竹の丸の南東隅に
竹の丸五階櫓が建っていました。
この櫓跡から西へ真っ直ぐ行くと、
飯田丸へ抜ける事が出来ます。
東竹の丸から一段低いところに
竹の丸があります。
この竹の丸は、一旦須戸口門に
戻って紹介しようと思います。
平御櫓と石垣の間に挟まれた
須戸口門から城内に入り、
石垣に沿って虎口を抜けると、
目の前に東竹の丸の石垣と田子櫓が見えました。
入り口が狭く、しかも2度も
直角曲がる設計になっていて
須戸口門は小さな門ですが、敵を
寄せ付けない構造になっています。
この虎口を抜けると、竹の丸です。
竹の丸に入ると、北側(天守の方向)に高い石垣が続き、
その石垣の先端に立派な三重櫓が聳えていました。
2005年に復元された飯田丸五階櫓です。
熊本城に五基あった三重五階櫓の一つです。
まだ真新しい五階櫓は輝いているようです。
2007月の3月末に行った時は
丁度桜が咲いていて、逆光を浴びた桜が
幽玄な感じで見えました。
竹の丸から元札櫓御門とよばれる門の跡を通り、
石垣に挟まれ折れ曲がった石段を上ります。
東竹の丸へと上っていくと目の前に
壮大な熊本城大天守が現われました。
遠くから望む大天守ですが、
圧倒されるような感じがしました。
そして、勾配が異なる石垣が組み
合わさった「二様の石垣」がありました。
なだらかな勾配の石垣が加藤清正時代の石垣、
外側の上部に行くほどきつい勾配となる石垣が
加藤家取り潰しの後、熊本城主となった
細川家時代の石垣です。
写真左手に見える鉄骨は、復元工事中の
本丸御殿建設用の足場です。
2007年12月に、築城400年にあわせて
本丸御殿が当時の様子そのままに
復元されるそうです。
石垣の反り具合に魅力を感じ、撮った写真です。
石垣の上には小広間西三階櫓が建っていたそうです。
この石垣の上に櫓が建っていたら、急な石垣の
勾配が一層引き立つと思います。
この二様の石垣の左手には、竹の丸から
眺めた飯田丸五階櫓が見えています。
大きなケヤキの木との組み合わせはいい眺めです。
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数奇屋丸、本丸、平左衛門丸
東竹之丸、飯田丸を過ぎ、再び石垣の
間の石段を登っていくと数奇屋丸です。
こうして、高い石垣に囲まれたいくつもの曲輪を過ぎ、
何度も曲輪と曲輪の間の門や虎口を抜けて
天守に近づいていくと熊本城はいかにも
難攻不落と言った感じがしてきます。
実際、築城から270年ほどたった
明治10年(1877年)の西南の役では明治政府軍が
薩摩軍を相手に50日以上も籠城したそうです。
明治政府軍は堅牢な熊本城に助けられ
援軍が来るまで、耐え切れたのですが、
その一方で、天守閣や多くの建物は
この時に焼失してしまいました。
数奇屋丸からは熊本城の大天守と
小天守が目の前に迫っています。
右側が一の天守閣、左が二の天守閣と
二つの天守閣が並んでいます。
晴れ渡った青空に聳える天守閣は
まさに威風堂々とした感じで、
その姿に圧倒されてしまいました。
昭和35年に外観復元されているのですが、
黒々とした壁を見ていると
当時の建物と見まがう程です。
熊本城にはこの二つの天守閣の前に、
もう一つの天守閣が聳えています。
これがその宇土櫓です。
大きな一の天守閣と比較すると小ぶりなのですが、
この宇土櫓は建設当時のままの建物が残っているそうです。
これは宇土櫓から眺めた天守閣です。
人気の無い宇土櫓の内部は薄暗く、
まるで昔の武士の息遣いが
聞こえてきそうな感じでした。
宇土櫓の次には、いよいよ本丸から天守に登ってみました。
石段を上り、まずは天守の東側の本丸を目指します。
本丸に入ってすぐのところから撮った写真です。
丁度、桜が満開でした。
多くの観光客が記念撮影をしている本丸は
思ったよりも狭く、当時は本丸御殿も建ち、
あまり充分なスペースはなかったと思います。
いまでは石段を上って簡単に天守に行けるのですが、
当時は、本丸御殿の下の地下通路を通り、
本丸御殿から天守に登るような構造になっていたようです。
大天守閣からの熊本の街の眺めです。
幾重にも重なった郭の向こうに街が広がり、
遠くその先には阿蘇の山々が見えます。
当時この天守閣からこの眺めを独占していた
加藤清正や細川氏の大名の権勢が偲ばれます。
阿蘇の様子はこちらです。
天守を後にして、西出丸に向かいました。
西出丸へ向かう途中の頬当御門から眺めた天守です。
当時は門の両側に衛兵が立ち、その様子が
甲冑の頬当に似ているのでこの名が付いたそうです。
逆光を浴びて浮き上がるような天守は
荘厳な感じもしました。
頬当御門を出てると、一般道となっていて
車が通り、一気に現代に引き戻されます。
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西出丸 (二の丸)
頬当御門を抜けると一旦城外に出たように
なった感じですが、この辺りが西出丸です。
ここからの天守や宇土櫓の眺めは素晴らしかったです。
熊本城は西側を大手としていて、
この西出丸は本丸を守る重要な
役割を果たしていたものと思います。
西出丸に入ってすぐ左手の南大手門です。
2002年(平成14年)に復元されています。
南大手門の先には西大手門が控えていました。
西大手門は熊本城にある南・北・西の大手門の中で
最も格式の高い門とされています。
1632年(寛永9年)に加藤家は取り潰され、
代わって熊本城主となった細川忠利は、
初めてこの熊本城に入る際に、この西大手門の前で
ひざまずき、敬意を表したと伝えられています。
西大手門を抜けたところで撮った写真です。
細川忠利は西大手門のこの姿を見て
ひざまずいたのでしょう。
桜の花が咲き、西大手門を彩っていました。
西大手門を出て南側の眺めです。
石垣に沿って、桜並木の小道が続いていました。
石垣の奥に見えるのは未申櫓です。
そしてこちらは西大手門を出て北側の眺めです。
一直線に続く石垣とその先にある戌亥櫓。
不開門から本丸に至る複雑な縄張りに比べると
区画も大きく、縄張りが単純化されています。
これは、細川氏の時代に整備された
新しい曲輪だからなのでしょうか。
いくつかの見所を見逃しましたが、
これで一通り熊本城を見終えました。
しかし、熊本城の公式ホームページによると
熊本城では現在復元工事中の本丸御殿だけでなく、
加藤清正の築城当時の姿に戻すべく、
今後更に6つもの櫓や櫓門の復元を目指しているようです。
熊本城の公式HPはこちらです。
当時の姿に戻った熊本城を
是非また訪れてみたいものです。
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