吉野ヶ里遺跡
Yoshinogari Histrical Park, Japan

登城日:
2007.04.01, 2015.11.29

【吉野ヶ里遺跡 概要】

吉野ヶ里遺跡は佐賀市の10km程東北にある弥生時代の遺跡です。
脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置しています。

弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀に亘る
600年の期間で、この時期にそれまでの狩猟生活から
稲作文化が芽生え、人々が定住するようになったそうです。

その時代に、吉野ヶ里の地に環濠集落が築かれ、
魏志倭人伝に記された「クニ」の集落形態に
発達していました。

かつてこの地に工業団地を造る計画があったそうですが、
造成に先立ち、1983年(昭和57年)から行われた発掘調査に
おいて弥生時代の遺跡が見つかり、その広さは
59haにも及ぶことが判明したそうです。

一時期は、魏志倭人伝に書かれている倭国の所在地とも
言われましたが、今は、各地にあった「クニ」の
一つという説が主流との事です。

吉野ヶ里遺跡は1986年(昭和61年)から本格的な発掘調査が
行われ、1991年(平成3年)に国の特別史跡に指定されました。
1992年(平成4年)に国営歴史公園の整備が決まっています。

2001年(平成13年)から歴史公園として一般開放されています。


吉野ヶ里歴史公園の総面積は117haが計画され、
2017年現在では104haが整備されいるそうです。

いつかこの吉野ヶ里遺跡に行きたいと思っていましたが、
日本100名城の一つになったこともあり、
2007年4月と2015年11月に訪れました。

公園内は濠によって幾つかの区域に分けられています。
広い公園のすべてを訪れる事は出来ませんでしたが、
いくつかの見どころを紹介しようと思います。

【吉野ヶ里遺跡へのアクセス】

JR長崎本線の吉野ヶ里公園駅から菜の花畑の中を
15分程歩くと吉野ヶ里公園東口に至ります。

吉野ヶ里公園駅の一駅佐賀寄りの神埼駅からも
徒歩10分程で吉野ヶ里公園の西口に着きます。

神埼駅北口の吉野ヶ里遊学館では
レンタサイクルもあります。

【吉野ヶ里遺跡登城記】

弥生の大野
Nov. 18, '20
倉と市
Nov. 18, '20
南内郭
Nov. 21, '20
中のムラ
Nov. 21, '20
北内郭
Revised ! Nov. 23, '20
北墳丘墓
Revised ! Nov. 23, '20

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弥生の大野

神埼駅北口の吉野ヶ里遊学館でレンタサイクルし、
吉野ヶ里歴史公園の西口から吉野ヶ里遺跡に入りました。

公園内に入ると、広々とした原野が広がっていました。


撮影: 2015年11月

弥生時代の日本の人口は推定で60万人。
今の 1/200 の人口だったので、こうした
広大な原野が広がっていた事でしょう。

吉野ヶ里遺跡の西側は湿地帯だったのか
池もいくつかありました。

池を通りすぎると田圃が現れました。
その向こうの丘陵地には復元建造物が見えています。


撮影: 2015年11月

弥生時代中期には東北地方まで稲作が広がって
いたようですし、静岡県の登呂遺跡では、
畔で区画された田圃が発掘されていたようで、
吉野ヶ里でも低地ではこのような田圃が広がり
環濠集落の人口を支えていた事と思います。

田圃を過ぎると、立派な柵が現れました。


撮影: 2015年11月

この柵は吉野ヶ里遺跡の南端に位置する
南のムラの周囲に巡らされているものです。

この辺りまで来ると、遠くに見えていた
復元建造物が良く見えるようになりました。


撮影: 2015年11月

幾つかの物見櫓の姿が印象的です。
南のムラの西側を北に向かって進みます。
幾つかの復元建造物が見えていました。


撮影: 2015年11月

南のムラには濠は無く、建物も竪穴住居3〜4棟に
高床倉庫1棟という配置で、他の弥生時代の集落と
変わらず、ここには一般的な人が住んでいたと
考えられるそうです。

上左に見えているのは、南内郭の復元建造物です。
この先に、倉と市の郭がありました。

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倉と市

柵の向こうに城門が見えてきました。


撮影: 2015年11月

この門は、倉と市の郭の南東にある門です。
この東側にある南内郭への出入りを警戒
する為に設けられていると思います。

倉と市の郭では、吉野ヶ里の「クニ」の
税や重要物質などを収める倉が建てられ、
交易の為の市が開かれていたようです。


撮影: 2015年11月

上左の建物は市場の責任者・市長の住居だそうです。
そして下の写真は、武器の倉です。


撮影: 2015年11月

内部にも入ることが出来、この倉には楯や鉾、
槍などの複製品が展示されていました。


撮影: 2015年11月

倉と市の郭の北の端には物見櫓が建っています。
物見櫓から眺める南内郭の様子です。


撮影: 2015年11月

南内郭は吉野ヶ里や周囲のクニの王や
リーダーの居住地と考えられているようです。
その為、柵だけでなく濠で厳重に囲われていました。

そして下の写真は倉と市の郭の様子です。


撮影: 2015年11月

この後、南内郭に向かいました。

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南内郭

倉と市の郭から南内郭へと向かいます。
南内郭の周囲は濠と柵で囲われています。
そして、入り口には門が待ち構えていました。


撮影: 2015年11月

濠を掘った際の土を濠の外側に盛り、土塁を築き
土塁の上に柵を張り巡らせて守りを固めています。


撮影: 2015年11月

かなり厳重な囲いですが、この厳重さから南内郭には
当時の支配層が住んでいたと考えられているそうです。

興味深いのは、濠の外側に柵が築かれている事で
これは後世の城とは配置が逆になっています。

吉野ヶ里東入り口から遺跡公園に足を踏み入れた際にも
濠と柵が目に付いたのですが、こちらでは更に逆茂木と
呼ばれる防御用の斜めに傾いた木の杭の列がありました。


撮影: 2007年4月

稲作文化が大陸や東南アジアから伝えられて以来、
水や土地を巡る争いが集落間で生じた為に
こうした防御が必要になったのだそうです。

実は、吉野ヶ里遺跡が日本100名城に選ばれた時に
弥生時代の遺跡がお城?と違和感があったのですが、
現地に来てみると、当時の「クニ」は、既に
中世ヨーロッパの城郭都市に近い
形態だった事が実感出来ました。

逆茂木のいわば大手門を抜け、坂道を上っていくと
視界が開け、広々とした遺跡が広がっていました。


撮影: 2007年4月

展望台から眺めた南内郭の様子です。
集落の周囲を掘と柵で囲まれ、入り口にあたる所は
物見やぐらで固められています。

南内郭にはいくつかの復元建物がありました。


撮影: 2007年4月

これらの建物は一旦学術的な調査がなされた後、
3m程の盛り土をし、その上に建てられているそうです。

この為、遺跡を破壊することなく
当時の様子を再現しているとのことです。

建物の内部の様子です。


撮影: 2007年4月

建物には二本の柱が立ち、その上に梁が置かれ
梁に向かって屋根となる縄で巻かれた木が
斜めに結ばれています。

物見やぐらから眺めた南内郭の住居群です。
数多くの建物が建ち並び、壮観な眺めです。
当時、吉野ヶ里の人口は1,200人もあったようです。


撮影: 2015年11月

弥生時代の建物がどのような様子であったのか、
直接的な資料は残っていないので、建物は考古学や、
古代建築学、民俗学的な観点から推測されているようです。


撮影: 2015年11月

そして、城柵を越えた西側に広がる
倉と市の建物群です。


撮影: 2007年4月

北側には吉野ヶ里で最も神聖な場所と
考えられている北内郭が見えています。


撮影: 2015年11月

一番大きな建物は王の宮殿と呼ばれ、
政(まつりごと)が行われていた建物です。

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中のムラ

遺跡公園内の広い道を、北内郭に向かいました。


撮影: 2015年11月

南内郭と北内郭の間の丘陵地の下には
県道がトンネルで抜けています。
史跡保存の為に地下化されたのでしょうか。

北内郭の手前に、中のムラがあります。
ここは北内郭での祭りや儀式、政の際に用いられる
種々のものを作る場所だったそうです。


撮影: 2007年4月

これは中のムラの様子です。
ここは祭礼に使われる道具が
作られていたところの様です。

下の写真は酒造りの家です。


撮影: 2015年11月

ここでは、その年に収穫された米を蒸し、
儀式で用いる酒を醸造したいたそうです。

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北内郭

中のムラから北内郭に辿り着くと、
厳重な門が待ち構えていました。


撮影: 2015年11月

北内郭は、吉野ヶ里で最も重要な区画で、
田植えや稲刈りの時期、戦いや刈の祈りなど、
政は全てここで行われたと考えられています。

北内郭の周囲には、柵で囲われた
二重の濠が巡らされていました。
濠も南内郭よりも深く堀られていて、
再現された堀の深さでも1.5m程はありそうです。


撮影: 2015年11月

堀を抜けると城柵が並び、厳重な警備が
敷かれていた様子を彷彿とさせてくれます。


撮影: 2015年11月

鉤型に曲がった北内郭の入り口は、
戦国時代のお城の虎口のようでした。

そして政の中心だった主祭殿です。


撮影: 2015年11月

主祭殿は高床式の三階建ての建物です。
この郭は弥生時代後期のものだそうですが、
1700年も前に、このような大きな建築物を
作る技術があったというのも驚きです。

主祭殿の内部に入ると、当時の政や
祈りをしていた時の様子が再現されていました。


撮影: 2015年11月

上左の写真は、主祭殿2階にあった吉野ヶ里の
リーダーらが話し合いをしている様子です。

上右の写真は、主祭殿3階にあり、
巫女が占いをしている様子です。
当時は、重要な事はこのような占いに
よって決められていた事と思います。

北内郭には主祭殿の他に、斎堂や従者の
住まい用の竪穴式住宅もあります。


撮影: 2015年11月

北内郭の北側の物見櫓近くの出口の様子です。


撮影: 2015年11月

この右手、二重の濠の間には東祭殿がありました。
東祭殿は夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上に
位置しており、季節ごとの祀りが行われていたようです。


撮影: 2015年11月

ここから二重の濠を抜けた所にも
数軒の建物が建っていました。


撮影: 2015年11月

この北側に北墳丘墓がありました。

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北墳丘墓

北内郭の更に奥には芝生が広がっています。


撮影: 2007年4月

良く見ると、所々盛り上がった箇所があります。
ここは一般の人達のお墓だった場所と
考えられているようです。

こんもりと盛り上がった土の下には
甕棺のお墓がありました。


撮影: 2007年4月

亡くなった人は、甕棺の中に手足を
折り曲げる形で埋葬されたそうです。
吉野ヶ里では、この甕棺は15,000も
埋蔵されていると推定されているそうです。

この先に、北墳丘墓があります。
ここには歴代の吉野ヶ里の王が葬られていました。


撮影: 2015年11月

墳丘墓には掘り下げられた墓道が続いていました。
墳丘墓の内部は発掘調査された状態で公開されています。


撮影: 2015年11月

墳丘墓は何層もの土が積み重ねられているそうです。
埋葬の方法は、ここも甕棺に収められていたようです。
ガラス製の管玉や剣などが出土しているそうです。

この北墳丘墓では、紀元前1世紀以降は
お墓としては使われていなかった様です。

王達のお墓が並ぶこの北墳丘墓は、
古の風を感じるような場所でした。

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