弥生の大野
神埼駅北口の吉野ヶ里遊学館でレンタサイクルし、
吉野ヶ里歴史公園の西口から吉野ヶ里遺跡に入りました。
公園内に入ると、広々とした原野が広がっていました。
撮影: 2015年11月
弥生時代の日本の人口は推定で60万人。
今の 1/200 の人口だったので、こうした
広大な原野が広がっていた事でしょう。
吉野ヶ里遺跡の西側は湿地帯だったのか
池もいくつかありました。
池を通りすぎると田圃が現れました。
その向こうの丘陵地には復元建造物が見えています。
撮影: 2015年11月
弥生時代中期には東北地方まで稲作が広がって
いたようですし、静岡県の登呂遺跡では、
畔で区画された田圃が発掘されていたようで、
吉野ヶ里でも低地ではこのような田圃が広がり
環濠集落の人口を支えていた事と思います。
田圃を過ぎると、立派な柵が現れました。
撮影: 2015年11月
この柵は吉野ヶ里遺跡の南端に位置する
南のムラの周囲に巡らされているものです。
この辺りまで来ると、遠くに見えていた
復元建造物が良く見えるようになりました。
撮影: 2015年11月
幾つかの物見櫓の姿が印象的です。
南のムラの西側を北に向かって進みます。
幾つかの復元建造物が見えていました。
撮影: 2015年11月
南のムラには濠は無く、建物も竪穴住居3〜4棟に
高床倉庫1棟という配置で、他の弥生時代の集落と
変わらず、ここには一般的な人が住んでいたと
考えられるそうです。
上左に見えているのは、南内郭の復元建造物です。
この先に、倉と市の郭がありました。
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倉と市
柵の向こうに城門が見えてきました。
撮影: 2015年11月
この門は、倉と市の郭の南東にある門です。
この東側にある南内郭への出入りを警戒
する為に設けられていると思います。
倉と市の郭では、吉野ヶ里の「クニ」の
税や重要物質などを収める倉が建てられ、
交易の為の市が開かれていたようです。
撮影: 2015年11月
上左の建物は市場の責任者・市長の住居だそうです。
そして下の写真は、武器の倉です。
撮影: 2015年11月
内部にも入ることが出来、この倉には楯や鉾、
槍などの複製品が展示されていました。
撮影: 2015年11月
倉と市の郭の北の端には物見櫓が建っています。
物見櫓から眺める南内郭の様子です。
撮影: 2015年11月
南内郭は吉野ヶ里や周囲のクニの王や
リーダーの居住地と考えられているようです。
その為、柵だけでなく濠で厳重に囲われていました。
そして下の写真は倉と市の郭の様子です。
撮影: 2015年11月
この後、南内郭に向かいました。
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南内郭
倉と市の郭から南内郭へと向かいます。
南内郭の周囲は濠と柵で囲われています。
そして、入り口には門が待ち構えていました。
撮影: 2015年11月
濠を掘った際の土を濠の外側に盛り、土塁を築き
土塁の上に柵を張り巡らせて守りを固めています。
撮影: 2015年11月
かなり厳重な囲いですが、この厳重さから南内郭には
当時の支配層が住んでいたと考えられているそうです。
興味深いのは、濠の外側に柵が築かれている事で
これは後世の城とは配置が逆になっています。
吉野ヶ里東入り口から遺跡公園に足を踏み入れた際にも
濠と柵が目に付いたのですが、こちらでは更に逆茂木と
呼ばれる防御用の斜めに傾いた木の杭の列がありました。
撮影: 2007年4月
稲作文化が大陸や東南アジアから伝えられて以来、
水や土地を巡る争いが集落間で生じた為に
こうした防御が必要になったのだそうです。
実は、吉野ヶ里遺跡が日本100名城に選ばれた時に
弥生時代の遺跡がお城?と違和感があったのですが、
現地に来てみると、当時の「クニ」は、既に
中世ヨーロッパの城郭都市に近い
形態だった事が実感出来ました。
逆茂木のいわば大手門を抜け、坂道を上っていくと
視界が開け、広々とした遺跡が広がっていました。
撮影: 2007年4月
展望台から眺めた南内郭の様子です。
集落の周囲を掘と柵で囲まれ、入り口にあたる所は
物見やぐらで固められています。
南内郭にはいくつかの復元建物がありました。
撮影: 2007年4月
これらの建物は一旦学術的な調査がなされた後、
3m程の盛り土をし、その上に建てられているそうです。
この為、遺跡を破壊することなく
当時の様子を再現しているとのことです。
建物の内部の様子です。
撮影: 2007年4月
建物には二本の柱が立ち、その上に梁が置かれ
梁に向かって屋根となる縄で巻かれた木が
斜めに結ばれています。
物見やぐらから眺めた南内郭の住居群です。
数多くの建物が建ち並び、壮観な眺めです。
当時、吉野ヶ里の人口は1,200人もあったようです。
撮影: 2015年11月
弥生時代の建物がどのような様子であったのか、
直接的な資料は残っていないので、建物は考古学や、
古代建築学、民俗学的な観点から推測されているようです。
撮影: 2015年11月
そして、城柵を越えた西側に広がる
倉と市の建物群です。
撮影: 2007年4月
北側には吉野ヶ里で最も神聖な場所と
考えられている北内郭が見えています。
撮影: 2015年11月
一番大きな建物は王の宮殿と呼ばれ、
政(まつりごと)が行われていた建物です。
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中のムラ
遺跡公園内の広い道を、北内郭に向かいました。
撮影: 2015年11月
南内郭と北内郭の間の丘陵地の下には
県道がトンネルで抜けています。
史跡保存の為に地下化されたのでしょうか。
北内郭の手前に、中のムラがあります。
ここは北内郭での祭りや儀式、政の際に用いられる
種々のものを作る場所だったそうです。
撮影: 2007年4月
これは中のムラの様子です。
ここは祭礼に使われる道具が
作られていたところの様です。
下の写真は酒造りの家です。
撮影: 2015年11月
ここでは、その年に収穫された米を蒸し、
儀式で用いる酒を醸造したいたそうです。
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北内郭
中のムラから北内郭に辿り着くと、
厳重な門が待ち構えていました。
撮影: 2015年11月
北内郭は、吉野ヶ里で最も重要な区画で、
田植えや稲刈りの時期、戦いや刈の祈りなど、
政は全てここで行われたと考えられています。
北内郭の周囲には、柵で囲われた
二重の濠が巡らされていました。
濠も南内郭よりも深く堀られていて、
再現された堀の深さでも1.5m程はありそうです。
撮影: 2015年11月
堀を抜けると城柵が並び、厳重な警備が
敷かれていた様子を彷彿とさせてくれます。
撮影: 2015年11月
鉤型に曲がった北内郭の入り口は、
戦国時代のお城の虎口のようでした。
そして政の中心だった主祭殿です。
撮影: 2015年11月
主祭殿は高床式の三階建ての建物です。
この郭は弥生時代後期のものだそうですが、
1700年も前に、このような大きな建築物を
作る技術があったというのも驚きです。
主祭殿の内部に入ると、当時の政や
祈りをしていた時の様子が再現されていました。
撮影: 2015年11月
上左の写真は、主祭殿2階にあった吉野ヶ里の
リーダーらが話し合いをしている様子です。
上右の写真は、主祭殿3階にあり、
巫女が占いをしている様子です。
当時は、重要な事はこのような占いに
よって決められていた事と思います。
北内郭には主祭殿の他に、斎堂や従者の
住まい用の竪穴式住宅もあります。
撮影: 2015年11月
北内郭の北側の物見櫓近くの出口の様子です。
撮影: 2015年11月
この右手、二重の濠の間には東祭殿がありました。
東祭殿は夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上に
位置しており、季節ごとの祀りが行われていたようです。
撮影: 2015年11月
ここから二重の濠を抜けた所にも
数軒の建物が建っていました。
撮影: 2015年11月
この北側に北墳丘墓がありました。
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北墳丘墓
北内郭の更に奥には芝生が広がっています。
撮影: 2007年4月
良く見ると、所々盛り上がった箇所があります。
ここは一般の人達のお墓だった場所と
考えられているようです。
こんもりと盛り上がった土の下には
甕棺のお墓がありました。
撮影: 2007年4月
亡くなった人は、甕棺の中に手足を
折り曲げる形で埋葬されたそうです。
吉野ヶ里では、この甕棺は15,000も
埋蔵されていると推定されているそうです。
この先に、北墳丘墓があります。
ここには歴代の吉野ヶ里の王が葬られていました。
撮影: 2015年11月
墳丘墓には掘り下げられた墓道が続いていました。
墳丘墓の内部は発掘調査された状態で公開されています。
撮影: 2015年11月
墳丘墓は何層もの土が積み重ねられているそうです。
埋葬の方法は、ここも甕棺に収められていたようです。
ガラス製の管玉や剣などが出土しているそうです。
この北墳丘墓では、紀元前1世紀以降は
お墓としては使われていなかった様です。
王達のお墓が並ぶこの北墳丘墓は、
古の風を感じるような場所でした。
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