弘前城
Hirosaki Castle, Japan


登城日:
2009. 10.11 & 2010. 12. 24







【弘前城 概要】


弘前城は、津軽氏初代の為信公が1603年(慶長8年)に
着工を開始した鷹丘城を、2代目の津軽信枚公が
1611年(慶長16年)に完成させたお城です。

以降、弘前藩4万7千石を有する津軽氏の
居城として、明治まで続いています。



津軽為信公の像です。


弘前城は4万7千石という弘前藩の石高に
比べると立派な城郭で、創建当時は東西612m、
南北947mもの規模を誇っていたそうです。



弘前城は、悌郭式の平山城です。

本丸、二の丸、三の丸、四の丸に
西の郭、北の郭を合わせた6つの郭があり、
その周囲に3重の堀が巡らされています。





弘前城には1810年(文化7年)に建てられた
天守代用の御三階櫓をはじめ、二の丸の
未申櫓、辰巳櫓そして丑寅櫓と城門合わせて
全部で9棟の建物が残っています。

また丁度GWに満開となる桜は特に有名で
桜祭りの期間中には200万人を
超える人出があるそうです。



【弘前城へのアクセス】


JR東日本 弘前駅から土手町循環バスに乗り
弘前市役所前下車。

弘前市役所前から徒歩約3分で
三の丸追手門に着きます。
徒歩約5分です。

弘前を発着していた特急「日本海」の
乗車記は こちら です:

弘南鉄道弘南線の乗車記は こちら です。



また弘南鉄道大鰐線の中央弘前駅からは
約1.1km、徒歩約15分です。

弘南鉄道大鰐線の乗車記は こちら です





【弘前城登城記】


三の丸
Dec. 18, '13

二の丸
Dec. 21, '13

西の郭
Dec. 27, '13

本丸
Dec. 29, '13

北の郭
Dec. 31, '13

四の丸
Jan. 04, '14




"弘前城"のTopに戻る

"弘前"のTopに戻る

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る







三の丸



追手門から杉の大橋


JR弘前駅からのバスを弘前市役所前で下車し、
北に向かうとすぐにお堀と古い城門が見えてきます。



弘前城は3重の堀に囲まれていますが
この堀は、一番外側の堀です。

見えている城門は弘前城の追手門(大手門)です。
この追手門は、1611年(慶長16年)に建てられたもので
重厚な二層の櫓門が枡形の中に建てられています。



土塁で枡形が築かれ、その土塁の上には黒板塀が
巡らされていますが、高麗門が設けられていない等
古い形式の門との事です。

追手門を抜けると、三の丸の広い敷地が広がっています。



当時は侍屋敷で埋め尽くされていたであろう三の丸は
木々が生い茂り、広い公園になっていました。

振り返って眺める追手門です。



三の丸を北に向かうと、二の丸との間の堀に突き当たります。

三の丸は二の丸を逆L字状に取り囲んでいます。
堀の向こうには二の丸の辰巳櫓が見えていました。



この辰巳櫓は二の丸の東南角に位置しています。
堀に沿って西へ向かうと赤い橋が見えてきました。
二の丸の正門にあたる南内門に繋がる杉の大橋です。
緑の中、赤い欄干がとても印象的でした。



この橋は元々は杉材を用いて架けられていた為、
この名称がついていますが、1821年(文政4年)に
架け替えられた際に、檜材が用いられ、
欄干や擬宝珠が付けられたそうです。

この橋を渡ると二の丸に行けますが、
更に堀に沿って西に向かいました。



堀越しに眺める二の丸未申櫓です。
二の丸の南西の角に位置しています。

この辺りには土塁も残っていました。



この辺りは弘前城三の丸の西端に位置しています。
ここは、周囲の土地よりも一段高くなっており、
弘前工業高校の校舎を見下すことが出来ました。



当時はここも侍屋敷だったようです。
この後、杉の木橋を渡り、二の丸へと向かいました。



東内門から賀田御門跡


二の丸と西の郭を散策した後、
東内門から再び、三の丸へ戻りました。

弘前城に着いた時には雨が降っていましたが
二の丸を散策するうちに雨も上がり、
陽も差してきました。

木々の生い茂る中に建つ東内門です。



東内門を出ると、二の丸と
三の丸との間の堀を渡ります。
江戸末期まで、ここは土橋でしたが、
1848年(弘化5年)に石造りの橋に
架け替えられています。

二の丸と三の丸との間の堀の様子です。



堀は広く、堀の周囲に植えられている木々は
鬱蒼としており、弘前城の大きさを実感しました。

東内門から三の丸の中を東に向かいます。
南側は弘前城植物園が広がっていました。



面積は76,500平方メートルあるそうですが、
弘前城三の丸のほぼ半分を占めています。

植物園は当時の様子が残っていないだろうし、
有料なので、中には入らず真っ直ぐ東門へと向かいました。



東門は1610年(慶長15年)に建てられています。
この東門も堂々とした櫓門で、枡形となっています。

弘前城には追手門・南内門・東内門・北門とこの東門が
現存しており、そのすべてが重要文化財に指定されています。
しかし、東門を除く4門は1937年(昭和12年)に指定されていますが
この東門は1953年(昭和28年)に指定されています。

東門の南側に延びる外堀の様子です。



こちらは北側に延びる堀の様子です。



この東門から、城内を北に向かいました。



この辺りは現地の案内板では
ピクニック広場と記されていますが、
大きな木が生い茂る様子は森の中の様です。

ここは中央高校口です。
南北に走る堀に沿った
土塁が断ち切られています。



当時、ここには出入り口は無かったようです。
中央高校口から三の丸を西に向かいました。



木々の間から二の丸の東北角に建つ
丑寅櫓が見えてきました。

二の丸と三の丸の間の堀にも
多くの木々が生い茂っていました。



この辺りは三の丸の北の端に近く
こから右に折れると、賀田御門跡に出ます。



賀田御門は三の丸の北門にあたります。
築城当初は、弘前城の北側が大手口だったようで
この賀田御門には賀田城の大手門を移築したと伝わります。

その門は今は無くなってしまいましたが
土塁で囲われた立派な枡形が、当時の
堅牢な賀田御門の様子を伝えています。



"弘前城"のTopに戻る





二の丸



杉の大橋から下乗橋


杉の大橋を渡り二の丸へと歩みを進めます。



橋を渡った先には二の丸の
正門にあたる南内門がありました。



この南内門も1610年(慶長15年)に建てられ、
築城当初からの現存です。
追手門と同じ造りの門で、堂々とした櫓門です。

南内門も枡形になっており、
門をくぐったところの様子です。



写真右手に門脇の土塁が見えています。

二の丸も、松の木が生い茂っていました。



二の丸は、本丸を東と南から囲う、逆L字型の曲輪です。
当時はこの二の丸にも侍屋敷が建ち並んでいたようです。

門を抜け、西に向かうと先ほど堀越に
眺めた現存の未申櫓がありました。



二の丸西南角に建つこの櫓も現存です。
弘前城には天守以外に3つの櫓が
残っていますがそのどれもが3重櫓です。

ここからは岩木山が良く見えていました。



未申櫓から東に戻り、南内門を過ぎると
今度は二の丸東南端に建つ辰巳櫓があります。



二の丸はここから北に、
本丸の東側に伸びています。
この辺りは広い通路が整備されています。

北に向かって少し歩くと、左手に
赤い欄干の橋がありました。



この橋が本丸と二の丸との間に架かる下乗橋です。
当時は、二の丸側に下馬札が掲げられ、
藩士は馬を下りなければならなかったそうです。

この下乗橋からは、弘前城の現存天守が
手に取るように眺める事が出来ました。



丁度、青空も広がり弘前城天守
(御三階櫓)が綺麗に見えました。



下乗橋から丑寅櫓


下乗橋から本丸へは行かず、
再び二の丸に戻りました。

本丸の東側に沿って北に向かいます。
東側から眺める天守の様子です。



一層目と二層目の屋根には唐破風が配され
さすがに優雅で貫録があります。

天守の下には、本丸の石垣が続いています。



草生していますが、不揃いの石を
組み合わせた野面積になっています。

下乗橋から二の丸を北に
向かうと東側に櫓門があります。



三の丸との出入り口に建つ東内門です。
この門も追手門や南内門と同じ構造です。
そして1610年(慶長15年)に築かれた現存の門です。

この北側には二の丸東門与力番所がありました。
与力番所は、城内の主要な箇所の見張りとして
城兵を常駐させていた番所との事です。



当時は弘前城内に12の与力番所があったようです。
この二の丸東門与力番所は江戸時代中期に
建てられたものだそうです。
明治以降に城内の別の場所に移動されていましたが、
1982年(昭和57年)に元の位置に戻されたそうです。


二の丸東門与力番所を眺めた後、東内門から
三の丸へと向かい、三の丸の北の端にある
賀田御門跡から再び二の丸に戻りました。

三の丸の北側からから二の丸への
アプローチは土橋を渡っていきます。
当時は土橋の袂にも門があったのでしょうか。



上の写真は、土橋から眺める丑寅櫓です。
丑寅櫓は二の丸の北東の端に位置しています。



この丑寅櫓も1610年(慶長15年)に築かれています。
二の丸の様子です。



整備された通路の間には花壇も築かれていました。
そして二の丸から眺める内堀の様子です。



堀の右手に見える郭は北の郭と思います。



"弘前城"のTopに戻る





西の郭



二の丸の南側、南内門の先の堀に沿って
西に向かうと折れ曲がった坂道が続いています。



この坂を下ったところが西の郭です。

坂道を下ると、本丸の西側の
はす池が見えてきました。



広い堀一面に覆った蓮が圧巻です。

弘前城は、本丸の南東側と北側は二重の曲輪で
囲われていますが、西側は西の郭しか配置されておらず
はす池と西濠で守りを固めています。

はす池の先に西の郭が広がっていました。
西の郭の南端の土塁です。



そして西の郭の様子です。



当時、西の郭には馬場や矢場、そして
珍しい植物を植えた御花畑があったそうです。


西の郭の南側に埋門がありました。



この門は、通常は閉じられていたようで
非常用の門だったようです。

埋門を抜けると、西の郭南側の堀が続いていました。



堀の南側は弘前工業高校になっています。
ここから更に西に向かいました。
北側に三角形状の池が広がります。



この右側の土塁の上には当時、三重の
西の郭未申櫓が上がっていたようです。

残念な事に1906年(明治39年)に
煙草の火の不始末で焼失してしまったそうです。


この池は築堤を挟んで西の濠と接しています。
そしてこの築堤には桜が植えられていました。



築堤の両側に植えられた桜は大きく育ち
築堤の上にトンネルの様に枝を伸ばしています。



GWの頃、桜が満開になった時には
この築堤の眺めはきっと素晴らしいものでしょう。

築堤の西に広がる西濠です。



弘前城で最も幅の広い西濠は、
低湿地となっている弘前城の
西側を護っていたのでしょう。



"弘前城"のTopに戻る





本丸



西の郭から二の丸へと戻り、
下乗橋から本丸を目指しました。



下乗橋から眺める現存天守(御三階櫓)です。
やはり弘前城というとこの下乗橋から
眺める天守が一番と思います。

下乗橋を渡ると角馬出になっています。



ここに武者屯(たまり)御門がありました。
戦の場合には、この馬出で部隊を揃えたようです。

いよいよ現存天守に向かいました。



天守の姿に目が惹きつけられていたようで
馬出の写真は他にはありませんでした。

枡形の本丸中門跡を抜け本丸に入ります。



ここにも櫓門が載っていたようです。

そして、本丸内側から眺める天守です。
二の丸から眺める豪華な天守とは異なり
本丸からの天守は質素な造りです。



連子窓が連なり、雰囲気も異なります。
この現存天守は本丸の東南角にあった本丸辰巳櫓を
解体し、1810年(文化7年)に築かれています。

弘前城には元々本丸西南角に天守が建てられて
いましたが、1627年(寛永4年)に焼失しています。

この為、弘前藩は幕府に天守再建の願いを出して
いたそうですが、なかなか許可されませんでした。

天守の本丸側が質素なのは、幕府の役人を
欺き、許可を得やすくするためという説も
あるそうですが、本当の所はどうなのでしょうか。


さっそく天守に入ってみました。



展示されていた津軽氏の馬印です。
津軽氏初代の為信公の夢に出てきた卍と
錫杖が津軽氏の旗印と馬印になったそうです。

狭い階段を上り、上の階を目指します。



城内には弘前城本丸の模型が展示されていました。



下乗橋が架かる内堀に面して天守が聳えています。
本丸の内部には所狭しと御殿が
建てられているのが判ります。

弘前城天守から眺める岩木山です。



この日は山頂に雲が掛かっていましたが、
端正な岩木山の姿を眺める事が出来ました。


天守に登った後に、本丸内を一巡しました。
本丸東側の内堀に沿って北に向かうと
本丸井戸跡がありました。



本丸内には他にも数か所井戸があったようですが
存在が確認されているのはここだけだそうです。
当時は番所や塀で守られていたそうです。

本丸内部の様子です。



当時ここに御殿が建っていたのですが
その面影はありません。
本丸内には御殿の礎石も残って
いるようですが見落としてしまいました。

本丸の北側には不通門跡があります。



本丸の搦手口にあたり、本丸よりも一段
低いところに門が築かれていたようです。
この左手に北の郭へと通じる鷹丘橋が架かっています。

不通門跡を過ぎると御宝蔵跡に出ました。



ここには青山と呼ばれる琵琶や小野小町が
持っていたと伝わる琴が収められていたそうです。

御宝蔵跡の近くには本丸北西角に築かれていた
本丸戌亥櫓跡の石垣がありました。



この櫓は柿(こけら)葺き・土蔵造りだったようです。

本丸戌亥櫓跡から南を眺めた様子です。



本丸西側は低地となっており、
ここからは眺望が効いています。



先ほど、天守から眺めた岩木山ですが
こちらからも、その全貌を眺められました。

この南側にあった本丸未申櫓跡です。



本丸の南西角に位置しています。
弘前城が1611年(慶長16年)に築かれた時には
ここに五重の天守が聳えていました。

その天守は1627年(寛永4年)に
落雷による火災で焼失しています。

弘前藩では天守再建を幕府に願い出ていましたが
その許可がなかなか下りなかった為に
元の天守の位置に櫓を築いたようです。


本丸を一周し本丸北側の搦手口から
北の郭へと向かいました。



赤い鷹丘橋を渡ると北の郭です。



"弘前城"のTopに戻る





北の郭



本丸の搦手口から鷹丘橋を渡り、
北の郭に向かいました。



鷹丘橋から眺める本丸と
北の郭の間の内堀です。



鷹丘橋を渡り、北の郭の中に入った様子です。
弘前城の正保城絵図では小丸と記されています。



木々の間に整備された空き地が広がり、
その一角に武徳殿休憩所がありました。



武徳殿休憩所は、明治末期に柔剣道の
練習場として築かれた建物を2003年
(平成15年)に改修し、休憩所としたものです。

武徳殿休憩所の北側には籾蔵跡がありました。



北の郭のこの位置には、江戸時代初期には
4代目藩主・信政公の生母、久祥院の屋敷があったそうですが
江戸時代末期には籾蔵が建ち並んでいたようです。

籾蔵は12間×4間(約24メートル×8メートル)
の大きさだったようです。


その東側には子の櫓跡がありました。
子の櫓跡の手前には木製のデッキが築かれ
そこから櫓跡の礎石を眺める事が出来ます。



子の櫓は三層の櫓だったそうですが
1906年(明治39年)に焼失しています。
原因は花火だったようです。
残念な事でした・・・

子の櫓跡近くの土塁の様子です。




子の櫓跡から南に向かうと北の郭が本丸と
二の丸の間の内堀に張り出した形になっています。

この場所には、2代藩主信牧が太閤・豊臣秀吉の
木像を御神体として安置した館神の跡があります。



江戸時代に豊臣秀吉を神と崇める事はご法度に
近い事だったと思うのですが、かつて南部氏の
家臣だった大浦氏(後の津軽氏)にとって、
直参に取り立て津軽の地を安堵した秀吉は
後世まで、敬うべき存在だった事でしょう。


北の郭から本丸の石垣を眺めてみました。



本丸天守と鷹丘橋が見えています。

北の郭の東南の隅に当たるこの場所から
鷹丘橋を通り、北の郭の西側に向かいました。




北の郭から眺めるはす池の様子です。

このはす池の先の波祢橋を
渡って四の丸に向かいました。






"弘前城"のTopに戻る





四の丸



北の郭から波祢橋を渡ると四の丸へと入ります。
四の丸は、弘前城の北を護る曲輪です。



この辺りは、四の丸の西の端で、弘前城の西側を
固めるはす池や西濠を眺める事が出来ます。
上の写真は桜のトンネルの築堤と西濠の様子です。


ここから、東に進み四の丸の中央部へと向かいました。
右手に北の郭の土塁が見えていました。



この辺りは子の櫓跡の土塁と思います。
しばらく歩くと、四の丸の曲輪が広がってきます。



木々の茂みが見えてきますが、
その中に護国神社がありました。



この護国神社は、1870年(明治3年)に
12代藩主・津軽承昭によって創建されています。

箱舘戦争の戦没者慰霊のためだそうです。

護国神社の東側は広大な空き地が広がっていました。



当時、四の丸には家臣の為の
侍屋敷が置かれていました。

この広い敷地に侍屋敷が所狭しと
建てられている様子も圧巻だった事でしょう。


この四の丸の北側の中央辺りに北門があります。



大光寺城(現在の南津軽郡平賀町)の城門を
移築したものと伝わる現存の城門です。
別名を亀甲門というそうです。

弘前城の築城が開始された時には、
この北門が大手門として計画されたそうです。

その後、南の追手門を正門とするように
計画変更された為、この北門は搦手口となりましたが
堂々とした北門は、大手門の風格が漂います。

北門は枡形門になっており、櫓門をくぐると
土塁と板塀で囲われた枡形に出ます。



この板塀は当時のものでしょうか。

高麗門は無かったようですが、こうした狭い空間で
土塁と板塀に囲われると、とても城内に
侵入出来るとは思えません。

北門を出たところの外堀に架かる亀甲橋です。



この先が城外になります。
亀甲橋の袂から土塁を眺めた様子です。



土塁の上に築かれた枡形の板塀が
堀に沿う土塁に懸かる箇所には
敵の侵入を防ぐように、板が土塁の
勾配に沿って伸びていました。

こうした門脇の建築物の様子を眺める
事が出来るのは珍しい様に思います。


亀甲橋を渡って振り返った北門の様子です。



北門の重厚で堅牢な様子が一層際立っていました。


この北門を出た先には、古い侍屋敷が現存しています。
その様子は、弘前の散策記で紹介しています。

弘前の様子はこちらです。

"弘前城"のTopに戻る


雪の弘前城


2010年12月、寒波が襲来している中、青森に来ていました。
弘前城には、その1年前に訪れたばかりでしたが、
雪の弘前城を再訪していました。


撮影: 2010年12月

1年前の秋の時とは全く雰囲気の異なる追手門の様子です。
訪れる人もほとんどいない三の丸の市民広場を横切り、
杉の大橋を渡りました。


撮影: 2010年12月

雪の中で赤い欄干が一層印象的でした。


撮影: 2010年12月

杉の大橋の左右に聳える二の丸未申櫓(左)と辰巳櫓(右)です。

この先の南内門をくぐり、二の丸に入ります。
ひっそりとした城内は一種独特の雰囲気でした。


撮影: 2010年12月

そして、下乗橋から眺め雪の現存天守(御三階櫓)です。


撮影: 2010年12月

以前訪れた際は、桜の季節ではありませんでしたが、
それでもこの下乗橋は人気で、多くの人がカメラを構えて
いましたが、この日は素晴らしい雪景色を独り占めしていました。

この後、東内門に立ち寄った後、二の丸を北に向かい、
北門を抜けて、
仲町伝統的建造物保存地区を訪れました。


撮影: 2010年12月

弘前・仲町伝統的建造物保存地区の様子はこちらです。

仲町伝統的建造物保存地区を訪れた後、
身体を温めるため、一旦ホテルに戻り
休憩し、夕方に再び弘前城に向かいました。

時刻は午後4時を回った頃だったと思いますが、
日の沈むのが早い冬の東北地方の事、
既に暗くなっていました。

東門から東内門に向かっていくと
既にライトアップされていました。


撮影: 2010年12月

降り続く雪がライトに照らされ、とても幻想的な光景でした。
これは驚くような光景で、急に江戸時代に
舞い降りたような感じにもなりました。


撮影: 2010年12月

ライトアップされた雪の現存天守(御三階櫓)です。
この景色も、心に残るものでした。

"弘前城"のTopに戻る

"弘前"のTopに戻る

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る