新庄城
Shinjyo Castle, Japan


登城日:
2007. 07. 31







新庄城は、新庄藩祖・戸沢政盛が築いたものです。

1622年(元和8年)に最上氏の改易によって
戸沢政盛は常陸松岡から移封され、
1624年(寛永元年)に築城を始め、翌年の
1625年(寛永二年)に完成したようです。

新庄藩は幕末まで戸沢氏が代々藩主を務めていました。
幕末には新政府軍側に付き、鶴岡藩の攻撃を受け
新庄城は焼失してしまったそうです。


新庄城は平城で、本丸の正面奥に天守櫓がそびえ、
周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓があったそうです。



新庄城の本丸跡に掲げられていた
新庄城の絵図です。

新庄城の天守は1636年(寛永10年)に焼失し、
その後は再建されなかったそうです。


2007年夏、仙台から岩出山城に立ち寄り、
新庄城にやってきました。

岩出山城の様子はこちらです。
新庄までのJR陸羽東線の乗車記はこちらです。


新庄駅の観光案内所で自転車を借り、新庄城を目指しました。
新庄城は駅の西、約1.5km程のところにあります。

地図はこちらです→ Mapion

駅前からの通りを自転車を走らせていると、
道端に、二の堀跡の碑が立っていました。



今は埋められてしまっていますが、
当時は二の曲輪と侍屋敷の建ち並んでいた
三の曲輪の間の堀だったようです。

二の堀跡の碑のすぐ隣には鐘堂跡の碑も立っていました。

この二の堀跡の碑からしばらく自転車を走らせると
広々とした空き地が広がってきました。



二の丸跡で、当時は新庄藩の
御役所が建てられていたそうです。

二の丸跡は小学校や高校の敷地だったのですが、
学校を移転して、市の文化施設を建てているそうです。

二の丸跡を過ぎ、道路を渡ると堀が見えてきました。



本丸と二の丸の間の内堀です。
想像していたよりも堀は広く、当時の
新庄城の様子を思い浮かべる事が出来ます。

堀の中の本丸跡は最上公園として整備されています。
南側から見た本丸跡の様子です。



左手に天満神社、護国神社や戸沢神社が祀られ、
右手は土塁が続いています。
土塁の右に先ほど見た内堀があります。


本丸跡の南端にある天満神社です。



この天満神社は藩主・戸沢氏の氏神様で、
戸沢政盛公が常州松岡から移封になった際に
この神社も共に移し、1628年(寛永5年)に
この地に遷座されたそうです。

小さいながらも茅葺の趣のある
本殿に、歴史を感じます。

天満神社の横にある、護国神社です。




そして本丸跡の東のお堀沿いに続く土塁です。



新庄城は江戸時代に入って築かれたお城ですが
本丸の周囲に石垣は使われていなかったのでしょうか。

土塁に登って望む内堀の様子です。



本丸跡を北に向かって進むと、
石垣で囲われた枡形門の跡が見えてきました。



表御門跡です。
この門跡の石垣は当時の
様子を彷彿とさせてくれます。

表御門跡を過ぎると、戸沢神社が左手に見えてきました。
戸沢神社は1894年(明治27年)に建立された神社で、
戸沢家の始祖・衡盛と藩祖・政盛、
11代最後の藩主正実を祀っているそうです。



参道の入り口に御玄関跡の碑がありました。
新庄藩政庁の表玄関の跡で、この奥に
大書院や御広間が続いていたそうです。

戸沢神社の奥には庭園が広がっていました。



この庭園の一角に古風な建物が建っていました。



案内板の一部が剥げてしまっているのですが、
藤嵐荘というのでしょうか?
二条城に建てられていた
流扇閣を模して建てられたそうです。

最上公園の一角にはあじさい園もありました。



既に盛りは過ぎているようでしたが
綺麗な花を咲かせた紫陽花もありました。

あじさい園からお堀端に沿って北に向かい、
本丸跡を抜けようとすると
道端に水路がありました。



江戸時代から残る水路で、近くを流れる川から
城内に水を引き入れていたものだそうです。


新庄城は、お堀や門跡の石垣、江戸時代から残る神社と
思っていた以上に当時の様子に思いを馳せる事が出来ました。



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