多賀城
TagaJyo, Japan


登城日:
2006. 12. 22 & 2009, 10. 09








多賀城跡は今から約1300年、
奈良時代前半に建てられた国府の跡です。

仙台市から東北東に15km程のところにあります。
所在地はこのお城から名前をとった多賀城市です。





この多賀城は城といっても、
天守の建つ江戸時代のお城や
自然の地形を活かし、堀や土塁で固めた
戦国時代の山城とも大きく趣が異なっています。

丁度、大宰府の都府楼と同じ様に、
当時の大和朝廷の勢力範囲の周辺に築かれた
鎮守府の役割も担っていたようです。

大宰府の様子はこちらです。

多賀城は、なだらかに起伏している丘陵地帯に
約1km四方程の地域に、多角形状に築地塀を巡らし、
そのほぼ中央には政庁の建物があったようです。



仙台には6年間住んでいましたが、
その時はこの多賀城には足を運びませんでした。

しかし多賀城が「日本の100名城」に選ばれた事もあり、
2006年12月の南東北旅行の際に立ち寄る事にしました。
その時の様子を紹介します。




外郭南東隅
Sep. 24, '13

外郭南門
May 30, '07

政庁跡
May 31, '07

六月坂地区
Sep. 28, '13

外郭北東隅
NEW ! Oct. 04, '13

大畑地区〜外郭東門
Jun. 02, '07

作貫地区
Jun. 02, '07


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外郭南東隅



多賀城へは、JR東北本線の
国府多賀城駅が最寄り駅です。

駅から館前遺跡を過ぎ、県道を渡ると
なだらかな丘陵が見えて来ました。



この辺りが多賀城の外郭南東隅にあたります。
多賀城の周囲に巡らされた築地塀の
跡が残されているそうです。

丘陵地に上がってみました。



右手の道路の様に続いているところが
当時の築地塀跡です。

塀の高さは高さ4.5mもあったそうです。
この辺りは低湿地だった為、幅17m、
厚さ1.5mの土台も築かれていたようです。

また丘陵の周囲の低地は、
あやめ園として整備されていました。



古代からこの辺りにはあやめが自生していて、
今は、多賀城市の市の花にもなっているそうです。

6月の頃、あやめの花が咲く様子は
きっと綺麗な事と思います。

多賀城の築地塀跡は隣の丘陵地へと繋がっています。



この丘陵地の先に、外郭南門があります。



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外郭南門



外郭南東隅から築地塀跡に沿い丘陵地に
向かうと、そこは外郭南門の近くでした。



現地の案内表示によると、多賀城の中心にある
政庁から真っ直ぐ南に伸びる大通りで、
8世紀には幅12メートル、9〜10世紀後半には
幅23mに拡幅されていたようです。



上の写真は現地案内板ですが、
上の方にある正方形の部分が政庁です。


実は、この時はタクシーを下りた後
まっすぐ政庁のほうに向かってしまったのですが、
旅行記では、順を追って外郭南門から説明します。

政庁の南、約350mのところに、
縦が約30m、横は約5m程の整地された所が
外郭南門の跡地のようです。



発掘調査の結果では、正門にあたる外郭南門は
二重の瓦屋根の立派な門だったようです。



復元計画もあるようで、当時の
様子が蘇るのが楽しみです。

この外郭南門の北東にある丘陵地に
古びた庵が建っていました。



この庵は覆堂で、この中に多賀城碑が建っています。

案内板によると碑文は上部に大きな「西」の字があり、
その下に多賀城の位置や歴史が書かれています。

この碑文によると多賀城は724年(神亀元年)に
大野朝臣東人によって建てられ、
762年(天平宝字6年)に藤原恵美朝臣朝★が
修繕した事が書かれているようです。

碑が作られたのが、762年(天平宝字6年)とあるので、
藤原恵美朝臣朝★の業績を称える為に
碑が作られたようです。
註:★はケモノ偏に葛
また、古くから歌に読まれ、
「壷の碑」としても知られているようです。



今は、覆堂のなかに収まり風雨を凌いでいますが
1875年(明治8年)にこの覆堂が建てられる前は、
野ざらしの状態で、碑文も読めない程
表面は苔に覆われていたようです。

この地を訪れた松尾芭蕉はこの碑を前に、
涙を流したと奥の細道に記しています。

当時は多賀城跡も土に還ってしまい
この碑だけが当時を偲ぶよすがだったことでしょう。


現在の多賀城は発掘調査に基づいて、
当時の様子がある程度復元されています。

外郭南門から政庁へと向かう大通りが、
丘陵を貫くように整備されていました。



大通りの両側にはコスモスが咲いていました。


緩やかな丘陵の途中から外郭南門を望みました。



いつものお城巡りとは異なる
古の風を感じたように思います。



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政庁跡



外郭南門からの大通りはなだらかな丘陵を
真っ直ぐ突っ切るように続いています。



丘陵にかかると大通りは
石の階段になっていたようです。

この階段を上ったその丘の一番
高いところに政庁跡がありました。

これは現地に展示されていた政庁の模型です。



政庁は政務や儀式が行われたところで、
城内で最も重要な場所だったようです。

周囲は約100mの築地塀で囲われ、
その内部に正殿が配されていたようです。

政庁の模型の近くに、奈良時代から平安時代にかけての
大和朝廷の勢力図を示した案内板がありました。



7世紀後半から8世紀に掛けてこの辺りが
大和朝廷の支配地になったようで、
723年にこの多賀城が築かれた頃は
周辺の国との緊張も高かった事と思います。

政庁南門跡から正殿を望んだ様子です。
手前の赤い色のところが政庁南門の跡です。



政庁の周囲は土塁で囲われていました。
この上に当時は築地塀が建てられていたのでしょう。

上の写真の、樹木の建ち並んでいる手前が
正殿跡で、そこは一段高くなっていました。



正殿の前には、石が敷き詰められています。
復元されたものなのか、当時の敷石が
発掘されたのかは、判りません。

現地案内板にあった正殿の復元予想図です。



2層の立派な建物です。
8世紀後半の様子という事ですが、
平安時代の頃にこのような立派な
建物が建っていたとは驚きです。


「後村上天皇御座之処(?)」の碑も
政庁の脇には、ありました。



後村上天皇は南北朝時代の天皇ですが、
1333年に北畠親房に奉じられて
この多賀城を訪れているようです。



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六月坂地区



政庁跡から西に向かうと、
鳥居と小さな社がありました。



この神社は多賀城神社です。

南北朝時代の後村上天皇や北畠親房らを
祀る神社という事で歴史も長い神社と
思ったのですが、創建は明治で、
多賀城市内では最も新しい神社です。

この神社の脇には道路が横切っています。



今では多賀城史跡には人家はありませんが、
史跡に指定された後に、ここに建っていた
人家を立ち退き等して保存しているようです。

この道も昔は生活道路だったと思います。
この道を北に向かうと六月坂地区があります。



その六月坂地区にあった多賀神社の小さな社です。

この辺りには多賀城の役所跡が
発掘されているようです。



平安初期には四面庇付の建物が二棟あり、
その前に掘立柱の建物が建っていたようです。

時代の流れと共に、どの役所は倉庫となり、
更には鍛冶工房と思われる建物に変わったそうです。

今は周囲を森に囲まれ、高原の様な雰囲気でした。



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外郭北東隅



六月坂地区から、多賀城遺跡の北側にある
加瀬沼への散策路が続いていました。



この加瀬沼は灌漑用の池で、
江戸時代に築かれたものだそうです。

奈良時代や平安時代の多賀城とは関係ないようですが、
多賀城の北側は深く切れ込んだ谷になっていて
敵への備えになっていた事は間違いありません。

この加瀬沼へ向かいかけましたが、
距離がありそうで、途中で引き換えし
多賀城北東隅へと向かいました。



木々の間の散策路を通っていきます。
北東隅までは150m程ですが、
アップダウンが激しい道を歩きます。

やがて木々が途切れ、低い土塁の
様なものが見えてきました。



この辺りが多賀城北東隅にあたります。



奈良時代と平安時代で、多賀城東端の位置が異なり、
奈良時代の方が東側に張り出していたようです。

この辺りの木々の中に、当時は大垣と呼ばれる
高さ4m程の瓦葺の塀が建てられていたそうです。

ここから更に木々の中を歩いて行くと
大垣北東隅櫓跡がありました。



平安時代には大垣に80m間隔で
瓦葺の建物が建てられていました。
物見櫓のような建物だったのでしょうか。


この木々を抜けると外郭東門に至りました。



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大畑地区〜外郭東門



多賀城の外郭南門から政庁跡までは、
丘陵を上りますが、350m程の距離で、
政庁もこじんまりとした印象でした。

が、政庁跡は多賀城跡のほんの一部分で、
当時、周囲には役所の建物が広がっていたようです。

政庁跡の東北にある大畑地区に向かいました。




大畑地区に向かう途中の丘陵地に
一軒の住宅を見かけました。

この多賀城市は1969年から発掘作業が続けられ
国の特別史跡に指定されているので、
城址内にある家は、いつかは史跡保存の為に
立ち退きになってしまうのでしょうか。。。

多賀城跡は、日本の歴史を探る上で
重要な史跡に位置づけられているのですが、
立ち退きになってしまう住民の方の
協力が無くては、史跡保存は成り立たず、
複雑な思いに駆られました。

この先には、緩やかな起伏の
空き地が広がっていました。



この辺りが大畑地区です。

この大畑地区には当時は役所の
建物が多く建っていたようです。

役所が建ち並んでいた辺りの
北側に北門跡がありました。



この北門は、外郭東門と外郭西門をつなぐ
幅16mの東西の大通りに面して作られていました。



石が敷き詰められたこの道を
当時は多くの役人達が歩いたことでしょう。

そして、北門のすぐ東側に
外郭東門がありました。



外郭東門は多賀城の東を固める
重要な門で、門の両側にあったされる
櫓跡の土塁もありました。
上の写真右側がその土塁です。


外郭東門の南には掘立柱式の屋敷跡が残っていました。



南北46m、東西12mと多賀城で最も
規模の大きな建物の跡ということです。

ここから更に南に向かうと、政庁の
東に位置する作貫地区となります。



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作貫地区



この多賀城跡を訪れたのは8時前頃で
その時間には、他に訪れる人もいなくて
古代の雰囲気を独り占め出来ていたのですが、
政庁から、大畑地区と巡り、作貫地区へ向かう頃には
9時を回り、近所の方が散歩する姿や、
他の観光客の姿も見受けられるようになりました。

作貫地区は、丘の上に広がっています。



奈良時代には重要な役所の建物が建てられ、
中世には豪族の居館、江戸時代には
塩釜神社の神官の住居が建てられていたそうです。

作貫地区の眺めです。




作貫地区で一番目に付くのは
空堀の跡を発掘調査した様子を
そのままの形で保存してある建物です。



作貫地区の丘の北側の斜面に空堀が作られ、
当時の空堀の一部を眺める事が出来ました。

こうした発掘調査でいつも感心するのが、
昔の土の遺構を、その後に積み重なった土の中から
掘り出して、遺構を特定する事です。

この空堀も、深く切れ込んだ形状をしていますが、
余程、細心の注意を払って発掘したの事でしょう。

そしてこちらは、丘陵の上の建物跡です。



広々とした空間が広がっていた大畑地区と比べ
作貫地区は、こじんまりとした印象でした。


少々駆け足の多賀城跡ですが、1969年(昭和44年)から
本格的な発掘調査が行われ、今も継続されているようです。
多賀城跡を訪れて、その規模の大きさもさることながら
発掘調査で当時の様子を解明している
宮城県や多賀城市の熱意が伝わってくる遺跡でした。



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