岩村城
Iwamura Jyo, Japan

登城日:
2006. 03. 25 & 2010. 10. 27


【岩村城 概要】

岩村城は、岐阜県南部の東濃地方にある山城です。

標高は721m。
近世城郭としては最も高いところにあり
岡山県の備中松山城、奈良県の高取城とともに
日本三大山城の一つとされています。

この岩村城は平安時代末期の1185年に
源頼朝公の家臣・加藤景廉(かげかど)が
築いたのが始まりということです、

戦国時代には織田信長と武田信玄の間で
岩村城の争奪戦が何度も行われたそうです。

織田信長の叔母は織田側の遠山景任に嫁ぎましたが
岩村城が信玄の家臣秋山信友に攻め込まれると、
信長の叔母は秋山信友に嫁ぎ、
岩村城主となり武田側に寝返ったのですが、
その後、城は再び織田側に攻め滅ぼされたそうです。

岩村城の主郭は標高717mの城山の山頂付近にあります。
主郭には本丸から三の丸、そして出丸や東曲輪、
八幡曲輪などが整備されていました。

戦国時代には城主もこの主郭にいましたが
1601年(慶長6年)に、その前年に城主となった
松平家乗は麓に城主居館を築いています。

この岩村城に、2006年3月25日と
2010年10月27日に訪れています。

その際の様子を紹介します。

【岩村城へのアクセス】

明知鉄道岩村駅から徒歩。

麓の歴史資料館までは徒歩約20分。
本丸跡まで駅から40分程はかかると思います。

【岩村城登城記】

城主居館
Mar. 02, '17
三の丸
Mar. 15, '17

東曲輪・本丸
Mar. 20, '17

二の丸・出丸
NEW! Mar. 24, '17

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城主居館

古い家並みの残る岩村の街を過ぎ
坂道に差し掛かるとお城の建物が見えてきました。


撮影: 2006年3月

1990年(平成2年)に復元された太鼓櫓や表御門です。

ここは江戸時代藩主邸が建てられていました。
天下泰平の江戸時代には標高721mの本丸まで
上り下りする必要はなくなっていたのでしょう。


撮影: 2010年10月

石段を登り表御門をくぐっていきました。
御殿が建っていた場所は更地となっており
その向こうに歴史資料館がありました。


撮影: 2010年10月

この歴史資料館では、岩村城の模型もあり、
歴史も詳しく学ぶことが出来ます。

そして、この敷地内にはいくつか碑がありました。


撮影: 2010年10月

上右の写真は、1827年(文政10年)に
当時の藩主・松平乗保に寄進した灯篭です。

左の灯篭も古そうなもので、趣がありましたが
案内板が朽ちかけていて、謂れを読むことが
出来ませんでした。

城主居館跡から眺める岩村の町並みです。


撮影: 2010年10月

藩主居館には藩校も置かれていました。
その建物が今も残っています。


撮影: 2010年10月

岩村藩の藩校・知新館は1702年(元禄15年)、
時の藩主・松平乗紀によって創立されています。

この時期に藩校を持つ藩は少なく、岩村藩は
僅か2万石の石高ながら十番目以内に
藩校を持ったそうです。

藩主居館跡に建つ歴史資料館に立ち寄った後、
岩村城址を目指しました。

遠く御嶽山を望みながら石畳の坂道を上ります。
坂道に沿って石垣が続いていました。


撮影: 2010年10月

当時は侍屋敷が建っていたのでしょうか。

実践女子学園を創立した下田歌子女史の
勉学所と記された屋敷もありました。


撮影: 2010年10月

下田歌子の父は知新館の教授だったそうです。

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城主居館から主郭へ

下田歌子生誕の地を過ぎると、
鬱蒼とした山道となりました。
藤坂と呼ばれる急坂です。


撮影: 2010年10月

岩村城の主郭へはしばらく急な上り坂が続きます。
途中に坂道が急に折れ曲がってるところがありました。


撮影: 2010年10月

初門または仮御門と呼ばれ、戦時には
門や柵をめぐらし強固な防御拠点にしたそうです。

この先も急な登坂が続きます。
やがて坂の脇に石垣が見えてきました。


撮影: 2010年10月

ここが一の門です。


撮影: 2010年10月

一の門では二重の櫓門や多聞が建ち、岩村城の
入り口として厳重な門構えになっていたようです。


撮影: 2010年10月

石垣の上は小さな曲輪になってます。
当時は門番の待機所でもあったのでしょうか。


撮影: 2010年10月

この一の門の先には土岐門もありました。


撮影: 2010年10月

後で知ったのですが、この土岐門は
徳称寺に移設されているようです。

さらに坂道を登っていくと、林の中に立派な
石垣が幾重にも折り重なるように現れました。


撮影: 2006年3月

ここは、畳橋・大手門・三重櫓があった辺りです。

木が生い茂っていて判りにくいのですが、
手前左端の石垣と中央左よりの石垣との間に
90度折れ曲がる形で木製の畳橋が架けられていたようです。

現在の登城道は、畳橋が書かていた
大手門前の空堀を行くようになっています。


撮影: 2010年10月

当時は、上の写真の左右の石垣の間に
畳橋が架けられていました。

畳橋は90度折れ曲がって大手門に接続されていたので、
麓側の橋台の石垣と大手門の石垣の位置がずれていて
当時の様子を思い描くのに苦労しました。

この畳橋は、戦時の時には落とされ、敵の侵入を防いだ
と思いますが、かなり規模の大きな橋だったと思います。


撮影: 2010年10月

そして、その石垣の上に追手門、その奥に大手門、
さらに正面の林の向こうの石垣の上に三重櫓が建ち、
岩村城正面口の一番堅牢な防御拠点のようです。


撮影: 2010年10月

三重櫓の石垣の先にも立派な石垣が続きます。


撮影: 2010年10月

この大手門を抜けると既に岩村城の主郭に入っています。


撮影: 2010年10月

左手の石垣の上に登りると追手門と大手門の
間の桝形を行く登城路が一望の下です。

当時、この郭には二重櫓が建っていたので、
大手門の守りは非常に堅かったと思います。

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三の丸

この大手門を過ぎると平地が広がり、
石垣に囲まれた曲輪がいくつも現れてきます。


撮影: 2010年10月

登城道の両脇は石垣で囲われ、
その上は侍屋敷になっていたようです。

登城道の脇に「竜神の井」がありました。


撮影: 2010年10月

井戸の向こうの敷地は五郎作屋敷跡です。
城内に住み込んだ侍の屋敷跡だそうです。

左手の郭の奥に向かって歩いてみました。
この郭は八幡曲輪と呼ばれていたそうです。


撮影: 2010年10月

2重の八幡櫓が建っていたようで、
その跡を示す案内板がありました。

この八幡曲輪からは先ほどの「竜神の井」を
見下ろす事が出来ました。


撮影: 2010年10月

当時は石垣の上に土壁が廻らされ
屋敷が建ち並び厳とした雰囲気だったことでしょう。

登城道まで戻り、本丸へと歩いていきました。
このあたりの道端に古い井戸がありました。


撮影: 2010年10月

この井戸は霧ヶ井と呼ばれ、
蛇骨を投げ入れると雲霧が湧き上がり、
城全体を隠してしまうという伝説があるそうです。

水の乏しい山城にあって、竜神の井や
霧ヶ井と、岩村城では水の確保は
充分出来ていたようです。


撮影: 2010年10月

八幡曲輪の奥にも郭がありました。


撮影: 2010年10月

この郭には龍神社がありました。
朽ちかけ、強風が吹けば倒れてしまいそうな
神社の社でした。

登城道に戻ると、俄坂櫓門跡の案内板がありました。
俄坂門は、絡手口にあたり、岩村城の
東の谷に抜けることが出来る様です。


撮影: 2010年10月

この先に、菱櫓跡の石垣がありました。


撮影: 2006年3月

上の写真右手前の石垣の上に
菱櫓が建てられていたようです。
行く手に何段もの石垣が
積まれているのが見えています。

木が生い茂り、道端に草も生えていますが、
往時はどのような景観だったのだろうかと
思いを巡らせました。

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東曲輪・本丸

菱櫓の石垣の向こうに聳えるのは
東曲輪の「六段壁」の石垣です。


撮影: 2010年10月

急斜面に張り巡らされた石垣。
修理を考慮して、階段状に積んであるようです。

「六段壁」の奥には、本丸へと向かう
石段が続いていました。


撮影: 2010年10月

この石垣を目にすると、城址というよりも
遺跡に迷い込んだかのような感じがします。

この山深い岩村城にこれだけの石垣を積むのは
かなりの労力が必要だったと思います。
そこまでの防御をしなければならかなかった
当時の状況は如何に厳しいものだったのでしょうか。


撮影: 2010年10月

石垣が幾重にも折り重なるように配置され、
本丸に至る通路は複雑です。

石段を上った左手に東曲輪の郭跡があります。


撮影: 2010年10月

本丸は、東曲輪からはさらに高い位置にあります。
本丸の手前には更に壁のような石垣が迫っていました。


撮影: 2010年10月

その高い石垣の脇に長局という細長い曲輪の
跡があり、その郭へとつながる埋門跡がありました。


撮影: 2010年10月

上の写真右側は本丸の正門だった平重門跡です。

平重門の入り口に立つと、そこまでに至る、
石垣に囲まれた複雑な経路を
一望する事が出来ました。


撮影: 2010年10月

遠く向こうには中央アルプスに連なる山々も見えています。
2006年3月に訪れた際には、良く晴れていて、
雪を被った中央アルプスの山々も見えていました。


撮影: 2006年3月

血なまぐさい当時の争いとは無縁の
胸の透くような綺麗な景色でした。

こうして多くの石垣の城壁を通り、本丸へと入りました。


撮影: 2010年10月

岩村城は本能寺の変の後に城主となった森氏に
仕えた家老・各務元正が1582年から17年かけて
近世城郭に作り変えたそうです。

この岩村城本丸には、本能寺の変で斃れる
80日前、織田信長がここに宿泊しています。


撮影: 2010年10月

2010年10月に訪れた際には、
本丸で発掘調査が行われていました。

本丸から北側の二の丸の方向を見下ろした様子です。


撮影: 2010年10月

こちらは搦手口になりますが、こちらも
石垣が折り重なり、複雑な構造になっています。


撮影: 2010年10月

石垣の間を折れ曲がりながら、
二の丸との間の埋門に向かいました。

当時はこの門の脇に二重櫓があり、
埋門の上には多門櫓が渡されていたそうです。

埋門の脇でも発掘調査が行われていました。


撮影: 2010年10月

ブルーシートは掛けられておらず、よく見てみると
陶磁器などが出土しているようでした。

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二の丸・出丸

本丸の埋門を抜けると二の丸です。

埋門を抜けて眺める本丸南側の石垣と
二之丸の様子です。


撮影: 2010年10月

二の丸には二重櫓の他に番所や
米蔵、馬小屋などがあったそうですが
今はすっかり雑木林になっています。

二之丸の西南にある赤時門跡を通り、
出丸へ向かいました。


撮影: 2010年10月

赤時門の別名は不明門。
あかずの門です。

赤時門跡を抜け、斜面を下ると出丸跡です。


撮影: 2010年10月

出丸へは二の丸と本丸の西側の
切岸の下を歩いていきます。


撮影: 2010年10月

振り返って眺めた切岸の様子です。
本丸の北側は一面の高石垣で囲われ、南側は
土塁の下を石垣で囲った腰巻石垣になっていました。


撮影: 2010年10月

この腰巻石垣の下に、出丸の正門にあたる
出丸平重門跡がありました。
この右手が出丸です。

残念な事に、いまは駐車場になっていますが、
当時はここに2基の二重櫓があったそうです。


撮影: 2010年10月

上左の写真は、出丸の入り口から眺めた様子ですが、
丁度、正面に二重櫓の一つ、太鼓櫓がありました。


撮影: 2010年10月

出丸には氷餅蔵がありました。
籠城の際に備え、氷餅を貯えておいたそうです。

出丸からは、岩村の集落を見下ろす事が出来ました。


撮影: 2010年10月

立派な石垣で囲われた岩村城。
日本三大山城の名に恥じない
素晴らしい古城でした。

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