韮山城
Nirayama Fort, Japan


登城日:
2008. 03. 01







【韮山城概要】


現地の案内版によると、韮山城は、
1469〜1486年の文明年間に、
堀越公方・足利政知の家臣、外山豊前守が
城を築いたのが始まりと言われているそうです。

その後、1491年(延徳3年)に駿河興国寺城の
伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が堀越御所の
内乱につけ込んで、足利政知の子、茶々丸を滅ぼし
伊豆の領主として、この韮山城に移り住んだようです。

後北条氏の祖となった北条早雲は、この韮山城を足がかりに
小田原城を奪い、後北条氏の本拠としたのですが
晩年はまたこの韮山に戻り、ここで33年間暮らし
1519年(永正16年)に亡くなったそうです。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際には
後北条氏政の弟、後北条氏規が城主として、
蜂須賀家政、前野長康ら4万4千人の豊臣の軍勢を敵に、
100日間の籠城戦を戦い抜いたそうです。


北条氏の滅亡後、内藤信成が城主となりますが
1600年(慶長5年)に、信成の移封により、
韮山城は廃城になったそうです。

地図はこちらです→ Mapion




【韮山城へのアクセス】


伊豆箱根鉄道駿豆線、韮山駅下車。
韮山駅の東、約1.5km程のところです。
徒歩約15〜20分です。

伊豆箱根鉄道駿豆線の乗車記はこちらです。




【韮山城登城記】


源頼朝が流されたと伝わる蛭ヶ小島から
東の山懐の韮山中学へと向かいました。

蛭ヶ小島の近くの田んぼから
眺めた韮山城の様子です。



写真中央の建物が韮山中学校、
そして左端が韮山高校です。
二つの学校の間にある高台が
韮山城址です。

右端の小高い山が天ヶ岳で、
秀吉に韮山城が攻略された際には、
この天ヶ岳にも砦が築かれたそうです。

韮山中学校の脇を抜けると、
天ヶ岳と韮山城の間の
深く切れ込んだ堀切を通りました。



深さ10mにも及びそうな
垂直の崖が続いていました。

この堀切を過ぎると、韮山城の
東側にある城池の辺に出ます。



池の辺の梅が綺麗に咲いていました。

韮山城には現地に城郭図が掲示されておらず
この城池の辺に掲げられていた
城池親水公園の案内図を頼りに
韮山城の散策を始めました。



城池と韮山城の間の空き地を北に進みます。
城池の南に広がる芝生の空間が見えています。



当時は侍屋敷だったようです。

城池と韮山城のある高台との間の
曲輪のようなところを進んでいきます。



小さな区画が何段か続くきます。
途中で、空堀と思しき、広い窪地がありました。

やがて韮山城の案内板が現れ、
本城へと向かう登城口に出ました。



虎口なのか、堀底なのか判りませんが
狭い上り坂なので、ここから攻め入った敵は
上にいる城兵からたやすく攻撃されてしまうでしょう。

この坂道を登ると、韮崎高校のテニスコートに出ます。



このテニスコートのある一角は、
当時は三の丸だったそうです。

テニスコートの先にある土塁です。



2m程の高さがあり、見事な土塁です。
この土塁の先は、韮山高校の
グランドへと通じる道になっていました。



この韮山高校のあたりは
御座敷と呼ばれているそうで、
北条早雲の居館があったのでしょうか。
先ほどの土塁のところを左に進むと、 熊野神社が見えてきました。



由緒を見ると、1500年(明応元年)9月に
伊勢新九朗長氏(後の北条早雲)が、
韮山城の守護神として創建したとあります。

1590年(天正8年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際に
"落城"した後は、土手和田村の村民から
信仰を集めていたそうです。

このあたりは権現平と呼ばれていたそうです。
城池を見下ろしたり、二の丸とを
分ける堀切がありました。



この堀切から二の丸へと続く
急な坂道を登って行きます。
下の写真、左手の坂道です。



しばらく急な坂道を登ると、
やや小ぶりな平地が現れました。

ここが二の丸跡のようです。



北条早雲の館跡の韮山高校が眼下に見え、
その向こうに富士山が聳えていました。

丁度、韮山高校の陸上部の人たちが練習中で、
この下に見えるグランドから、この二の丸跡まで
駆け上っていました。
歩いて上るだけでも息が上がってしまいそうな
坂道なのに、そこを駆け上がるとは
若い高校生の体力に驚くばかりです。


二の丸跡からさらに上ると、本丸跡です。



二の丸と本丸跡の間にも堀切や
土橋跡があったようですが、
見逃してしまいました。
階段を上ったところの本丸跡です。



本丸跡も思ったよりも狭い曲輪でした。
しかし、西側に広がる平野に面しているので
ここからの眺めは素晴らしものでした。



韮山城の北に聳える富士山の様子、
そして西側には、頼朝が流された蛭ヶ小島、
そしてその向こうにかつて北条政子を生んだ
北条氏の居館があった辺りが一望出来ます。

本丸跡からは尾根伝いに
更に南にいく事が出来ました。



少し尾根が開け、立派な土塁が現れました。



塩蔵跡と言われている一画と思います。
土塁に囲まれたあたりに
兵糧庫があったのでしょうか。


城郭図がなく、手探り状態での韮山城巡りでしたが、
現地で撮った写真を多くの方々の訪問記と照らし合わせて、
なんとか、当時の韮山城の位置を推し量る事が
出来たように思います。

韮山城を攻略した後、城池の東側から
韮山城址を眺めた様子です。



この韮山城は、箱根の山の中腹にある
山中城に比べ遥かに小ぶりでした。

山中城の様子はこちらです。


その韮山城が、山中城攻略軍よりも多い
44,000もの軍勢を相手に、100日も
持ちこたえたとは、驚きです。

韮山城が持ち堪えられたのは小高い山に
築かれたという地形故だったのでしょうか。
それとも、小田原への進軍の道上に位置する
山中城とは異なり、脇にすれた位置にあった韮山城では
豊臣軍は元々兵力をここに封じ込め、
小田原へと進軍する軍勢を韮山城の軍勢に
攻撃されないようにするのが目的だったのでしょうか。

城主だった後北条氏規の兄弟、氏政・氏照が
刑死させられたのとは対照的に
氏規は戦いの後に命を存え、
高野山に蟄居した事も何か関連があったのか、
と色々想像を膨らませてしまいます。



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