山中城
Yamanaka Fort, Japan


登城日:
2008. 02. 16







【山中城概要】


山中城は、1558〜1569年の永禄年間に、
北条氏が国境防備の為に築いたお城です。

山中城は箱根から三島に下る
旧東海道の途中に築かれています。
箱根の山を背にした山中城は、
小田原に本拠を置く北条氏が
西の守りとして重視したお城だったようです。




築城時は武田との戦に備えてものだったのですが、
勢力を伸ばす豊臣秀吉の上洛要請に従わない
北条氏政との間に緊張が高まると
1587年(天正15年)頃には、
増築が始まったようです。

西ノ丸や東海道を挟んで反対側に
岱崎出丸を築いたり堀の拡幅をしたそうですが、
1590年(天正18年)に豊臣秀吉の
小田原征伐の3万5千人の攻撃を受け、
わずか半日で落城したと伝えられています。





山中城は、1973年(昭和48年)から発掘が行われ、
その結果に基づく整備がされています。
北条氏の城の特徴といわれる障子堀が復元され、
その見事さで知られています。

2008年2月にこの山中城を訪れました。
その時の様子を紹介します。



【山中城へのアクセス】


東海自動車の三島駅から
元箱根港行きバスに乗車。
夏季は14往復、冬季10往復です。
所要時間は約30分です。

三島駅発の時刻表は こちらです。




【山中城登城記】


岱崎出丸
June 10, '09

三の丸堀から西櫓へ
June 14, '09

西ノ丸から二ノ丸
June 15, '09

本丸から北ノ丸へ
June 17, '09

北ノ丸から宋閑寺へ
NEW ! June 19, '09




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岱崎出丸


岱崎出丸は1587年(天正15年)頃に、
増築された出丸です。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉の
小田原征伐までには間に合わず
未完の状態で攻撃を受け、山中城攻防戦で
最も激しい戦いが行われた所だそうです。


三島から国道1号線を箱根に向かう
路線バスを山中城址で下車します。

バス停の先で、国道一号線と
交差する細い道が旧東海道。

横断歩道を渡り、その東海道を南に入ると
すぐ左側に岱崎出丸への入り口がありました。



石畳の東海道の左手に続く階段が
岱崎出丸への入り口です。

狭い階段を上ると、狭い入り口と対照的に
斜面に芝生が広がっていました。



斜面の上には木々が映えていて
その根元には雪が残っていました。

この斜面を登ると右手北側に
箱根の山々が見えていました。



この斜面を登ったところに曲輪がありました。
この曲輪が御馬場跡です。



曲輪の西側には高い
土塁が築かれています。



土塁の西側の一段低いところには
南北に長い岱崎出丸に沿って、
馬場のような長い通路が延びていました。

この土塁の上に立つと、遠く駿河湾から
愛鷹山、富士山と展望が開けていました。



山中城からこれ程素晴らしい眺めが
見られるとは思っていませんでした。

でも、東からの敵を防ぐ目的で
箱根の山の中腹に築かれた山中城から、
駿河湾の眺めが素晴らしいのは
当然のことだったと思います。

そして、富士山の手前に見える尾根は
山中城の西ノ丸から続いていて、
この間に旧東海道が延びています。

東海道を上ってきた敵は
西ノ丸とこの岱崎出丸の兵力によって
挟撃されるような設計になっていたようです。

御馬場跡の南側には、急斜面に続く
深く切れ込んだ堀が築かれていました。



南から攻め上ってきた敵兵は、
この堀と急勾配の土塁を超えるのは
大変だったことと思います。


御馬場跡から岱崎出丸を南に下っていきました。
岱崎出丸の西側に南北に細長く廊下のような
曲輪が続いていました。



その途中に2箇所ほど
見晴台のような櫓台がありました。

この櫓台の向こうには急斜面が続き、
その下に梯子状に畝がある
立派な堀が続いていました。



「一の堀」と呼ばれる堀で、
堀の中に畝を設けるのは
北条氏のお城の特徴と言われています。

堀の中の畝が敵兵の動きを制約し、
鎧兜を身に付けた武将は堀から続く急斜面を
上れなかったと言われているようです。



山中城を一巡りし、バスを待つ時間があったので
再びこの櫓台に来たとき、傾いた西陽が
駿河湾を照らしていました。

この先に岱崎出丸最南端の
すり鉢曲輪がありました。



曲輪の中央部が凹み、その形状から
すり鉢曲輪の名が付いたそうです。

このすり鉢曲輪の東側には
武者溜りと思われる曲輪が続いています。




このすり鉢曲輪は、東海道を攻め上る
敵が最初に遭遇する曲輪です。

1590年(天正18年) 3月の戦いでも、
豊臣秀吉の子飼の中村一氏隊が
先鋒としてこのすり鉢曲輪に攻めかかり、
多くの犠牲を払いながら攻め陥しました。



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三の丸堀から西櫓へ


岱崎出丸を訪れた後、旧東海道や
国道一号線を越えた反対側の
峰にある主郭を目指しました。

まず、岱崎出丸と旧東海道の通る
谷を越えて反対の峰にある
西櫓から西ノ丸に向かいました。

国道一号線を渡り、駐車場の奥の
入り口を入っていくと三ノ丸堀に
沿って歩くようになります。



西側(上の写真左手)の丘陵地から
斜面が一直線状の堀に落ち込んでいます。
かつて三の丸はこの右手に広がっていますたが
いまは、集落になっていて、1590年(天正18年)の
戦いで亡くなった北条方・豊臣方の将兵のお墓のある
宗閑寺も三の丸の敷地だったようです。

三の丸の様子はこちらです。

三の丸堀の先には田尻の池と
呼ばれる池がありました。



当初、ここは湿地帯だったそうで、
土塁で囲って池とし、お城の
水源にもしていたそうです。


この田尻の池の前方に元西櫓の
土塁がそびえ、左の道を進むと
西ノ丸から西櫓へと続きます。



写真右手の土手の上が元西櫓、
そして左手が西ノ丸です。

ここは元西櫓下の掘の底で、
日当たりも悪く残雪が残っていました。

当時は堀の周囲の土塁や堀には
関東ローム層が露出し、土塁の
勾配も今よりも急だったそうです。


丘陵地の尾根の上にある西ノ丸の周囲は、
深く掘られ、堀底に畝がいくつも築かた
障子堀と呼ばれる堀が築かれていました。

 

左の写真は、西ノ丸南側の堀です。
畝は2mもの高さがあったようです。
西ノ丸へは更に9mもの土塁を
上らないと辿り着けません。

堀の幅が狭く、畝は階段状ですが
写真右の西ノ丸と西櫓の間の障子堀は
幅が広く、畝で堀底に幾何学模様が
描かれているようでした。

堀の外側の坂道を上り、山中城の
一番西の端に辿り着きました。



畝が続く堀の向こうの曲輪は西櫓です。

ここから西の方角を眺めると、
富士山から愛鷹山、駿河湾の眺めが
一望出来ました。



1590年(天正18年) 3月の戦いでは
徳川家康の軍勢がこの方面から西櫓や
西ノ丸へ攻め掛かりました。

圧倒的な寄せ手の勢いで、
岱崎出丸との連携も絶たれ、
西櫓、西ノ丸は陥落してしまったそうです。


西櫓は西ノ丸の先に作られた
角馬出だったようです。
周囲は畝堀でぐるりと囲まれ、
西ノ丸や堀の外側とは木橋が
架かっていたそうです。

西櫓の内部です。



ここには3m x 2.6mの大きさの
建物の柱穴跡が見つかっているそうです。

少し地面が盛り上がった
櫓台のような跡もありました。

西櫓から眺めた障子堀の様子です。



この西堀と西ノ丸の間が、山中城の中でも
一番畝の数が多く立派な障子堀でした。



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西ノ丸から二ノ丸


西櫓から西ノ丸に向かいました。
先ほど眺めたこの二つの曲輪の
間の障子堀の様子です。



山中城の障子堀は素晴らしいですが
その中でもここの堀が一番見事だと思います。
案内板によると堀の中央に水が沸き、
その水を畝と畝の間で貯めながら
南北の堀に流す構造になっているようです。

西ノ丸の周囲を巡る堀の一周して
東側から西ノ丸に足を踏み入れました。

西ノ丸の東側には2箇所入り口があり、
そこには冠木門が築かれていました。



西ノ丸は広さ3,400平米の広さのある
規模の大きな曲輪です。

曲輪の西にある見張り台から、
東に向かって傾斜しています。

発掘調査では建物跡は
見つからなかったそうです。



見張り台から眺めた西ノ丸の様子です。

芝生の西ノ丸の先の木々の奥に
二ノ丸や本丸があります。
西ノ丸を取り囲む木々の向こう、
遠くには箱根の山が見えていました。


二ノ丸の東の深い堀を越えて
更に東に進みます。



堀底から西ノ丸の東隣にある
元西櫓へと上る坂道です。
写真左手は元西櫓の北の溜池跡です。

元西櫓は西ノ丸と二ノ丸の
間にある小さな曲輪です。



この曲輪からは5.4m x 7m程の建物跡が
見つかっているそうです。

元西櫓と二ノ丸との間には
深い堀が横たわっていて、
当時も木橋が架かっていたようです。



木橋を渡ったところが二ノ丸の虎口です。
左側に高い土塁が築かれ、右に折れるように
折れ曲がって二ノ丸に入る構造になっています。



木橋を渡り元西櫓を振り返った様子です。
深く切れ込んだ堀にも畝が造られていました。

虎口を過ぎてすぐ右手には
三ノ丸から二ノ丸へと至る
大手道が土塁の下に見えていました。




二ノ丸は東西に伸びる尾根を
堀切で区切った曲輪で、
北側から南にかけて傾斜しています。
この傾斜は自然の地形そのままのようです。



二ノ丸の東の端には
二ノ丸櫓台が復元されていました。



この二ノ丸櫓台に上ると、谷を挟んだ
反対の尾根にある岱崎出丸が見えていました。


1590年(天正18年)の山中城攻防戦では
この二ノ丸には山中城首将の北条氏勝率いる
1,000〜1,500の部隊が陣取っていましたが、
西櫓と西ノ丸が徳川家康の軍勢に
攻め込まれるのを見届けると、北条氏勝は
この二ノ丸から山中城を脱出してしまったそうです。


二ノ丸と本丸の間にも深く切れ込んだ堀があり、
一部が欠き取られた土橋が築かれ、
そこに木橋が架けられていました。



木橋を渡ると本丸です。



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本丸から北ノ丸へ


二ノ丸から木橋を渡ると本丸です。

面積は1740平米で、二ノ丸よりも小さな曲輪ですが、
北側が土塁で囲まれ天守櫓台もあります。



本丸に入ってすぐに藤棚がありましたが
この位置に本丸広間が建てられていたようです。

本丸の南側は一段低くなっていています。



ここには兵糧庫が建っていました。
兵糧庫の建っていた区画は
溝によって東西に分けられています。



兵糧庫跡から眺めた本丸の様子です。



本丸と兵糧庫跡の間の
高低差は約2m程です。

本丸の東端の天守櫓跡に上ってみました。
本丸からは8m程の高さがあり、
本丸の様子が手に取るように
眺める事が出来ました。



本丸の北側には天守櫓跡とほぼ同じ
高さの土塁が続いているのがわかります。

本丸の北側の土塁は立派だったのですが、
岱崎出丸や、西櫓や西ノ丸周辺の障子櫓を
眺めた後では、こじんまりとした本丸は
ちょっと地味な印象でした。

本丸の北側の土塁に階段が続いています。



この階段を上ると、堀に架かる木橋を渡り
本丸の北側の堀を越えました。



杉の木立で日が翳った木橋の向こうには
明るく北の丸が見えています。



北の丸は本丸のすぐ北側に位置する曲輪です。
本丸に面した南側以外の三方を土塁で囲まれ、
また周囲には深い堀で守りを固めています。



北の丸を取り巻く堀の様子です。
かなり深い堀ですが、当時よりも
2m程浅くなっているそうです。


山中城は石垣を使わず、土塁と堀だけで守りを
固めたお城ですが、これだけの規模の堀があれば、
通常の兵力では容易には攻め込めない
造りになっていたように思います。

そんな山中城が僅か半日で陥落してしまったのは
信長や秀吉の天下統一で、戦国時代の
常識を超える兵力を動因出来る様になったことと
鉄砲の発達によって戦い方に変化が出てきた為でしょうか。

山中城が落城して10年後の関が原の戦い以降に
西国大名を中心に多くのお城が築かれていますが、
それらは平地に大きな区画のお城が築かれています。

山中城は、不幸にもそんな時代の変わり目に
攻め滅ぼされてしまったのかも知れません。



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北ノ丸から宋閑寺へ


長方形をした北の丸の東の端には
本丸の東側へと回り込むような
細い通路のような部分がありました。



写真左手の階段を下りてゆくと
やがて竪堀の底のような所を
歩くようになります。

下りきったところが国道1号線で、
ひっきりなしに走る車と山間を走る車の騒音で、
道路脇に立つのにちょっと恐怖を覚えます。

国道1号線を南に歩くとすぐに
駒形諏訪神社の入り口がありました。

 

駒形諏訪神社は山中城の本丸に
守護神として祀られていたそうです。
御祭神は大国主命を父にもつ建御名方命と
日本武命です。

上の写真右の大きな木はカシの木で
樹齢は500〜600年と推定されるそうです。
このカシの木は1590年(天正18年)の
山中城攻防戦の際には既に生育していた事になり、
遠い昔の戦の生き証人です。



駒形諏訪神社の社はとても質素でした。

駒形諏訪神社から再び
本丸南側の兵糧庫の曲輪に辿り着き、
その西側の箱井戸の辺に出ました。



この箱井戸の西隣に、三の丸堀に
沿って歩いた先に辿り着いた
田尻の池がありました。

当時、箱井戸や田尻の池のあった辺りは
湿地帯だったそうです。


これで山中城の主郭をぐるっと
一回りした事になるのですが、
箱井戸から南に向かい、
旧三の丸に建つ宋閑寺に行きました。

宋閑寺は静岡の華陽院の末寺です。
境内は山中城の旧三の丸跡にあります。

華陽院の様子は こちらです。


国道一号線に面した参道から
小さな本堂を眺めた様子です。



この宋閑寺には、1590年(天正18年)の
山中城攻防戦で戦死した
武将のお墓がありました。

こちらは山中城主・松田右兵衛太夫と
岱崎出丸の守将・間宮豊前守康俊兄弟と
その一族のお墓です。



そしてこちらは豊臣軍の先鋒、
一柳伊豆守直末のお墓です。



一柳伊豆守直末は、岱崎出丸から
三の丸を攻めたそうですが、
攻撃開始直後に斃れたそうです。

敵味方となり闘った両軍の武将の墓が並ぶ様子は、
400年を超える年月を経て、ここで、激しい戦いが
行われた事が信じられない程、静かで
ひっそりとした雰囲気でした。


宋閑寺から旧東海道に沿って南に下ると
高台に芝切地蔵がありました。



現地の案内板によると、
この山中新田の旅籠に泊まった旅人が
急な腹痛で命を落としてしまうのですが
死の直前、「地蔵尊として祀り、芝塚を積んで
ふるさとの常陸が見えるようにして下さい。
そうしたら村人の健康を守ります」と
言い残したそうです。

村人がその言葉どおりに地蔵尊を祭り
7月19日の縁日に「小麦まんじゅう」を作って
参拝にきた縁者をもてなしたところ、
その饅頭が有名となり、山中新田の村は
潤ったという話が伝わっているそうです。



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