田中城
Tanaka Castle, Japan


登城日:
2007. 06. 01







田中城は藤枝市にあるお城です。

江戸時代には田中藩4万石の居城だったのですが、
この田中城は、円形の縄張り(城郭の形)と、
1616年に鷹狩りで訪れていた徳川家康が
この田中城で食べた鯛の天麩羅がもとで
亡くなったことで知られています。

地図はこちらです→ Mapion

田中城はこの地の豪族・一色氏が
今川氏の命を受けて、その館を拡大して
城にしたのが始まりとされているようです。

15世紀後半の事だったようです。
一説には1537年(天文6年)に
今川氏によって築かれたようです。

1570年(永禄13年)には武田信玄によって落とされ、
その後、馬場美濃守によって特徴のある
円形の城郭に拡充されました。

その後、この田中城は武田氏の遠州攻略の
重要な拠点だったのですが、1582年(天正10年)、
徳川家康に攻められ開城しています。

田中城の特徴的な円形の城郭です。



最外郭の曲輪と堀(四之堀)は1601年(慶長6年)、
酒井忠利によって築かれたものです。
写真の緑色の部分は家臣達の屋敷です。


2007年6月、この田中城に行ってきました。
藤枝駅でJR東海道線の電車を降り、
駅前のバス停で発車を待っていた
岡部町行きのバスに乗り、
駅から15分程の藤枝大手で下車し、
田中城に向かいました。

焼津に向かう主要道路が分かれる交差点に
田中城址の立派な碑がありました。



この先にある松原木戸を北に入った
西益津公民館に向かいました。

何気にこの公民館に行ったのですが、
田中城やこの周辺のパンフレットがあり、
また田中城の模型が展示されていました。



田中城の往時の様子がとってもよく判る模型です。
色々な情報によると、田中城はすっかり宅地化が進み
この特徴ある円形の城郭の跡はあまり良く残っていないと
言われるのですが、さてどうでしょう。
とてもワクワクとして城址巡りを始めました。


まずは先ほど通った松原木戸まで戻りました。



ここは酒井忠利が設けた東海道への出入り口です。
松が植えられたので松原木戸と呼ばれたようですが、
当時の名残の松が植えられていました。

この松原木戸の南に田圃が広がっていました。



左上の写真は田植えの長閑な光景ですが、
田圃に沿った道が微妙にカーブしています。

当時、この辺りには外堀があったのですが、
その道に沿って歩くと、弧を描く
堀や土塁の形状がよく判りました。

この辺りは宅地化もそれ程進んでなくて
水を張った田圃もありました。



燕も飛び交い、気持ち良い初夏の天気です。


ここから南に歩き、姥ヶ池に向かいました。
綺麗な水で溢れた小さな池です。



おばあさんが小さなお孫さんを連れて
池の畔に佇んでいました。
大きな鯉が泳いでいます。

この姥ヶ池は、田中城の水源でここから
城内まで木筒で水が引き込まれていたそうです。


姥ヶ池から城内に戻り三之堀跡に向かいました。
西益津中学校の裏に堀と土塁が復元されています。



堀の幅は18m〜27m、土塁の高さは約5mあったそうです。
小さい子鴨をつれた鴨の一家が堀跡を泳いでいました。
堀に近づくとすっと水草の中に入っていってしまいました。
ここも、今でも清水が湧き出し、堀を満たしているそうです。

復元三之堀をすぎ北に向かって歩くと、
松原木戸から東へと向かう道に出会います。

この辺りが大手一之門跡です。



田中城で一番大きい、48坪程の広さの枡形門が
あったそうですが、今では跡形もありません。

このすぐ近くに武田信玄が馬場美濃守に
造らせたという三之堀と土塁の跡が残っていました。



この大手一之門から本丸に向かいました。
東に歩いていくと、三日月堀跡の碑が建ち、
そのすぐ先が二ノ堀と大手二之門跡です。

ここも堀が残され、堀の橋を通る道の脇に
欄干だけの模擬橋がありました。



当時はここに大手二之橋が
架けられていたそうです。

この二之堀の先には御殿跡に建てられた
西益津中学校があります。

そして、大手二之橋の先には、
西益尾小学校の校門が見えていました。



この西益尾小学校が本丸跡で、校門には
立派な本丸跡の碑も建っていました。
本丸の広さは四角で約480坪(1580平方メートル)。
こじんまりとした本丸だったようです。

旧本丸の校庭で体育の授業をする子供達。



学校の様子を写真に撮るのは気を遣います。

本丸跡の次は北に足を向け、
平島木戸を訪れました。

田中城址の北半分は多くの家が建っています。

歩いていると、家老の屋敷跡の案内碑が目に付きます。
下の左の写真は、遠藤俊臣屋敷跡の碑です。
躑躅が咲いて、とても綺麗でした。



交差する道が緩やかな円弧を
描いているのを眺めながら歩くうちに
平島一之門跡の碑を見つけました。
(上右の写真です)

碑の建っている先は、住宅が
途切れ畑になっていました。

畑になっているところが三之堀跡で
その本丸側には土塁も残っていました。



宅地化が進んでしまった田中城ですが、
多くの碑や所々に残っている遺構が
当時の様子を今に伝えています。


平島一之門跡をしばらく行くと
平島木戸跡に出ました。



ここは木戸の跡が残っておらず、
僅かに碑がそれを示すだけです。
田中城址の古い町並みもこの木戸で尽き、
平島木戸の北側には新しい道路や
比較的新しい住宅が続いています。



何気ない郊外の景色ですが、
この道は「御成街道」と呼ばれています。

駿府城に隠居した家康が、
田中城に鷹狩りに通った道です。

この道を少し行ったところに
「馬上の清水」という史跡があります。



家康が鷹狩りの時に、馬上でこの水を
飲んだ事からこの名が付いたそうです。


馬上の清水から本丸跡に引き返し、
南東に向かいました。

新宿一之門の標識を過ぎると、
六間川にたどり着きました。



六間川の橋の袂に新宿木戸跡の碑がありました。

堤防に続く街路樹と遠くの山の
光景がとても清清しい眺めでした。

六間川を少し遡ったところに田中城の下屋敷があります。
1992年(平成4年)から1996年(平成8年)にかけて
この下屋敷が復元され、田中城に
所縁の建物が移築されています。



冠木門とその向こうに聳える田中城本丸櫓です。

田中城本丸櫓は、上の階と下の階の
幅が同じでのっぺりとした建物です。
本丸の東南隅に建っていた
「御亭(おちん)」という建物だったようです。

本丸櫓の2階に上がると開け放たれた窓から
心地よい風が吹き、汗がすっとひきました。



櫓の2階から眺める藤枝市内の
青空もとても気持ち良かったです。

下屋敷には他にも郷蔵と呼ばれる
飢饉に備えた非常用の蔵や茶室、
仲間部屋が移築されていました。



庭園も復元され、菖蒲が綺麗に咲いていました。




これで田中城の見所は一通り巡ったのですが、
下屋敷から西焼津駅に向かう途中の
旭伝院に田中城の門が移築されている
というので立ち寄ってみました。



明るい日差しの下、ひっそりと佇んでいました。
城内にあった屋敷の門という事です。

旭伝院から西焼津駅に
渡った瀬戸川の流れです。



この瀬戸川の流れもとても爽やかでした。


田中城の後、高天神城に向かいました。
田中城から南西に30km程のところにある山城です。

田中城は、「高天神城を制するものは遠州を制す」
といわれた高天神城の攻略拠点だったのです。


高天神城の登城記はこちらです。

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る