高天神城
Takatenjin Castle, Japan


登城日:
2007. 06. 01









【高天神城 概要】


「高天神を制するものは遠州を制す」
高天神城は、そう言われた要衝のお城です。

掛川から8km程南に下ったお茶畑の広がる
丘陵地に聳える標高132mの鶴翁山の
山頂に築かれた戦国時代の山城です。





城内の案内板によると913年(延喜12年)に
鶴翁山の山頂に宮柱が建てられたところから
高天神城の歴史が始まっているようです。

平安時代末期の1180年(治承4年)源頼朝挙兵に伴い
渭伊隼人直孝が山砦を築き、1191年(建久2年)
土方次郎義政が城砦を築いています。

戦国の時代には今川氏が支配しましたが、
桶狭間の戦いの後、1564年(永禄7年)に徳川方の
城となり、小笠原長忠が城主になっています。


その後、武田信玄・勝頼父子と徳川家康との間で
この高天神城の争奪戦が繰り広げられました。

まずは1571年(元亀2年)3月、武田信玄軍2万5千騎が
攻めかかりますが、固い高天神城の守りを崩せずに撤退。
1574年(天正2年)5月に武田勝頼が高天神城を包囲します。
この時、高天神城は家康からの援軍が得られず、
小笠原長忠は、開城し武田方に屈してしまいます。

高天神城を奪われた家康は、長篠・設楽原の戦いで
勝利すると1580年(天正8年)に高天神城を攻めます。
守将・岡部真幸は10ヶ月に亘る籠城戦を戦いますが
勝頼は援軍を送る事は出来ず、飢餓状態となった
籠城軍は、1581年(天正9年)3月22日、城外に
総攻撃を仕掛け、全滅してしまいます。





高天神城の縄張りは、鶴翁山の二つの峰に別れ、
東の峰に本丸、高天神社のある二の丸と
独立した二つの曲輪が細い尾根で繋がった
一城別郭式と呼ばれる形態になっています。

本丸、二の丸どちらかの曲輪が落とされても
片側の曲輪で、戦える造りになっていたようです。

この高天神城に2007年6月に訪れました。
その時の様子を紹介します。



【高天神城へのアクセス】


JR掛川駅からしずてつジャストラインバス
掛川大東浜岡線のバスに乗車。

入山瀬経由の場合は高天神入口下車、
井崎経由の場合は土方下車です。

運賃は470円。
所要時間は30分程だったと思います。


掛川大東浜岡線の時刻表はこちらです。

掛川駅からのバス路線図はこちらです。






【高天神城登城記】




追手門 〜 本丸
Feb. 10, '08

二の丸〜搦手門
NEW! Feb. 11, '08



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追手門 〜 本丸


田中城を訪れた後、西焼津から
JR東海道線の電車で掛川に向かい、
掛川から静岡鉄道の浜岡営業所行き
バスに乗って高天神城を目指しました。

田中城の様子は
こちらです。

30分程乗車し、土方のバス停で下車しました。
親切な運転手さんに教えてもらった通り、
通りを少し歩き、追手門入り口の大きな看板を曲がると
茶畑の向こうに高天神城の山が見えてきました。



この山城で武田と徳川が凌ぎを削ったと思うと感無量です。
周囲は初夏の日差しが溢れ、のどかなお茶畑が広がり、
血なまぐさい戦国の様子とは程遠い眺めです。

高天神城に向かう途中には家もなく、
周囲に誰もいませんでした。

追手門下の駐車場には数台の車が停まっていました。
この駐車場を過ぎると、追手門跡です。



ここからは急に深い山道となりました。
階段の狭い道を上って行きます。

幾度か坂道を折れ曲がると、着至櫓跡です。



急な山の斜面に広がる平地に草や木が生い茂っています。
ここに昔、櫓が建っていたとはなかなか想像出来ません。

ここから再び山道を登り、二の丸方面への
分かれ道を過ぎると、まもなく三の丸です。



狭い曲輪の中に東屋が建っていました。

曲輪の周囲には土塁で囲まれています。



滑りそうになりながら土塁に上ると、
その向こうは崖になっていて、
足を滑らすと一巻の終わりです。


三の丸から更に急坂を上っていきます。
木漏れ日の降り注ぐ坂道を上ります。



この坂道を上りきると本丸に出ました。



広さは100m×50m程でしょうか。
苔むした高天神城址碑も建っていました。




この本丸の北側には眺望が開け、
お茶畑が見下ろせます。



足元は断崖絶壁で、高天神城の造りが
とても堅牢だという事が判ります。

本丸の一段下がったところには
備前曲輪がありました。



歴史ロマン高天神城という看板が建ちその隣には
小笠原長忠夫妻の写真用パネルが置いてありました。

この備前曲輪からの眺めも雄大でした。
景色を眺めながら佇んでいると、トカゲが
ズボンの裾を這い上がっていました。

備前曲輪には元天神社の祠もありました。


備前曲輪から本丸に戻り、本丸の西側の土塁を
越えて急な斜面を下ると的場曲輪に出ました。



曲輪の北側に「大河内政局石牢道入り口」と
あったので行ってみることにしました。



1574年(天正2年)5月に小笠原長忠が高天神城を開城した際、
軍監・大河内政局は一人城に残り、しかも武田勝頼の
服従命令に逆らい、この石牢に幽閉されてしまいます。

武田方の軍監・横田甚五郎尹松は大河内の
義に感じ、密かに篤くもてなしたそうです。
しかし、大河内政局は高天神城が家康に陥される
1581年(天正9年)までこの狭い石窟に幽閉され続け、
救出された時には、歩行困難だったそうです。

いつ解放されるとも知らぬ状況で、8年間も
耐え忍んだ大河内政局の意思の強さと、
そんな義を貫く家臣をもった徳川軍団の
強さの一端をかいま見た気がしました。


的場曲輪から階段を下りていくと、
本丸と二の丸の二つの峰の間の
鞍部にある鐘曲輪に出ました。



この鐘曲輪の反対側の階段を登ると二の丸、
そして北側に下っていくと搦手門に出ます。

この近くからは、遠州灘を望む事が出来ました。






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二の丸〜搦手門


鐘曲輪は二つの峰の鞍部にあります。
鐘曲輪の本丸の反対側には
鳥居が建ち階段が続いています。



この階段を上ったところが井戸曲輪です。

井戸曲輪には、高天神城の貴重な水の手に
なっていたと思われる、かな井戸や
合戦で命を落とした将兵の慰霊碑があります。



井戸曲輪の正面には高天神社への階段、
右手は二の丸から堂尾曲輪へと続いています。

二の丸へ向かう途中、尾白稲荷大神がありました。



この神社は断崖の縁に建っていて、その向こうの
深い谷の下に搦め手門への道が続いていました。




崖っぷちの道をしばらく歩くとやや広い
平地が現れここが二の丸のようです。



二の丸の先には土塁状の尾根が続き、
ここが堂尾曲輪でした。



堂尾曲輪の下には、本間八郎三郎氏清、
丸尾修理亮義清戦死の碑がありました。



1574年(天正2年)の武田軍攻撃の際に戦死した
二の丸守将・本間氏清とその弟、丸尾義清の
供養碑で、後裔にあたる本間惣兵衛が
1737年(元文2年)に建てたそうです。

この碑から見上げる土塁状の堂尾曲輪は
3m以上の高さがありました。

そして、その堂尾曲輪の北側には堀切があり、
深くV字に切れ込みが入っていました。



堂尾曲輪に沿って、隍(から)堀が走っていました。



敵の侵入を防ぐ防御が固められていたようです。


堂尾曲輪から井戸櫓に戻り、急な階段を
上って高天神社に向かいました。



階段の途中から眺める高天神社の神殿です。



逆光が差込み、神々しさを感じました。

この高天神社は1724年(享保9年)に
東の峰から西の丸跡に遷されたそうです。

神社から西側にある馬場に向かいました。
神社の裏にも深く切れ込んだ堀切がありました。



手摺が付いていても足が滑って転びそうになります。
とても堅牢な造りになっていた事が判ります。

堀切を抜けると高台となり、細長い平地がありました。



ここが馬場です。

南に視界が開け、御前崎や
遠州灘が遥か遠くに見えました。



この馬場の裏手には犬戻り猿戻りの難所がありました。
高天神城は東と南北は断崖で囲われ、
西側だけは尾根となり小笠山へと続いています。

この尾根が高天神城の唯一の弱点なのですが、
足を踏み入れてみると、幅僅か30cm程の
細い尾根が曲がりながら続いています。
尾根の両側は断崖です。



犬や猿も引き返すというこの険しい尾根ですが、
1581年(天正9年)に高天神城が落城した際には
武田方の軍監・横田甚五郎尹松は、1kmも続く
この尾根を伝って馬を走らせ、甲斐に向かったそうです。


馬場から鐘曲輪まで引き返し、
ここから搦手門へと下りました。

先ほど堂尾曲輪に向かった時の断崖を
下から眺めながら坂道を下って行きます。
途中、坂道の傍らに三日月井戸がありました。



1580年(天正8年)からの籠城戦の際に、
武田軍が掘った井戸という事です。
今でも岩肌から水が染み出ていました。

そして、坂道を下りきり、深い谷の
底に搦手門址の碑がありました。



追手門に比べると、この搦手門側は
比較的アプローチが容易な感じがしました。
当時は厳重な警戒が敷かれていた事でしょう。

搦手門の先に建つ高天神城址の碑。



そして、振り返って見上げた高天神城址です。



中央やや左が東の峰、右手の
低い部分が鐘曲輪辺りです。

かなり歩いて足も重くなってきたのですが、
鶯の鳴き声が聞こえ、爽やかな風が渡り、
清清しい気持ちになりました。

ここからのどかな景色の中を歩いて
土方のバス停に向かいました。



爽やかな青空や道端に咲いた野花が綺麗でした。

途中で、東京女子医大の創立者、
吉岡弥生生誕の地の案内板を見つけ、
また土方バス停近くには、高天神城の戦いで
命を落とした武将達を葬った千人塚もありました。



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