深沢城は、御殿場市街の東にある古城です。
現地の案内板によると、駿河の今川氏が
その後、北条氏のお城となりますが、
1584年(天正12年)に徳川家康が豊臣秀吉と
深沢城の縄張は、北から本丸、二の丸、三の丸が
そして城の東西を流れる挟川と馬伏川が
深沢城には2011年12月に登城しています。
JR御殿場線御殿場駅から富士急モビリティバス、
2011年12月26日、この日は三島駅前のホテルを朝一に出て
そして御殿場駅からバスに乗り、杉原の
杉原のバス停から深沢城までは約1.5kmの道のり。
深沢城の入口には案内板がありました。
そこから城址へと分け入っていきます。
上の右の写真の更に右手には馬出跡がありました。
その馬出にあった詩碑です。
この馬出の西側には三の丸があります。
三の丸の先にあった下馬溜です。
下馬溜から更に奥に向かいました。
この通路は二の丸の西側を通っています。
二鶴様式の堀というのが、どういうものか
この先で、深沢城を挟むように流れる
こちらが二の丸です。
二の丸の先で少し低い位置にある本丸です。
畦道を歩いて、本丸の西の端に行ってみました。
そして、本丸からは富士山も綺麗に見えていました。
深沢城で最も北にある本丸で引き返し、
この堀跡も三日月堀の跡という事です。
深沢城の散策を終え、南に約1.3km程の
その途中、西側には富士山が聳え、東側には
上右の箱根外輪山は、足柄峠付近と思います。
この日は朝から標高差429mの山道を往復し、
深沢城から15分ちょっと歩くと小さな
大雲院の山門は深沢城の大手門を移築したものでした。
大雲院の謂れは分りませんが、立派なお寺でした。
Ruins of Furumiya Castle, Japan
登城日:
2011. 12. 26
【深沢城 概要】
今川、後北条、武田の三氏による
争奪戦の舞台になったお城です。
16世紀半ばに築城したようです。
1570年(元亀元年)に武田信玄が開城を迫り、
以降、武田氏が支配していました。
戦った小牧長久手の戦の際、北条氏への抑えの
城となり、それを最後に廃城となったようです。
連なり各曲輪の入口に馬出が設けられています。
馬出は、武田氏特有の構造と言われていますので、
武田氏時代に改修されたのでしょう。
天然の堀の役割を果たす要害になっています。
その際の様子を紹介します。
駿河小山線・富士霊園線で清後バス停下車。
深沢城までは約1.3km、徒歩15分程です。
御殿場線の足柄駅から山道を一時間半かけ足柄峠に登り、
峠にある足柄城を訪れ、その後御殿場駅まで戻ってきました。
足柄峠の様子はこちらです。
足柄城の登城記はこちらです。
バス停で下車し、深沢城を目指しました。
長閑な田園風景が続きますが、そこには
富士山が聳えていました。
撮影: 2011年12月
撮影: 2011年12月
城内に入ると、三日月堀がありました。
撮影: 2011年12月
深沢城には各曲輪の入口に馬出が設けられていたようで、
その馬出の周囲に三日月状の堀があったようです。
撮影: 2011年12月
撮影: 2011年12月
30m四方程度の空き地が広がっていました。
三の丸には八幡宮の小さな祠もありました。
撮影: 2011年12月
ここも馬出だったと考えられています。
撮影: 2011年12月
二の丸へとの標識も立っていました。
撮影: 2011年12月
通路には二鶴様式の堀という案内がありました。
撮影: 2011年12月
案内板にはなく、詳細は分りませんでした。
馬伏川の流れが雑木林の向こうに見えました。
撮影: 2011年12月
深沢城の曲輪の中で二の丸が最も面積が広く、
こちらが主郭だったという説もあるようです。
撮影: 2011年12月
深沢城の主な曲輪は耕地になっており、
この本丸跡も田圃になっていました。
撮影: 2011年12月
本丸の西の端からの眺めは素晴らしく、
蛇行する馬伏川が一望出来ました。
撮影: 2011年12月
今川、北条そして武田の勢力の境目にあった深沢城において
この富士山をのんびり眺める余裕はなかったのかも知れません。
南端の城の入口に戻りました。
入口の少し手前で西側を走る道に出て、
その先の堀跡を見に行きました。
撮影: 2011年12月
所にある大雲院というお寺に向かいました。
箱根外輪山の山々が連なっていました。
撮影: 2011年12月
深沢城へも1.5km程の道を歩いた後だったので、
脚にかなりの疲れが出ていましたが、
この景色を眺め気力を振り絞っていました。
足柄峠の様子はこちらです。
集落にある大雲院に辿り着きました。
撮影: 2011年12月
関東大震災で倒壊したものを1950年(昭和25年)に
復元したものだそうです。
撮影: 2011年12月