石橋城
Ruins of Ishibashi Castle, Japan

登城日:
2011. 12. 18

【石橋城 概要】

石橋城は、二代亀山城主だった奥平貞久の
次男・奥平久勝が初代城主となったお城です。
奥平久勝は、石橋の姓を名乗ります。

亀山城の登城記はこちらです。

石橋城は、亀山城の西南すぐ近くの所にあります。

石橋久勝は、第三代城主の奥平貞昌の家臣となりますが、
久勝の子、繁昌は第四代城主の貞勝への謀反が露見し、
1537年(天文6年)に滅ぼされたそうです。


石橋城は方形館城だったようです。
石橋繁昌が滅ぼされた後に、慈昌院となっています。

石橋城には2011年12月に登城しています。
その際の様子を紹介します。

【石橋城へのアクセス】

JR飯田線新城駅から新城Sバス作手線で、
つくで手作り村下車。石橋城まではすぐです。

新城Sバス作手線のダイヤはこちらです。

飯田線の乗車記はこちらです。

【石橋城登城記】

2011年12月、亀山城を訪れ後、
石橋城に向かいました。

亀山城の登城記はこちらです。

道の駅の西側を国道が通っています。
その向こうの慈昌院が石橋城址です。


撮影: 2011年12月

慈昌院は、石橋繁昌とその一族の死を哀れんだ
徳岩明和尚が、亀山城主の奥平貞勝に願い出て
建立したお寺とのことです。

慈昌院の門構えです。


撮影: 2011年12月

国道から一段高い所にある慈昌院は、土塁に囲われ、
門の周囲の佇まいも、如何にも城跡といった趣でした。

門を抜け、本堂の方に回ってみました。


撮影: 2011年12月

本堂の裏手には、土塁が取り囲んでいます。


撮影: 2011年12月

この土塁も立派なもので、地方の一豪族の
領主の傍系のお屋敷でもこうして土塁で
防御を固めていたのか、と思います。

その土塁に、いくつもお墓が並んでいました。
謀反の疑いを掛けられ石橋繁昌が滅ぼされた際、
一族郎党40名程が命を落としたとされています。


撮影: 2011年12月

遺骸は穴に埋められ、そこに祠があるとのことですが、
土塁の上の祠がそれにあたるのでしょうか。


撮影: 2011年12月

寺の南側の様子です。
のどかな山奥の石橋城です。

中世にはこのような土地でさえ、
親族間で血で血を洗う争いがあったと思うと、
恐ろしい時代だったと思い知らされました。

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