亀山城
Ruins of Kameyama Castle, Japan

登城日:
2011. 12. 18

【亀山城 概要】

亀山城のある作手の地(現在の新城市西北部)は
戦国時代には奥平氏が治める地でした。
作手は標高500m程の高原で、古代には湖があり、
それが干上がって山の中に平地が出来た
との言い伝えもあるそうです。

1424年(応永31年)に奥平貞俊が亀山城を築城し、
川尻城から本拠地をここに移しています。

川尻城の登城記はこちらです。

奥平貞俊以降、5代がこの亀山城を拠点として
いましたが、奥平貞能・信昌父子の代となる
1571年(元亀2年)に、武田信玄が勢力を伸ばし、
亀山城の北、1km程の所に古宮城を築きます。

古宮城の登城記はこちらです。

奥平氏も一旦は武田氏に付きますが、家康は長女
亀姫を1573年(元亀4年)に信昌に嫁がせます。
これによって奥平氏は家康方に付き、その年、
奥平軍と武田軍は戦を交えます。

武田氏から徳川氏に離反した際、奥平信昌は、
武田方に人質に預けていた子・仙千代らが
処刑されています。

詳しくは、鳳来寺のページをご参照願います。
鳳来寺の散策記はこちらです。

この戦で武田方を敗走させた奥平信昌の功を
織田信長に認められ、長篠城城主となりました。
この年、長篠・設楽原の戦が起き、長篠城を守り抜いた
奥平信昌は、さらに武功を挙げることになります。

長篠・設楽原古戦場の散策記はこちらです。
長篠城の登城記はこちらです。

武運の開けた奥平氏は、その後美濃加納で10万石を拝領し、
宇都宮藩主を経て、豊前・中津藩主となり明治まで続きます。

中津城の登城記はこちらです。

1602年(慶長7年)に、奥平信昌の第四子・松平忠明が
作手藩1万7千石の藩主として、亀山城に入城します。
1610年(慶長15年)、松平忠明が伊勢の亀山に移封と
なると、その5年後に廃城となったそうです。


亀山城は小高い丘陵地に築かれ、その頂付近に
本丸と二の丸が連なった形で配置されています。

亀山城には2011年12月に登城しています。
その際の様子を紹介します。

【亀山城へのアクセス】

JR飯田線新城駅から新城Sバス作手線で、
つくで手作り村下車。亀山城まではすぐです。

新城Sバス作手線のダイヤはこちらです。

飯田線の乗車記はこちらです。

【亀山城登城記】

2011年12月、亀山城を訪れました。
亀山城へはバスでも、自家用車でも道の駅
「つくで手作り村」が出発点になります。

道の駅の北にある丘陵地が亀山城跡で、国道の
一本東にある小川沿いの小路を歩いていくと
丘陵地に「亀山城」の看板も見えてきました。


撮影: 2011年12月

亀山城は、いい具合に木が切られ、曲輪の様子が
離れた道沿いからも判るようになっています。
当時の城の様子を彷彿とした姿です。

亀山城へは、城址の北西側からアプローチしました。


撮影: 2011年12月

雑木林の中、丘陵地を上っていくと、
城址の東側を彷徨っていたようです。

熊笹の生い茂る少し平たい地形が現れました。
ここは東曲輪の跡のようです。


撮影: 2011年12月

この先に、大手址がありました。


撮影: 2011年12月

現在の亀山城は、本丸の北西側の木々が切り払われ、
国道からも、その姿を眺めることが出来ます。
一方、南東側は開けていませんが、当時は
その東南側が大手口だったのは意外でした。

大手址も、周囲は熊笹に覆われ、
ひっそりとしていました。

上の写真、大手址の向こうの土塁は本丸です。
登城道は、大手址で左右に分かれていました。


撮影: 2011年12月

左手の道は、空堀の底を通り、
本丸西側の西曲輪へと繋がっています。

右手の道は、二の丸へと繋がっています。
右手の道を歩き、二の丸へ向かいました。


撮影: 2011年12月

二の丸は本丸の北東側に位置しています。
本丸よりも一段低い曲輪で、思いがけず起伏がありました。
曲輪の中央部に、一段低い腰曲輪への虎口がありました。


撮影: 2011年12月

上の写真が、その虎口から腰曲輪に入った所の様子です。
亀山城の北西側の切岸が、急角度で落ち込んでいます。

二の丸を抜け、本丸への虎口を通りました。


撮影: 2011年12月

階段を上った先が本丸です。
本丸には東屋もありました。


撮影: 2011年12月

広さは50m×20m程でしょうか。
亀山城の城址碑もあります。


撮影: 2011年12月

木々も切られ、展望がよく効いています。


撮影: 2011年12月

本丸が剥き出しになっていますが、
急な切岸が護りになっていたのでしょうか。
周囲の水田は、当時は深田だったのかもしれません。

本丸の周囲は土塁で囲われていました。


撮影: 2011年12月

今は崩れてしまっていますが、当時は
どの程度の高さがあったのでしょうか?

本丸西側の虎口からの西曲輪の眺めです。


撮影: 2011年12月

西曲輪に入り、振り返って本丸虎口を眺めました。


撮影: 2011年12月

コンパクトな虎口ですが、護りの固い
当時の門の様子が思い浮かびます。

西曲輪の先は、丘陵地の端となり、
雑木林の中に下り坂が続いています。


撮影: 2011年12月

この先には、腰曲輪もあったようです。

西曲輪の北東側には、空堀が伸びています。


撮影: 2011年12月

この空堀が、大手址へと繋がっています。
この日は寒い日でしたが、雪も舞って来ました。

雲が流れ碑が差し込んで来て、
先ほど訪れた時とは随分印象が異なります。

動画も採りました。
風も強く、ひっそりと佇む古城の雰囲気を
味わう事が出来るかと思います。

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