長篠城は「長篠・設楽原の戦い」でよく知られるお城です。
長篠城は、愛知県東三河地方の山間部にあり、
多くの街道が集まるこの長篠の地は要衝で、
長篠城は、1508年(永正5年)に今川氏親の
長篠城の縄張り図を見ると、寒狭川と宇連川の
寒狭川と宇連川に面して、50m程の高さの
しかし北西には平坦地、北東には小高い丘があり
この防御を固める為に3段の土塁と空堀を
長篠城は、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで
城主・菅沼貞景は桶狭間の戦いで
その後、武田信玄が三河に侵攻するようになり、
この時、城主・菅沼正貞は徳川への内応の疑いで捕らえられ、
この長篠城を巡る変遷はまさに戦国の
そして、1575年(天正3年)武田勝頼は
「長篠・設楽原の戦い」の開戦です。
この長篠城には何度も訪れた事があるのですが、
JR飯田線長篠城駅から南西に徒歩約10分です。
長篠城の登城記を本丸から紹介しましょう。
ここが本丸の入り口になります。
ここを過ぎると本丸跡の空き地が広がってるのですが、
この土塁は高さも4〜5m程もあり、幅も広く、
この土塁の上に「長篠城址碑」が立っていました。
ここからは本丸がよく見下ろせます。
この反対側は堀になっています。
この長篠城本丸北側の土塁は東西に延びています。
1575年(天正3年)の長篠城の攻防戦では
長篠城は目と鼻の先の敵から
東に向かうと、以前は神社がありました。
土塁から本丸へ降りてみました。
学校の校庭の様な空き地が広がっていました。
縄張り図を見ると、この線路の
そして、線路際から眺めた長篠城の本丸跡です。
1575年(天正3年)5月8日、武田勝頼がこの長篠城を
奥平貞昌、21歳。
1万5千の武田軍に包囲された長篠城は
その時、奥平貞昌は家康に援軍を請うべく、
長篠城を取り囲んでいる武田軍の包囲網をかいくぐり、
5月15日、丁度この日、織田信長も岡崎城に到着し、
この朗報を長篠城に立て籠もっている城兵に伝えようと、
武田勝頼は城兵の士気が昂まるのを恐れ、
これを承諾し、長篠城の南を流れる寒狭川の
この言葉を聞き、湧き上がる城兵たち。
鳥居強右衛門が城兵を勇気付け、そして
武田氏の家臣・落合左平次は、強右衛門の
これがその絵です。
髪の毛が逆立ち、キッと前を向いた鳥居強右衛門。
彼の勇気と忠義溢れる行動で長篠城は持ち堪え、
長篠城を一通り見終わった後、絶壁の下を流れる
とても深く切れ込んだ崖の下を川が流れています。
鳥居強右衛門が磔にされた
長篠城本丸の外側を囲んでいたのが
二ノ丸跡には長篠城保存館が建っています。
保存館前から本丸方向を眺めた様子です。
二ノ丸は帯郭とも呼ばれ、細長い曲輪だったようです。
この低湿地が当時は矢沢の
今もその名残の用水路がありました。
田圃の反対側の道に向かうと、
長篠城の二ノ丸の更に外側の曲輪が
矢沢を挟んで東側が巴城郭、
長篠城保存館の左手には駐車場があり、
この花壇の所に巴城郭跡の碑がありました。
糧庫跡の碑が立っています。
背後に見える杜は大通寺です。
その角から西に向かったところには
ここに家老屋敷の碑がありました。
巴城郭と家老屋敷の北側から
今の国道151号線が走る辺りが
国道151号線から長篠城本丸を眺めた様子です。
長篠城は規模も小さく、周囲より低い位置に
長篠城が簡単に落城していたら、
そして奥平貞昌のこの時の武功は、三河の山間の
長篠城の大手門は国道151号線の北側、
正確な位置は判りませんが、多分
Google mapには表示されていませんが、
この辺りも長篠・設楽原の戦いの激戦区で、
1776年(安永5年)にこの碑は建てられました。
長篠城
Nagashino Castle, Japan
登城日:
Latest 2005. 05. 05, 2006. 01. 23, 2011. 5.14
寒狭川と宇連川とが合流する地点に築かれています。
武田と徳川の間で争奪戦が繰り広げられてきました。
属将・菅沼元成によってが築かれました。
合流部のギリギリの所に本丸があり、
二ノ丸や巴城郭などが同心円状に囲む
梯郭式になっています。
断崖絶壁になっていてここからの
攻撃はまず不可能です。
この方面の防御は甘くなっています。
短い間隔で並べて護りを固めていたようです。
今川義元が織田信長に討ち取られると、今川と
徳川の境目となり、重要性が増しました。
今川を見限り、徳川家康に従います。
1571年(元亀2年)には武田方に攻め落とされるのですが、
1573年(天正元年)に武田信玄が野田城攻めの後にその生涯を
閉じると、家康は長篠城をすぐさま奪還してしまいます。
武田方に付いていた奥平貞能、貞昌(後の信昌)父子は
家康の下に逃れ、その後家康は、奥平貞能を
長篠城の城代としています。
馬の生き目を抜くような凄まじさがあります。
武田軍1万5千の兵を率い、徳川家康を
叩くべく長篠城を包囲します。
2007年1月末に、野田城を訪れた後、
設楽が原古戦場と合わせて訪れました。
野田城の様子はこちらです。
設楽原古戦場の様子はこちらです。
【長篠城へのアクセス】
飯田線の乗車記はこちらです。
【長篠城登城記】
長篠城保存館の先に道が狭く
なっている所があります。
撮影: 2011年5月
左手には本丸と帯郭の間の堀が残っています。
撮影: 2011年5月
左手に大きな土塁跡が残っています。
撮影: 2007年1月
物見台か櫓でも載っていた様な感じがします。
撮影: 2011年5月
下の写真は、広々とした本丸跡です。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
土塁からは北側に大通寺の杜も見えていました。
撮影: 2011年5月
大通寺には武田軍の陣地が敷かれました。
攻撃を受けたことがわかります。
撮影: 2011年5月
撮影: 2007年1月
本丸の東側はJR飯田線が走っています。
撮影: 2007年1月
向こう側が野牛曲輪と思います。
飯田線の乗車記はこちらです。
撮影: 2007年1月
取り囲んだ時、城内には奥平貞昌をはじめ
僅か500の守備兵しかいなかったそうです。
武田を裏切って徳川を頼った奥平貞昌は
ここで武田軍と戦うしかありません。
野牛曲輪や本丸、そして3重の堀が築かれた
帯曲輪と攻め立てられ、14日には武田軍の
猛攻の前に落城寸前になってしまいます。
鳥居強右衛門という雑兵を岡崎城にいる
家康の下へと向かわせます。
鳥居強右衛門は岡崎城までの50kmの山道を
一日で駆け抜け、家康に言上します。
織田・徳川連合軍3万8千の兵力は翌16日、
長篠を目指して進軍を開始します。
鳥居強右衛門は16日早朝、長篠城へ引き返しますが、
敢え無く武田軍に捕まってしまいました。
命と引き換えに「援軍は来ない」事を城兵に
伝えるように鳥居強右衛門に命じます。
河原に引き出された鳥居強右衛門は
「援軍は来るぞ!」と叫びます。
しかし、命を賭して勝頼の命令に背いた
鳥居強右衛門は、見せしめの為に、
逆さ磔にされてしまったのでした。
磔にされたのは、丁度この対岸だったようです
撮影: 2007年1月
命を賭しての忠義に感動し、磔にされている
強右衛門の姿を旗指物に使ったそうです。
撮影: 2007年1月
現地では、鳥居強右衛門は頭を上に磔にされて
いるように描かれていますが、逆さ磔にされた
そうなので、この向きが正しいかと思います。
織田・徳川連合軍接近の知らせを受けた
武田勝頼は長篠城の包囲を解き、
設楽原での合戦に向かったのでした。
寒狭川の河原まで、降りて行ってみました。
撮影: 2007年1月
寒狭川の対岸には碑が立っています。
長篠城を訪れた後、そこにも行ってみました。
二の丸・弾正郭
二ノ丸と弾正郭になります。
矢沢という細い川を挟んで東側が
二ノ丸、西側が弾正郭です。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
保存館の西側には田圃が広がっています。
撮影: 2011年5月
流れる堀だったと思います。
撮影: 2011年5月
思いがけず石垣が残っていました。
撮影: 2011年5月
巴城郭・家老屋敷
巴城郭と家老屋敷になります。
西側が家老屋敷です。
その東側は花壇が整備されています。
撮影: 2011年5月
駐車場を出たところの交差点です。
撮影: 2011年5月
家老屋敷や二ノ丸の案内板もありますが、
ここが二ノ丸とすると、駐車場脇の
巴城郭の碑のとは矛盾するように思います。
当時、武田軍が布陣したところで、
距離も近く、すぐ見下ろせる場所まで
相手が迫っていた事になります。
立派な家が建っています。
撮影: 2011年5月
囲んでいたのが大手郭です。
大手郭になります。
撮影: 2011年5月
本丸は低い位置にあり、小諸城と同じ
穴城の構造だった事がよく判ります。
本丸があり、守りには強いとは言えません。
奥平貞昌はよく守勢僅か500程の人数で、
1万5千もの武田軍に包囲されながら、
一週間以上にわたり、耐え凌いだものと思います。
武田軍は岡崎を強襲していた可能性が高く、
そうなると日本史は大きく変わっていた事でしょう。
小豪族に過ぎなかった奥平氏の将来も大きく変え、
奥平氏は、豊前国中津藩10万石大名となりました。
長篠城の本丸からはやや西側に位置しています。
上の地図の矢印の辺りと思います。
大手門の辺りを西側から眺めた様子です。
撮影: 2011年5月
以前、この辺りには蟻塚がありました。
撮影: 2011年5月
多くの人が命を落としたようです。
その後、蟻の大群が出て村人を困らせた
ので、塚を作って供養したそうです。