歴史
岡崎城の歴史は、1452年(享徳元年)から
1455年(康正元年)にかけて、三河守護代だった
西郷弾正左衛門頼嗣(よりつぐ)が築いた砦に始まるそうです。
この時の城郭は、現在の本丸程度だったそうです。
その後、1531年(享禄4年)に家康の
祖父・松平清康が支配するようになり、
現在の二の丸から三の丸にかけて
城郭を広げたそうです。
1549年(天文18年)に松平広忠(家康の父)の死により
今川氏の支配下に置かれてしまいます。
1560年(永禄3年)に桶狭間の合戦で今川義元が
織田信長に討たれると家康はこの岡崎城に戻り、
やがて三河統一を成し遂げました。
その後、家康は岡崎城を本拠に勢力を伸ばします。
1570年(元亀元年)に家康は本拠を浜松城に移し、
家康の嫡男・信康が岡崎城主となります。
信康は岡崎信康を名乗り、
信長の娘・徳姫を娶ります。
しかし、その徳姫の讒言により、
二俣城で自刃してしまいます。
信康が自刃した二俣城の様子はこちらです。
信康が祀られている二俣・瀞龍寺はこちらで紹介しています。
その後、石川数正、本多重次が城代になりますが、
1590年(天正18年)の、家康の関東移封に伴い、
秀吉の家臣・田中吉政が城主となりました。
田中吉政は1592年(文禄元年)に天守の建築や
城郭の拡張・整備を行い、総構と呼ばれる
城下町をも囲む4.7kmもの総堀を巡らせたそうです。
往時の岡崎城の基盤はこの時に
築かれたそうです。
江戸時代に入ると、譜代の重臣・本多康重が城主となり、
以来、譜代大名が岡崎城主を勤めたそうです。
1617年(元和3年)、時の城主・本多康紀の時に
天守の再建や井戸櫓や付櫓を築いたそうです。
城郭
岡崎城は龍頭山という小高い
丘に築かれた、平山城です。
本丸がお城の西南部にあり、二の丸、
三の丸が北東の方向に繋がる梯郭式のお城です。
本丸やその周囲に位置している持仏堂曲輪や
風呂谷曲輪は、城郭が不規則な形をしており
築城年が古い年代である事を示しています。
郭の形も不規則で、曲輪の周囲も
土塁が主に使われていたようです。
家康の関東移封後に城主となった田中吉保は、
豊臣の威光を示すため、天守を築き、
二の丸や三の丸といった広い曲輪を造り、
人目につく場所に石垣を築いたようです。
"岡崎城"のTopに戻る
本丸
岡崎城の本丸は、城郭の南西部の
小高い丘の上にあります。
二の丸から狭く曲がりくねった
持仏堂曲輪を抜けると、
左手に模擬復元された辰巳櫓が見えてきます。
現在は単層の櫓が建っていますが、
当時は二重の櫓だったようです。
当時はこのあたりには枡形の立派な
本丸御門があったようです。
今ではその面影もありませんが、
傍らに芭蕉の句碑が立っていました。
木のもとに汁も
鱠(なます)も左久良哉
1690年(元禄3年)に伊賀での句そうですが、
何故その句碑が岡崎にあるのはわかりません。
通路を隔てた反対側には「アラモの碑」がありました。
岡崎出身の地理学者・志賀重昂氏が建立したものです。
テキサス独立戦争の際、アラモの砦から
援軍を求め友軍の元に駆け参じた青年・ボナムと
長篠・設楽が原の戦いで、孤立する長篠城から
脱出し、岡崎城の家康に援軍を頼んだ
鳥居強右衛門が共に強い使命感に駆られた
命がけの行為だったことに感銘し、
アラモの砦のある、アメリカ・サンアントニオと、
この岡崎に碑を建てたそうです。
サンアントニオの様子はこちらです。
鳥居強右衛門ゆかりの
長篠・設楽が原の戦いの様子はこちらです。
この小さな碑を抜けると岡崎城の本丸に至ります。
本丸はこじんまりとした規模で、決して広くはありません。
本丸の北側には龍城神社が建っています。
岡崎城の別名は龍城といい、西郷弾正左衛門頼嗣が
築城した際に龍神が現れたことから名付けられています。
龍城神社はこの龍神を祀った神社ということです。
秋の青空を駆ける神馬の像です。
本丸の南側には風呂谷曲輪へと下っていく
石段が続いていました。
当時はここには本丸二階門が建ち、
多聞櫓が門に続いていたようです。
龍城神社の左隣に岡崎城の復元天守が建っています。
1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート製での復元です。
三重三階の旧式望楼型の天守で、黒い板塀が印象的です。
外観はほぼ当時のまま復元されていますが、
最上階に当時はなかった高欄が設けられています。
天守と付櫓と井戸櫓も合わせて復元されています。
本丸には松が何本も生い茂り、
天守の姿をなかなかすっきりと見せてはくれません。
天守の下には東照公遺訓碑が建っていました。
"人の一生は重き重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば 困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え
勝つことばかり知り 負くる事を知らざれば 害その身に至る
己れを責めて人を責むるな 及ばざるは過ぎたるに勝れリ"
今、読み返してみると心に響く言葉が並んでいます。
天守台の石垣です。
天守は田中吉政の時代に築かれ、1617年(元和3年)に
本多康紀によって再建されているようです。
天守台の石垣は野面積みのようで、
形の整っていない石を積み上げた様子は
比較的古い時代の石の積み方と思います。
博物館になっている天守を上り、
最上階から岡崎の街を眺めてみました。
井戸櫓から龍城神社そして
辰巳櫓の屋根が続いています。
何度も見た景色ですが、
いつ見ても心に沁みる景色です。
こちらは北側の眺めです。
小さくて判りづらいのですが赤い矢印のあたりに、
松平家の菩提寺・大樹寺の甍が見えてます。
岡崎城の天守は狭い天守ですが当時は
天守と天守付け櫓を含め4つの櫓、
そして3つの門が建つ堅牢な構えだったようです。
天守閣からは本丸の南を流れる乙川も見えています。
夕暮れ、その乙川から天守閣を眺めると
夕焼けの空に天守閣がシルエットになっていました。
"岡崎城"のTopに戻る
持仏堂曲輪
持仏堂曲輪は、本丸の北側にあり、
二の丸との間の細長い曲輪です。
不整形の本丸やこの細長く小さな持仏堂曲輪は
岡崎城の初期、西郷頼嗣が築城した際か、
松平氏が岡崎城を拡張した際に
築かれたものではないかと思います。
本丸北側、「アラモの碑」の前を通り、
外門の虎口を抜けると、持仏堂曲輪です。
上の写真は虎口を出て、土橋を渡って
本丸を振り返って撮った写真です。
外門の虎口には石垣も残っていました。
右手には辰巳櫓と龍城堀が見えていました。
左の写真は2007年12月、
右は2008年3月に撮ったものです。
持仏堂曲輪は外門を出ると左にカーブしている
堀と石垣で挟まれた細長い曲輪です。
その堀の様子です。
木が生い茂り、石垣の様子が
あまり良く見えません。
狭い持仏堂曲輪の北に続く
石垣にある武者走りです。
この武者走りの奥に持仏堂曲輪と
二の丸との間の青海堀があります。
やがて木々の間から
天守閣が見えてきました。
二の丸から本丸へ攻め込む敵は
この狭い持仏堂曲輪で行動速度が抑えられ
しかも天守から横矢をかけられる事になります。
この防御が持仏堂曲輪の役割だったのでしょうか。
江戸当時には、天守の脇にある井戸櫓と
持仏堂曲輪の間には廊下橋が
架けられていたそうです。
こ廊下橋は、戦の時には切り落とされ、
防御が固められたものと思います。
当時は天守の北側に幾つか建物があったようですが
今では松が何本か生えている空き地で、
右に折れると二の丸へと続いています。
"岡崎城"のTopに戻る
二の丸
持仏堂曲輪から太鼓門跡の
石垣を抜け、二の丸に入ります。
この写真は、二の丸から
持仏堂曲輪を眺めたものです。
二の丸は正方形に近い形の曲輪です。
不整形の本丸や持仏堂曲輪とは
異なり近世城郭の造りに近く
1592年(文禄元年)に、田中吉政が
大規模な拡張整備した際に二の丸の
形が整えられたのではないでしょうか。
二の丸の西の端には能楽堂が建てられています。
江戸時代の復元ではないようですが、
当時の雰囲気は伝わってきます。
この能楽堂では、能の他にも
毎年GWに将棋まつりの会場となり、
トップ棋士同士の対局が楽しめます。
江戸時代には二の丸には
藩主の御殿があったそうです。
今の二の丸は公園化され、北西の角には
「三河武士のやかた家康館」という
ちょっとした資料館が建っています。
また花時計やからくり時計塔などがあります。
上の写真は、「三河武士のやかた家康館」の前で
行われているグレート家康公「葵」武将隊の演武です。
その家康館の近くに本多忠勝の像がありました。
本多平八郎忠勝は家康の重臣で、
酒井忠次、井伊直政や榊原康政とともに、
徳川四天王の一人とされています。
1548年(天文17年)に岡崎に生まれ、
僅か13歳の時に桶狭間の戦いで初陣を果たし
以降、生涯において57回もの合戦に参加しています。
合戦ではかすり傷ひとつ負わず、
猛者として知られているようで、
信長も「花実兼備の勇士」と称えたそうです。
関が原の戦いでは西軍の切り崩しを図り、
戦場での東軍勝利に結びつけた活躍があったそうです。
家康が天下を握った後は安房の大喜多藩主、
桑名藩主を務め、1610年に亡くなっています。
二の丸の東側、花時計の近くには
徳川家康の銅像がありました。
口ひげを生やした壮年から
晩年にかけての家康でしょうか。
丁度、関が原の戦いの頃の様子かも知れません。
家康の銅像は岡崎城の他にも、浜松城、
駿府城、江戸東京博物館にもあります。
浜松城の様子はこちらです。
駿府城の様子はこちらです。
江戸東京博物館の様子はこちらです。
そして、二の丸の東北門には
通称"大手門"があります。
本来の大手門は、北東約300mのところにあり、
この門は全く史実に基づいていません。
案内の石碑には"岡崎公園の表門にふさわしい"
と書かれていますが、全国各地で史実に基づいた
城郭建築の復元を行っている地方自治体が多い中、
このような門を造ってしまった事に恥ずかしさを覚えます。
さすがに岡崎市も"大手門"という名前を
当時このあたりにあった七間門と
改称することを考えているようです。
2007年末には、この二の丸の一角に
石組み井戸が発掘されました。
江戸時代の藩主御殿の井戸跡です。
岡崎市も愚行を重ねる事なく、当時の
遺構を是非残してもらいたいものです。
"岡崎城"のTopに戻る
板谷曲輪
岡崎城本丸の西側、両側を
石垣に挟まれた狭い虎口を出て、
本丸の土塁を下ると板谷曲輪です。
土塁を下ったあたりに、岡崎城で誕生した
家康の胞衣を埋めた「えな塚」や
産湯井戸が残っています。
「えな塚」はもともとお城の南側に
あったものをこの場に移したという事です。
さすがに神君・家康の生誕に
かかわる塚だけのことはあり、
とても立派な石塔が建てられていました。
そして、こちらは産湯井戸です。
家康が誕生したのは1542年
(天文11年12月26日)という事です。
当時は松平氏の勢力は弱く、東の今川氏、
西の織田氏の間に挟めれ、緊迫した状況で、
松平氏の家督を継ぐ家康の誕生は
この三河の人々に希望を与えたのでしょうか?
松平氏発祥の地、松平郷には家康に
産湯を届けたという井戸もあります。
松平郷の様子はこちらです。
秋のある日、伊賀川沿いの
紅葉の様子です。
板谷曲輪は岡崎城の西の守りで、
当時は、板谷曲輪の西側に
伊賀川が流れていたようですが、
1912年(明治45年)から1915年(大正4年)に
かけての改修工事で伊賀川の流れは、
当時の板谷曲輪を流れる様になってしまいました。
板谷曲輪を流れる伊賀川の様子です。
夏の花火大会では、いつも
この川原で花火を見ています。
岡崎の花火の様子はこちらです。
この改修工事で当時の板谷曲輪の遺構は
あまり残っていないものと思いますが、
川原に低い石垣を見つけました。
当時からのものでしょうか。
岡崎市の「史跡岡崎城跡整備基本計画」によると、
当時あった板谷門に続く馬出のモニュメントや
遺構の案内板の設置も予定されているようです。
そして、伊賀川から眺めた天守の様子です。
松に遮られて天守の姿は
なかなか見えないのです。
伊賀川沿いの桜並木の様子はこちらです。
"岡崎城"のTopに戻る
風呂谷曲輪
岡崎城の本丸の南の端から本丸下にある
お堀に向けて降りていく階段があります。
この階段を下りたところ、
本丸と龍城堀との間の
細長い帯郭が風呂谷曲輪でした。
今では公園となっている岡崎城址の遊歩道が
龍城堀と本丸の間にあるだけです。
風呂谷曲輪に残る本丸の石垣。
本丸やこの風呂谷曲輪は、西郷弾正左衛門頼嗣や
その後、松平氏が支配していた頃に築かれた
中世城郭なので、縄張りも不規則で
石垣も低く、不規則な形状の
石が使われた野面積みです。
ちなみに上の写真の赤い神橋は
当時はなかったものです。
その赤い橋の上から望む
龍城堀(内堀)の様子です。
この写真を撮った晩秋の夕暮れには
彩のない静まりかえった雰囲気でしたが、
春には桜が咲き、多くの人で賑わいます。
桜の時期の岡崎城はとても綺麗です。
神橋を渡り、東に向かって、
お堀端から振り返って撮った写真です。
白鳥のペアが近づいてきました。
暮れなずむ秋の夕暮れに
寄り添う白鳥の姿は心和むものでした。
龍城堀の東側から眺めた辰巳櫓です。
二段石垣の上に聳える辰巳櫓の
様子は絵になるものでした。
ここから東へ向かうと
菅生曲輪へと繋がっています。
"岡崎城"のTopに戻る
菅生曲輪
二の丸から石垣の間に作られた石段を
下って行くと、広々とした空き地に出ます。
この石垣は隠居曲輪へと続いています。
その石垣の袂に桜が咲いていました。
二の丸から石段をくだったところの
空き地が菅生曲輪です。
辰巳櫓からの坂道を下ると、
上の写真左端あたりに出ます。
この菅生曲輪は本丸や二の丸よりも
一段低い位置にあり、往時はここに、
家臣らの屋敷が建ち並んでいたようです。
菅生曲輪の南の端には、
NHK朝の連続ドラマ「純情きらり」で
有森源一郎役を演じた三浦友和さんの
手形の碑がありました。
辰巳櫓からの道は菅生曲輪の
南の端に近い位置を東に向かいます。
その道路から眺めた菅生曲輪の様子です。
岡崎の新しいランドマークとなっている
高層マンションが、城址の向こうに聳えています。
菅生曲輪の空き地は、以前は岡崎市民グランドでした。
市民体育大会などが開かれ、ここで地区代表の
リレー大会に出た事などあって懐かしい場所です。
一段高くなっているところが東曲輪(東ノ丸)です。
その東曲輪から菅生曲輪への斜面の部分に
土が露出していますが、この箇所の発掘調査が
行われていました。
斜面の下の所に石垣が見られます。
一番下に見られる石垣は空堀の石垣で、
写真左の西側には、堀の石垣の上に
もう一段石垣が発掘されています。
土塁の下側だけに石垣を築いた
腰石垣だったようです。
右の写真に見られる排水用の
土管は珍しいものだそうです。
2008年8月31日に行われた現地説明会では
西側の石垣の裏から、1769年(明和6年)から
1871年(明治4年)にかけて岡崎城主だった
後本多家の家紋の入った瓦が出土した事から
江戸末期に石垣が修復された事を示しているそうです。
この斜面は以前は市民グランドの観客席になっていて
当時の遺構はかなり破壊されてしまっていたそうです。
発掘調査の現地説明会の様子と、
その時に展示された出土品です。
暑い中多くの人が訪れていました。
そして、予想以上の出土品がありました。
2010年3月に東曲輪の東隅櫓が復元されました。
東曲輪の南端にも土塀が巡らされ、
菅生曲輪からの眺めが一変しました。
江戸時代の様子を彷彿とさせる眺めです。
菅生曲輪の西側から東隅櫓を眺めると
背後に三の丸跡に建てられた
高層マンションが見えています。
東曲輪から菅生曲輪への斜面も土盛がされ、
江戸時代からの石垣が保護されました。
発掘された石垣の一部が
露出展示されていました。
菅生曲輪の東端にある駐車場からの
東隅櫓の眺めです。
隅櫓から続く土塀の向こうに
七間門の瓦も見えていました。
この眺めは、岡崎城の新しい
シンボル的な眺めになることでしょう。
菅生曲輪の北東には東曲輪へと続く、
桝形門跡がありました。
この枡形門跡から見上げた東隅櫓です。
東隅櫓から、枡形門への横矢が
掛かるのが実感出来る眺めでした。
この枡形門を上っていくと
東曲輪へと続いています。
石垣の間の切通しのような門の跡です。
この切通しを抜けたところが東曲輪跡ですが、
2010年3月に東隅櫓が出来た後は、
一旦、国道一号線に出てから再び
岡崎城公園に入る事になりました。
"岡崎城"のTopに戻る
東曲輪
東曲輪は乙川に近い菅生曲輪の
一段高いところにあった曲輪です。
二ノ丸の七間門の東にあったことから
東曲輪(東ノ丸)と呼ばれていたようです。
二の丸と東曲輪との間に土塀が続いていました。
この東曲輪は、長い間駐車場がありましたが、
2009年(平成21年)に南側の菅生曲輪へと続く
斜面の石垣の発掘調査がなされ、
2010年(平成22年)3月に東隅櫓が復元されました。
東曲輪の内部から見た土塀と東隅櫓です。
東隅櫓は二重二層の望楼式の櫓です。
一層目は東西に4間、南北に3間、
二層目が2間四方の大きさと思います。
高さは約4.9mだそうです。
この東曲輪は2010年(平成22年)
3月27日に一般公開が始まりました。
その当日、9時少し過ぎに東隅櫓を訪れました。
一般公開が始まって3番目の入場者になりました。
東隅櫓の一層目の内部の様子です。
太さ60cmもある松の梁がむき出しになっています。
急な角度の階段が2層目へと続いています。
2010年(平成22年) 4月11日までは、
二層目も特別公開をしていました。
二層目の内部の様子です。
太い木を使った梁の様子です。
江戸時代の工法を用いての復元は
やはりいいものです。
二層目からの眺めです。
東曲輪の南下に広がる菅生曲輪から
西に広がる本丸方向の様子です。
本丸の天守閣は松の木々に遮られて
見る事が出来ませんでした。
そしてこちらは北側にある
浄瑠璃姫のお墓の様子です。
東隅櫓との間にある窪地は、
東曲輪と菅生曲輪を結ぶ枡形門跡です。
東曲輪の東の隅、東隅櫓の北側にある
浄瑠璃姫のお墓の様子です。
浄瑠璃姫は平安時代末期に
矢作の長、源中納言兼高の娘でした。
奥州へ向かう源義経はこの兼高の屋敷に逗留し、
その際に、義経と浄瑠璃姫は結ばれるのですが、
奥州へ旅立った義経への想いが募り、
ついには乙川の流れに身を投げてしまったそうです。
浄瑠璃姫が身を投げた
浄瑠璃ヶ淵の様子はこちらです。
矢作の様子はこちらです。
義経が向かった平泉の様子はこちらです。
ひっそりと佇む浄瑠璃姫のお墓。
浄瑠璃姫のお墓は、義経が向かった
平泉の方角を向いているそうです。
"岡崎城"のTopに戻る
三の丸
二の丸の通称"大手門"があったところは
江戸時代には七間門があります。
この、通称"大手門"を抜けた東側が三の丸です。
東曲輪の北に位置しています。
三の丸があった場所は、
岡崎市の中心街になっていて、
高層マンションやビルが建ち並んでいます。
岡崎城の二の丸の北側を国道一号線が走り、
その通りの北側が三の丸跡です。
三の丸跡に建つ高層マンションです。
岡崎城址のある岡崎公園から
この高層マンションに向かって
歩道橋が架けられています。
その歩道橋から三の丸方面の眺めです。
右の写真は国道一号線で、この先に
黒門と備前曲輪が続いていました。
左の写真は三の丸跡に建つビル群です。
歩道橋から遠く眺める岡崎城天守です。
岡崎城は、徳川家康の父・広忠が殺害されると
今川氏が支配するところとなり、
若き家康も駿府に人質にとられてしまいます。
家康の駿府での人質時代には
家臣の鳥居忠吉が残りましたが、
本丸や二の丸は今川氏に接収され、
鳥居忠吉はこの三の丸に居たそうです。
松平氏にとっては艱難の時だったと思います。
歩道橋を渡り、東に向かったところの様子です。
写真の左手の建物は百貨店でしたが
2010年1月に閉店してしまいました。
岡崎市の中心街が寂れ
ドーナツ化した結果です・・・
その百貨店の入り口の近くには
三の丸曲輪跡の碑が建っていました。
岡崎開市450周年記念に建てられたものです。
碑が建てられたのは1974年(昭和49年)。
その450年前の1524年(大永4年)は、
家康の祖父・松平清康が安祥城から
この岡崎城に拠点を移した年にあたるそうです。
安祥城の様子はこちらです。
"岡崎城"のTopに戻る
備前曲輪
備前曲輪は、三の丸の東に
位置する小さな曲輪でした。
備前曲輪の北にある浄瑠璃曲輪
との間には大手門があったようです。
大手門の様子はこちらです。
三の丸の石碑のある百貨店の前の
康生通りを東に向かうと
備前曲輪跡へと入っていきます。
康生通りの様子です。
岡崎一の目抜き通りでしたが、
いまでは、通りの脇には
至る所に空き地がありました。
寂しい光景です。
丁度このあたりに、備前曲輪の東側の水堀が
南北に横たわっていたようです。
下の写真は、康生通りの一本南側の
路地に入ったところです。
岡崎城の古図によると、
このあたりに門の枡形があったようです。
江戸時代には備前曲輪にどのような建物が
建っていたのかはわかりませんが、
備前曲輪は小さな曲輪で、ちょっと歩くと、
曲輪跡を外れてしまう程でした。
国道1号線と旧248号線の県道との
交差点に架かる歩道橋から
三の丸と備前曲輪方面を眺めた様子です。
遠くに、旧三の丸に建つ
高層マンションが聳えていました。
写真左手に当時は黒門があったようです。
その黒門跡の様子です。
ここから、菅生曲輪へと
抜ける小道があったようです。
残念ながら備前曲輪には
当時を偲ぶものはありませんでした。
"岡崎城"のTopに戻る
大手門
岡崎城の大手門は二の丸から北東に
200メートル程離れた所にありました。
備前曲輪の北にある浄瑠璃曲輪に位置し、
大林寺郭堀に土橋が架けられ、
大手門へと続いていたようです。
岡崎城の大手門が東に向いているのは
徳川家康が江戸に移封した後に
岡崎城主となった豊臣秀吉の家来だった
田中吉政が、東からの襲撃に
備えたのものだったのでしょうか。
大手門の跡地は、市街化され「シビコ」という
ショッピングセンターが建っています。
大手門の跡を示す碑でもあるかと
思ったのですが、見当たりませんでした。
大手門跡から三の丸方向を眺めた様子です。
正面の建物は松坂屋百貨店跡です。
この方向に天守閣があります。
江戸時代の記録によると大手門は
桁行十間、梁行二間四尺の
堂々とした門だったようです。
"岡崎城"のTopに戻る
浄瑠璃曲輪
浄瑠璃曲輪は、岡崎城の大手門をくぐり
天守閣のある本丸へ向かって
右手に広がっていた曲輪です。
源義経との別離の悲しみに耐えられず
乙川に身を投げた浄瑠璃姫から
その名が付けられています。
岡崎城大手門跡のすぐ右手に
浄瑠璃寺がありました。
浄瑠璃寺には義経と浄瑠璃姫の画が
伝わっているそうです。
この浄瑠璃寺は、平泉へと向かう
義経の後を追って家を出た
浄瑠璃姫が庵を結んだ場所に
建てられているそうです。
浄瑠璃寺の西側にはショッピングセンター
「セルビ」が建っています。
岡崎城の当時の絵図と見比べてみると
この「セルビ」が浄瑠璃曲輪の
大部分を占めています。
当時この浄瑠璃曲輪には
どのような建物が建っていたのでしょう。
上の写真の右手には三の丸
との間の堀があったようです。
「セルビ」の西側の駐車場です。
しばらく前まではここに保健所がありましたが
それも取り壊され、見通しが利くようになりました。
右の写真に写っているビルの辺りに
当時、東海道が通っていました。
そして写真左は岡崎市の新しい図書館「りぶら」です。
大林寺曲輪跡に建っている「りぶら」との間に
幅の広い大林寺郭堀がありました。
"岡崎城"のTopに戻る
大林寺郭堀
大林寺郭堀は、岡崎城の北側の浄瑠璃曲輪と
大林寺郭の間から大手門そして黒門と、
東側へ回り込むように築かれた堀です。
西側はかつてのスポーツガーデンの
流水プールも大林寺郭堀跡にあったようです。
1601年(慶長6年)に岡崎城主となった
本多康重公が、徳川家康公の命を受け、
この大林寺郭堀を造ったとされているようです。
2007年10月に、この大林寺郭堀の石垣が発掘され、
11月に入って開かれた現地説明会に出かけてきました。
今回出土したのは、大林寺郭堀の
北側の法面に築かれた石垣です。
発掘された石垣の様子です。
石垣の高さは4m以上あるそうです。
打ち込みハギ乱積みという
工法で築かれていたそうです。
石垣が2段に分かれているのは
当時の工法では4m以上の石垣を
積めなかった為でしょうか。
また堀の幅は約45〜60mもあったようです。
この大林寺郭堀のあったところは、
都市化が進み、ビルや住宅が建っています。
この発見現場もマンション建設地でした。
こうした市街地でお城の遺構が今まで破壊される事なく
新たに発見されたのは、素晴らしい事だと思います。
しかも今回の大林寺郭堀の発見で、
今まで絵図でしか残されていなかった
岡崎城の外郭の遺構が初めて見つかり、
岡崎城が江戸城、姫路城や大阪城に次ぐ
日本で4番目に大きな城郭を持つお城
という事が立証されたということです。
しかし、この発掘現場には10月19日の
日付の写真が展示されていました。
この写真を見ると、今回発見された石垣は
長さ30m近くにもわたっていたようですが、
既に3/4以上が壊されてしまったようです。
そういう目で見てみると、発掘現場には
石垣に使われていたと思しき石が
ゴロゴロとしていました。
これは悲しい光景でした。
保存について質問してみましたが、
民間の土地で発見された史跡の
保存は難しいという回答でした。
その後、この発掘現場に
何度か行ってみました。
石垣の発掘から一年後の
2008年9月20日の様子です。
既にマンションの基礎工事も終わり、
建物の建築に取り掛かっていました。
そして2010年3月27日の様子です。
既にマンションは完成し、
分譲もされていました。
外観からは、ここにかつて堀があり
石垣が発見されたとは想像もつきません。
岡崎市の中心部のこの辺りはスプロール化が進み、
商店街の周囲に、建物を取り壊して造られた
駐車場が広がるような光景も見られます。
市は中心街の活性化にと、約100億もの税金を
投じて新しい図書館を建てたりしていますが、
発掘された史跡を保存し当時の様子を復元すれば、
多くの人が訪れるようになり街に賑わいが戻ったのに、
と思わずにはいられませんでした。
"岡崎城"のTopに戻る
大林寺曲輪
大林寺曲輪は、大林寺郭堀の
北側にあった曲輪です。
大林寺郭堀を隔てて、北曲輪や
浄瑠璃曲輪と向き合っていました。
この大林寺曲輪には、
その名の通り大林寺があります。
大林寺には徳川家康公の祖父・松平清康公や
父・松平広忠公のお墓があります。
大林寺は1530年(享禄3年)に
松平清康公の命によって
現在地に移転されたそうなので
江戸時代に亘ってこの地にあった事になります。
大林寺の様子はこちらです。
江戸時代、大林寺には他に目立った建物はなく
広大な敷地が広がっていたそうです。
また大林寺曲輪の中を
旧東海道も通っていたようです。
岡崎城は東海道の要衝の地にあります。
城の西に矢作川が流れ、その先には
広く岡崎平野が開けています。
西から東へ攻め上る兵力を防ぐには
うってつけの地形で、岡崎城には
有事の際に兵力を集結し、江戸へ攻め上る
敵軍を迎え撃つ機能を期待していたのかも知れません。
この大林寺曲輪には、2009年に
岡崎市の新しい図書館・リブラが
建てられました。
"岡崎城"のTopに戻る
白山曲輪
白山曲輪は、岡崎城の西にある曲輪です。
現在、岡崎城公園の西側には伊賀川が
流れていますが、当時はここに堀があり、
この堀の西側が白山曲輪です。
伊賀川に架かる竹千代橋からの眺めです。
3月末、丁度岡崎城公園の桜が
満開の時期でした。
伊賀川の川原の位置に馬出があり、
川の左手の住宅が建ち並ぶ所が
白山曲輪跡です。
竹千代橋を渡り、西側の住宅街へと
続く小路に分け入っていきます。
この小路は、当時は堀でした。
この左手が当時の白山曲輪です。
このあたりは家が建ちこんでいて
当時の面影は残っていません。
しばらく歩いた最初の角の様子です。
この写真は、竹千代橋からの
小路の北側の様子です。
当時の堀は、ここで北に曲がっていました。
直角に曲がる堀や土塁があった筈ですが
その様子を思い浮かべることは出来ません。
今では家が密集している白山曲輪ですが
その一角に新田白山神社が残っています。
この新田白山神社は、1566年(永禄9年)に
松平(徳川)家康が、上州の新田から
勧請して建てた神社です。
新田の地名は、その翌年(1567年)に
松平から改めた"徳川"の姓の
本貫の地とされています。
「徳川」の姓は、新田氏の末裔の得川氏を
倣ったとされ、松平氏が源氏の血をひく事を
家康は宣言した事になります。
この頃、家康は既に天下を取ることを
心に思い描いていた証と言えそうです。
境内の前に立つ鳥居をくぐり、
参道を歩くと、小さな鳥居がありました。
神社の案内書に、自然石の
鳥居の記載があったのですが
この鳥居がそれなのでしょうか。
境内にあった樹齢600年の大楠です。
樹高11.2mの大木です。
この木は、新田白山神社を参拝する
家康の姿を見ている事でしょう。
この新田白山神社は江戸時代には
岡崎城主の産土神(うぶすなかみ)として
尊敬を集めていたそうです。
新田白山神社の西側の様子です。
江戸時代にはここに堀があったようです。
"わが街 岡崎"に戻る
"岡崎城"のTopに戻る
籠田総門
岡崎城は、城下町の周囲を
濠で囲んだ総構のお城でした。
その東の端は、天守閣から750mも
離れたところに掘られていたようです。
この岡崎城下の東の端に
籠田総門が設けられていました。
西側の松葉総門の様子はこちらです。
現在の籠田総門跡の様子です。
乙川の右岸から籠田公園に向かって伸びる
中央分離帯のある広い道と、伝馬通りの
一本南を東西に伸びる通りとの交差点に
籠田総門があったようです。
江戸と京を結ぶ東海道が
この籠田総門を通って、
岡崎城内を通り抜けていました。
岡崎城下を通る東海道の
二十七曲の様子はこちらです。
中央分離帯に籠田総門の石碑もありました。
石碑の形は冠木門の様になっていますが
当時の籠田総門はどんな形の門だったのでしょうか。
古い岡崎城の絵図を見ると、
東海道は、東から籠田総門に入り
この門の中で90度北に方向に曲がっています。
この東海道の曲がり具合からすると
籠田総門は枡形門で、立派な櫓門が
あったのでは、と想像してしまいます。
籠田総門から北に向かった東海道は
今の篭田公園に向かって伸びていました。
篭田公園の伝馬通りに面した入り口です。
以前は、ここで岡崎市の小学生が作った
図画工作の展示会をしていたので、
懐かしい公園です。
"岡崎城"のTopに戻る
松葉総門
岡崎城は城下町の周囲を
濠で囲った総構の作りでした。
その城下町の中を東海道が貫いていましたが
その東西の出口に総門が作られました。
東側が籠田総門、そして西側がこの松葉総門でした。
籠田総門の様子はこちらです。
松葉総門は、現在の国道248号線の
中岡崎町交差点付近にあったそうです。
岡崎城からわずか数百メートル
西に位置したところで、
岡崎市の中心街にもほど近く
国道は常に多くの車が行き来しています。
当時、この交差点の位置で
東海道が東西に走っていました。
岡崎城下を通る東海道の
二十七曲の様子はこちらです。
この場所に枡形の立派な門があったのでしょうか。
当時の様子を彷彿とさせるものは
何一つ残っていません。
往来の激しい交差点の角に
小さな石碑がありました。
松葉総門の立派な碑は、この場所から少し離れた
名鉄岡崎公園前駅の駅前にありました。
ここは愛知環状鉄道の
中岡崎駅も隣接しています。
愛知環状鉄道の乗車記はこちらです。
"岡崎城"のTopに戻る
「わが街岡崎」のページはこちらです。
"日本全国お城巡りの旅"に戻る
Shane旅日記 日本編に戻る