わが街 岡崎 / 岡崎二十七曲
Twenty Seven Corners on Tokaido
in my Hometown Okazaki








江戸の日本橋と京の五条大橋を結ぶ東海道は
五十三の宿場を結び、いわずと知れた
江戸時代の大街道でした。

岡崎城の城下町だった岡崎にも宿場が設けられ
東海道の中でも三番目に大きな宿場で、
その賑わいは駿府に次ぐとも言われていたそうです。

東京・日本橋の様子はこちらです。
静岡(駿府)の様子はこちらです。

その東海道は、岡崎の城下を多くの曲がり角で抜け
しかも一部では岡崎城の城内を通っていたそうです。

曲がり角の多い岡崎城下の東海道は
二十七曲と呼ばれています。


岡崎の街の繁栄は、1590年(天正15年)から
1600年(慶長5年)に、岡崎城主となった
田中吉政による所が大きいそうです。

田中吉政は、岡崎城下の道に
沢山の曲がり角を設けました。

その理由の一つは、防御の機能の為でしたが、
その他にも、曲がり角を沢山設けることによって
城下を通る道の総延長を長くし、その分、
多くの商店が道沿いに並ぶ様になったそうです。

更に岡崎の中央を流れる乙川の南を通っていた
東海道を岡崎城内を通る様に付け替えたそうです。

また伝馬町を中心に宿場としての整備も進め
岡崎の町に繁栄をもたらしたそうです。

東海道を岡崎城内に通したのは、
その田中吉政の後に岡崎城主となった
本多康重という説もあるそうです。




岡崎の中心街は、太平洋戦争の
空襲で焼かれてしまいましたが、
旧東海道の道筋は大方残され、
二十七曲に沿って歩く事が出来ます。

その二十七曲の様子を紹介しようと思います。



欠町から伝馬町本陣へ
May 08, '10

伝馬町本陣から材木町へ
May 11, '10

材木町から矢作川へ
NEW ! May 15, '10




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欠町から伝馬町本陣へ


岡崎二十七曲の出発点は
岡崎の中心街の東にある欠町です。

江戸から東海道を下り、藤川宿を過ぎ
大平の集落を抜け、岡崎の集落の入り口が
この欠町だったのでしょうか。

@
数字は地図上の数字の位置を示しています。

この欠町には冠木門と
二十七曲の石碑が建っています。

近くに国道一号線が走り、
ここは根石町の交差点から
北に上がったところにあります。


この二十七曲のスタート地点を跡に
次の角を右に曲がり、北を目指しました。



緩やかな坂道を登っていきます。
この辺りは古くからの住宅地ですが
静かな佇まいが残っています。

140m程、北に向かうと、
旧岡崎市民病院跡地の角に出ました。

今は「げんき館」という施設になっていて
この敷地の角に波を象った
モニュメントが建っていました。

A

この「げんき館」の敷地の東南角には
当時は投町茶屋があったそうです。

この茶屋で売られていたあんかけ豆腐は
「淡雪」という名で知られ、東海道の
名物の一つだったそうです。


この角で左に折れ、西に進みます。
国道一号線と伝馬通りに挟まれた裏通りで
車の通りも人通りも少なくひっそりとしています。



このげんき館の角から次の両町の角まで
約650程はほぼ直線の道です。

両町二丁目の角に建っていた道標です。



両町角まであと310mです。
地図で見ると、この門でわずかに
道が折れ曲がっていますが、
これを二十七曲の一つに数えるのでしょうか・・・



そして両町角で右に曲がりました。
この角の近くは、当時の東海道と
今の道路とが多少ずれているようです。

この辺りは今でこそ住宅が並んでいますが
中世の頃は街道の片側に数戸の家が並ぶだけで
片町と呼ばれていたそうです。

B

ちなみに、この角を左に折れると
徳川家康公の正室・築山御前の
首塚のある祐傳寺があります。

祐傅寺の様子は
こちらです。

両町の角から80m北に上がると
岡崎市中心部の目抜き通りの
伝馬通りに出ました。

C

この角の近くには両町の常夜燈の
一部が残されているそうです。

旧東海道は、ここから660mにわたり
伝馬通りに沿っていたようです。

片側二車線で、車の交通量の多い
伝馬通りを西に進みます。



伝馬は田中吉政の後に岡崎藩主となった
本多康重が宿場として整備したそうです。

幕末に近い1841年には旅籠が112軒、
本陣と脇本陣が夫々3つもあり、
宮(今の名古屋市熱田)と桑名に次いで
街道で3番目に大きな宿場だったようです。


東本陣跡のあるモダン通りとの交差点の
南西角に備前屋がありました。

D

この備前屋は、1783年(天明3年)創業の老舗です。
現代の「淡雪」を販売しているお菓子屋さんです。

この備前屋の前にあった道標です。



「右 江戸、左 信州道」と記されています。
当時、東海道を歩く旅人も、
この道標を頼りにしていた事でしょう。


備前屋を過ぎると、昔ながらの
商店街が続き、江戸時代の東海道の
宿場の様子を彷彿とさせてくれます。

糸惣・永田屋です。



岡崎空襲の火災を逃れ、当時の様子を
一番残している建物と思います。

当時はこの向かいに大黒屋屋敷という
大きな薬屋・質屋があったようです。

永田屋の先には、岡崎に3つあった
本陣の一つ、大津屋本陣の跡がありました。



この大津屋のすぐ近くには
西本陣跡もありました。

E

西本陣跡はコンビニになっていました。

この西本陣跡が東海道の伝馬通りの
西の端の外れになっていたようです。



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伝馬町本陣から材木町へ


西本陣跡の角で伝馬通りと別れ
東海道は南へと向きを変えます。

E

その角にあった「西本陣前角」の石碑です。

伝馬通りの一つ南の通りまで
60m南に下った後、次の角で右に折れ
再び西に向かいました。

その角に立っていた二十七曲の道標と
「きらみち」の石碑です。




この道を170m程行くと岡崎城の入り口の
籠田総門跡に出ますが、その手前に
赤レンガの瀟洒な建物がありました。

1917年(大正6年)に建てられた
旧商工会議所の建物です。

F

元々は岡崎銀行の本店として建てられ
戦後は商工会議所として使われ、
現在は岡崎信用金庫の資料館になっています。

ここで二十七曲の資料も入手出来ます。

この旧商工会議所の道を隔てた反対側には
江戸時代には御馳走屋敷があったそうです。

御馳走屋敷は岡崎藩が東海道を行き来する
幕府のお客を接待するところで、皇室の
勅使親王やお茶壷道中そして朝鮮や
沖縄からの使者もここに足を止めたそうです。


この旧商工会議所の一つ西の角は
中央分離帯のある広い道との交差点です。

G

ここに岡崎城の東の入り口、
籠田総門がありました。

岡崎城・籠田総門の様子はこちらです。

中央分離帯の茂みの中に
籠田総門の石碑もありました。



当時の岡崎城は天守閣から750m程離れたこの地に
南北に走る総構の堀があったそうです。

当時の東海道はこの角でクランク状に
2度曲がって北に向かっていたようです。

今まで曲がり角毎に立っていた
木製の道標は見当たらず、
迷ってしまいました。

現在の道に従うと、中央分離帯のある
道に沿って北上する事になります。
この道はすぐに伝馬通りへとの
T字路の交差点に辿り着きます。



T字路の先には篭田公園があります。

当時の東海道は篭田公園西側を
南北に貫いていたようです。

篭田公園の北西角の連尺通の交差点の歩道に
東海道がこの地で曲がっていることを示す
標識が埋め込まれていました。

H

東海道はここから連尺通を西へと向かいます。

1837年(天保8年)の記録では、
籠田総門からこの角までの籠田町は
戸数105戸、人口307人の規模だったそうです。

篭田公園からの連尺通りも岡崎の繁華街の一つです。
その連尺通りにも二十七曲の立派な石碑がありました。



連尺通りには、江戸時代を彷彿とするような
商店は残っておらず、淡々と進んでいきます。

当時もこの連尺には103戸に780人の人口があり
岡崎城内で最も人口の多い集落だったようです。

しばらく進むと、岡崎の中心街を南北に
貫く康生通りとの交差点に出ました。

I

今から30年程前には、この交差点の周囲は
多くの人が出歩いていましたが、今は残念ながら
寂れていてあまり人影を見かけません。

康生通りを過ぎると、左手にはショッピング・
センターの「シビコ」の建物が続きます。



通りはこの先、T字路になっていて
浄瑠璃曲輪跡に建つショッピングセンター
「セルビ」が見えています。

その手前、「シビコ」の建物が途切れた辺りに
当時、岡崎城の大手門が建っていました。

岡崎城の大手門や
浄瑠璃曲輪の様子はこちらです。


岡崎城内を通る東海道も、さすがに
城郭の中枢となる大手門内には入れず
大手門の手前で右に折れていました。

J

その曲がり角に、レンガの建物が建っていました。
この建物の前に二十七曲の石碑がありました。

ここで右に折れると、細い路地に入ります。
(下の写真左です)



この路地を抜け、通りに出ると
T字路の交差点の向こう側にも
石碑が建っていました(上右写真)。

石碑には材木町口木戸前と記されています。

このT字路で左に折れ、
大林寺の方向に向かって行きます。
材木町1丁目の交差点を過ぎて
右手に高いマンションが見えてきました。

大林寺の様子はこちらです。



このマンションの建っている場所には
岡崎城の大林寺郭掘の石垣がありました。

東海道のすぐ脇にあった大林寺郭堀。
田中吉政がこの堀を整備して石垣で固めたのは
豊臣家の財力を東海道を行きかう旅人に誇示して
家康を江戸に移封して、秀吉の世になった事を
印象付ける狙いがあったようです。

大林寺郭堀の様子はこちらです。

このマンションの先、下の写真辺りで
東海道は再び北に向かっていたようです。

K

このあたりは、戦後の区画整理で
江戸時代の道筋が変わっているようです。



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材木町から矢作川へ


材木町1丁目の二つ目西側の角を
右に折れ、狭い路地を北に向かいます。

この材木町には179戸の家があり、
686人の人々が住んでいたようです。

この西側には大林寺があり、東海道は
大林寺の周囲を大回りするように進みます。

大林寺の様子はこちらです。

細い路地に古い門がありました。



岡崎城の城門は、周辺の町に
いくつか移築されているそうですが
この門は江戸時代のものではないでしょう。

材木町二丁目の交差点で左に曲がり
今度は西に向かいます。

L

康生通りを横切った辺りから
短い距離で曲がり角を迎えています。

材木町二丁目の角を曲がった
左手の辺りは魚町で戸数64、
人口209人の集落でした。


緩やかな下り坂を250m程西に進むと
伊賀川の柿田橋の辺にでました。

この手前で馬会所跡があったそうですが
その痕跡を見つける事は出来ませんでした。

M

この柿田橋の袂が東海道の曲がり角で
歩道にその印がありました。

伊賀川の堤防に曲がると
石碑も立っていました。



ここからは伊賀川の堤防に沿い南下します。
左手の高台の上に、白山神社がありました。

この白山神社は1547年(天文16年)に
創建されたそうです。



今は伊賀川の堤防沿いに歩く事になっていますが
現在の伊賀川は江戸時代とは川筋が変わっていて
当時の東海道は伊賀川の河床になっているようです。



伊賀川に架かる次の三清橋を渡ります。
橋の欄干の下に石碑がありました。

N

この三清橋から東を眺めると
大林寺の向こうに、先ほど通った
材木町1丁目の交差点も
遠くに見渡せました。

Kの写真の場所です。


三清橋を渡ると、堤防道路の
次の小路へと左に曲がります。



このあたりは道導もなく、旧商工会議所で
貰ったパンフレットだけが頼りです。

この路地を入ったところで、東海道は
クランク状に右折と左折を繰り返します。

しかし、この箇所には住宅が建っていて
その跡を忠実に辿ることは出来ません。

再び、三清橋からの道に戻り
もう一本西側の道へと入っていきました。



この道は、真っ直ぐ進むと国道一号線に出ますが
その手前で、東海道は右に折れていたようです。



この辺りは田町と呼ばれる古くからの住宅街です。
江戸時代の戸数は66、人口は236人と
比較的小さな集落だったようです。


曲がり角の多い田町の町を抜けると
車の騒音もけたたましい国道1号線に
突き当たってしまいました。



旧東海道の道筋は国道1号線で、
ぷっつりと断ち切られてしまっていました。

パンフレットの地図を見ると、
国道1号線の向こうに真っ直ぐ伸びているのですが
まっすぐ進めないので、30m程西側の
国道248合線との交差点に向かい
陸橋で反対側に出ました。

再び、旧東海道の道筋へと入っていきました。
板屋町の町並みを南へと向かいます。



「東海道」という標識があり、
道を間違えていない事を
確認出来てほっとします。

しばらく歩いて左手に入ると
白山神社がありました。



新田白山神社の裏側の入り口です。
1566年(永禄9年)に、徳川家康が
上州新田から勧請した神社だそうです。

この白山神社のあった辺りは白山曲輪でした。

岡崎城の白山曲輪の様子はこちらです。


新田白山神社から再び東海道に戻り
板屋町を進みました。



1837年(天保8年)には戸数73戸、
人口308人の集落でした。

このあたり、家並みに遮られて見えませんが
岡崎城の天守閣からは200m程しか離れていません。

通りの片隅に板屋町角の石碑がありました。

O

ブロック塀の近くに建っていて、
見落としてしまいそうな石碑ですが、
ここで右に曲がります。


板屋町角で右に曲がり西に向かうと
国道248号線との大きな交差点に出ました。

P

この交差点は、岡崎城の西の入り口
松葉総門跡だったところです。

交差点の片隅に松葉総門跡を
示す小さな石碑がありました。



松葉総門跡を過ぎ、西に向かうと
愛知環状鉄道の高架橋が見えてきます。
高架橋の下には八丁村の石碑もありました。

愛知環状鉄道の乗車記はこちらです。


高架橋をくぐると、八丁味噌の
蔵元を通るようになりました。



上右の写真に写っている高架橋が
愛知環状鉄道の線路です。

東海道から北に別れる小路は
八丁蔵通りという名で呼ばれています。

八丁蔵通りの様子はこちらです。


東海道は八丁味噌の二つの蔵元の
間を抜け、まっすぐ西に進みます。

東海道はこの先のT字路で北に折れていました。
角には道標も建っていました。

Q

ここがそのT字路です。

左側に並ぶ家の向こうには
矢作川の堤防が続いています。

当時の東海道は、この先ですぐ左に曲がり
矢作橋へと続いていましたが、今では
家が建っていて、その曲がり角が
どこかは分かりませんでした。


欠町から約5.8km続いた岡崎二十七曲も
ここが終点のようです。

残念ながら当時の雰囲気は
あまり残っていませんでしたが
岡崎城下を通る東海道の複雑な
曲がり道に沿って、史跡や道標を
辿るのは楽しかったです。



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