わが街 岡崎 / 大林寺
Dairinji Temple in my Hometown Okazaki







大林寺は岡崎城主だった松平信貞公が
1493年(明応2年)に創建したお寺です。

松平信貞公は岡崎城の築城城主・西郷頼嗣公の
次男で、大草松平氏の三代目です。

西郷頼嗣出生の地、
大草の様子はこちらです。

大草松平氏は西郷頼嗣公の婿養子となった
松平宗家三代目・信光公の五男・光重公を祖としています。
光重公の嫡男・親貞公が早世した為に、信貞公が
大草松平氏を継いだと言われています。


大林寺は岡崎城の北側に位置しています。


大林寺の地図はこちらです。


地図が見られない場合は
Java Scriptをオンにして下さい


江戸時代、この地は岡崎城の
大林寺曲輪になっていました。

元々この大林寺は岡崎城から乙川を挟んで南にある
明大寺に建てられたそうですが、1530年(享禄3年)に
松平清康公の命によって現在地に移転されたそうです。


新しく出来た岡崎市図書館、リブラの北側
一段高くなったところに大林寺があります。



大林寺はコンクリート製の
立派な本堂でした。



この大林寺には家康公の祖父・松平清康公や
清康公夫人の波留姫、そして
父・松平広忠公のお墓があります。

お堂の左手から墓地に入っていきます。
清康公や広忠公のお墓を探すうちに
不意に古びた五輪の塔が目に留まりました。



赤穂浪士の矢頭右衛門七教兼の供養塔です。
矢頭右衛門七教兼は討ち入りの際、
僅か17歳だったようです。

赤穂の様子はこちらです。
赤穂浪士の墓のある泉岳寺はこちらです。

赤穂浪士の供養塔が、何故この大林寺に
あるのかは何も記されていませんでした。
どんな謂れがあるのでしょうか。


この奥に古びた門と、コンクリートブロックに
囲まれた一角がありました。



ここに清康公や波留姫、そして
広忠公のお墓がありました。

下の写真左が清康公、 そして右側が波留姫のお墓です。



宮城谷昌光さんの『風は山河より』を読むと
松平清康公は、それまで西三河の一角を
占めるだけだった松平の領地を急速に広げ、
尾張まで攻め入く程に勢力を強めたそうです。

1535年(天文4年)、尾張侵攻の途中、
守山(今の名古屋市守山区)で
家臣に殺害されてしまいます。

そのまま清康公が生きていれば、
家康公よりも何十年も早く天下統一がなされていた
と言われるほど、傑出した人物だったようです。

『風は山河より』の記事はこちらです。


そして清康公のお墓の左手には
広忠公のお墓がありました。



清康公が非業の死を迎えた際、広忠公は僅か9歳。

その後、今川氏の庇護の下、松平氏の
勢力維持に努めたようですが、
尾張の織田信秀の何度もの来襲への
対応に追われる一生だったようです。

享年は数えで24歳。
死因は病死とも暗殺とも言われています。


清康公や広忠公のお墓は
市内北部の大樹寺にもありますが、
天下を極めた徳川家康公の祖父や
実父のお墓としては、粗末なお墓でした。

大樹寺の様子はこちらです。


清康公が斃れて以降、家康以前の松平氏が
東西を今川氏、織田氏という実力のある
戦国大名に挟まれ、西三河の弱小豪族に
過ぎなかった当時の松平氏の実力を
物語っているのでしょうか。


この大林寺には西郷頼嗣公や松平信貞公の
お墓もあるそうですが、どのお墓なのか、
見つける事は出来ませんでした。



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