大林寺は岡崎城主だった松平信貞公が
1493年(明応2年)に創建したお寺です。
松平信貞公は岡崎城の築城城主・西郷頼嗣公の
次男で、大草松平氏の三代目です。
大林寺はコンクリート製の
立派な本堂でした。
この大林寺には家康公の祖父・松平清康公や
清康公夫人の波留姫、そして
父・松平広忠公のお墓があります。
お堂の左手から墓地に入っていきます。
清康公や広忠公のお墓を探すうちに
不意に古びた五輪の塔が目に留まりました。
赤穂浪士の矢頭右衛門七教兼の供養塔です。
矢頭右衛門七教兼は討ち入りの際、
僅か17歳だったようです。
ここに清康公や波留姫、そして
広忠公のお墓がありました。
下の写真左が清康公、
そして右側が波留姫のお墓です。
宮城谷昌光さんの『風は山河より』を読むと
松平清康公は、それまで西三河の一角を
占めるだけだった松平の領地を急速に広げ、
尾張まで攻め入く程に勢力を強めたそうです。
1535年(天文4年)、尾張侵攻の途中、
守山(今の名古屋市守山区)で
家臣に殺害されてしまいます。
そのまま清康公が生きていれば、
家康公よりも何十年も早く天下統一がなされていた
と言われるほど、傑出した人物だったようです。
清康公が非業の死を迎えた際、広忠公は僅か9歳。
その後、今川氏の庇護の下、松平氏の
勢力維持に努めたようですが、
尾張の織田信秀の何度もの来襲への
対応に追われる一生だったようです。
享年は数えで24歳。
死因は病死とも暗殺とも言われています。
清康公や広忠公のお墓は
市内北部の大樹寺にもありますが、
天下を極めた徳川家康公の祖父や
実父のお墓としては、粗末なお墓でした。