大高城
Odaka Castle, Japan
登城日:
2009. 11. 15
大高城は、名古屋市南部にあるお城です。
名古屋市東部の丘陵地帯が南に延び、
知多半島に向かうあたりの西側に位置しています。
大高城は室町時代の永正年間(1504年 〜 1521年)に
花井備中守によってが築かれたようです。
信長が尾張で地盤を固める迄の間、
この大高城も北東に2.5km程の所にある
鳴海城と共に、織田・今川の境目の城でした。
鳴海城の登城記はこちらです。
天文・弘治年間(1532年〜1558年)には水野氏が居城し、
今川方に付き、その後織田氏についた為、
鳴海城主・山口左馬之助に攻め落とされ、
その後、今川義元の家臣・鵜殿長照が入城しています。
信長は、桶狭間の戦いの前年の1559年(永禄2年)に
この大高城を取り囲む様に、丸根砦や鷲津砦を築き、
今川方の連絡を絶つ事を狙っていました。
桶狭間古戦場の様子はこちらです。
丸根砦の様子はこちらです。
鷲津砦の様子はこちらです。
1560年(永禄3年) 5月18日には、今川軍が尾張に押し寄せ、
その際に、松平元康(後の徳川家康)が兵糧入れを行っています。
大高城の縄張は、本丸と二の丸が連なっているようです。
曲輪の様子は、概略を追記しています。
東西に106m、南北に32mの広さを有しているようです。
三河物語によると松平元康が兵糧入れを行った後に
長い評定が行われ、城番が鵜殿長照から
松平元康に変わったそうです。
この記述は、今までの桶狭間の戦いの
常識を覆す可能性もあると思っています。
【大高城へのアクセス】
JR東海 東海道本線・大高駅から
西に約1km、徒歩15分程です。
【大高城登城記】
JR東海道本線を大高駅で下車し、
駅の出口を真っ直ぐ進むと、
大高城址へと繋がっています。
八幡社を過ぎると大高川を渡ります。
大高城のすぐ東を流れるこの川は
当時は堀の役割を果たしていたでしょうか。
大高川を渡り、住宅地を二度ほど右に折れると
大高城址の入り口に辿り着きます。
整備された道が一直線に続いていますが、
右手には土塁も残っています。
この土塁の上は腰曲輪が丘陵地の
周囲を取り囲んでいるようでした。
ここから舗装された道を更に上っていくと
丘陵地のほぼ頂上近くの、思わぬ
広く開けた場所に出ました。
長辺は50m、幅は10mは優にあるでしょうか。
さすがに"城"と名が付くだけあり、信長が築いた
丸根砦や鷲津砦よりも遥かに大きな規模です。
本丸の南東側からの眺めです。
丁度こちらの方向に丸根砦があります。
丸根砦の様子はこちらです。
1560年(永禄3年) 5月18日にこの大高城に
兵糧を入れた今川軍は、その翌日に
この丸根砦や鷲津砦を攻略し陥落させています。
南西側から眺めた本丸の様子です。
左手の茂みに僅かながら土塁が残っています。
この茂みの中にあった大高城址碑です。
この石碑全体に、大高城の謂れが書いて
あるようですがそれは読めませんでした。
本丸の南西側は、急に狭くなり
二ノ丸へと続く土橋になっていました。
この両側が空堀になっていますが、
木々が生い茂り、その様子はよく判りません。
土橋を抜けると、本丸の半分以下の
規模の空き地が広がっていました。
ここが二ノ丸です。
二ノ丸の端には丸い水たまりがあったのですが
これは井戸の跡でしょうか?
この先、茂みの間から隣接する住宅地が見えてきました。
ここが大高城の城域の境になるのでしょうか。
改変されてしまっているのか、堀も土塁もなく
守りが極めて手薄のように思います。
当時は、虎口や門などもあったのでしょうか。
二ノ丸の本丸側からは北に下りる階段が続いています。
この下にも三ノ丸と思える開けた場所があるのですが、
案内板にも大高城には本丸と二の丸があったとのみ
記されているので、当時はこの場所は無かったのでしょうか。
この北側は急な崖となっており、
周囲の住宅地を見下ろします。
住宅地が建っているあたりは、
桶狭間の戦い当時は遠浅の海だったそうです。
この方向が丁度、信長が戦勝祈願をした
熱田神宮の方向に当たります。
熱田神宮の様子はこちらです。
今川軍が、1560年(永禄3年)5月18日に、
この大高城に兵糧を入れた際、織田軍の援軍が
来ないように満潮の時間帯を選んでいたそうです。
この住宅地が一面の水面で覆われていたとは
想像にも出来ませんでした。
この北側の斜面の様子です。
かなり急な切岸になっていました。
この東には、本丸と二の丸の
間の空堀がありました。
大高城で数少ない遺構です。
規模の大きな竪堀で、落ち葉で
滑りやすく上るのも一苦労でした。
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