大給城
Saiki Castle, Japan


登城日:
2009. 12. 6







【大給城概要】


大給城は、現在の豊田市の南東部、
松平郷に近いところにあるお城です。

松平郷の様子はこちらです。

元々は、豪族・長坂新左衛門が築いたようですが、
松平宗家三代目の信光が攻略し、三男の親忠が城主となり
その後、親忠の次男・乗元が城主となっています。

松平乗元は、初代大給松平氏となります。




大給松平第二代の乗正は、1510年(永正7年)までには
大給城の大修復を行ったそうです。

その後、大給松平氏は、徳川家康の江戸移封に伴い、
1590年(天正18年)に上野国(今の群馬県)に移り、
大給城も廃城になったそうです。





大給城の縄張りは、東西に主郭と二の郭が並び、
その南に館跡の曲輪がありました。

そして北側には、谷筋を築堤で
区切った水の手曲輪もあります。



【大給城へのアクセス】


名鉄三河線豊田市駅から中垣内行に乗り、
九久平バス停下車。
乗車時間約21分。

名鉄東岡崎駅から足助行バスに乗り、
同じく九久平バス停下車。
乗車時間約41分。

九久平バス停から徒歩約30分。




【大給城登城記】



登城口から堀切
Sep. 14, '14

堀切から館跡へ
Sep. 17, '14

二の郭から主郭
Sep. 20, '14

水の手曲輪
NEW ! Sep. 28, '14



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登城口から堀切


大給城は、豊田市の中心部から東に向かい、
巴川を渡り、松平郷に向かう途中にあります。

松平郷の様子は
こちらです。

九久平から松平郷へは急な坂道ですが
大給城はその坂道の山の頂にあります。



坂道が少し緩やかになった辺りに、
大給城入り口の案内板が立っていました。

ここから国道から離れ、林道の様な道に分け入ります。



大給城に向かう道からは、のどかな
山里の景色が広がっていました。



この道をしばらく登っていくと、道の脇に
大給城登城口の案内板がありました。



ここまでは自動車でも来られる道ですが、
ここからは山道になりました。

落ち葉の覆う道を歩き、尾根に出たところで
道が左右に分かれています。



この写真の坂道を上り終えたところが尾根です。
尾根に出て左に折れると大給城ですが
右に曲がり松平乗元のお墓に詣でる事にしました。


尾根の道を右に折れると木々の中に
松平乗元のお墓がひっそりと佇んでいました。



玉垣で周囲を囲われ、立派なお墓です。



乗元の没後に造られたものかと思ったのですが
現地の案内板によると、幕末も近い文政・天保の頃で
龍岡藩の藩主だった松平乗利が築いたもののようです。


松平乗元公のお墓を訪れた後、
尾根道を西に向かい大給城に向かいました。



大給城は、東側の入り口に大きな
堀切があり、敵の侵入を防いでいます。

その堀切の脇に碑がありました。



松平郷として国の史跡に認定されています。



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堀切から館跡へ


大給城の東側の大きな堀切を過ぎ、
高い土塁が城の東側に聳えています。



この土塁の南側が途切れ虎口になっていました。



大きな岩がゴロゴロと転がっています。
大給城が現役だった頃からこの様に
岩が点在していたのでしょうか。

虎口を抜け、土塁に沿って西に
向かうと更に虎口が現れました。



この虎口を抜けて城内に入ると主郭へと向かう事が出来ます。
しかし、土塁に沿って進んで行くと館跡に行くことが
出来るようだったので、まずはそちらに向かってみました。



土塁に沿って、館跡への道が続いています。



時折、大きな岩が道沿いに転がっていました。



館跡へと向かう道の左手は
深く切れ込んだ谷になっています。

しばらくこの細い道が続きます。



人の背丈よりも大きな岩の近くでは
お弁当を広げているハイカーの姿もありました。



虎口から緩やかな下り坂が続いていましたが
その坂が急になると、折れ曲りがありました。



この先で曲輪に出ました。
いくつかの段差があり、その先に広い空間がありました。



ここに城主の館が建てられていたという事です。
細い道を歩いて来た後なので、
この広い空間があるのが意外でした。

館跡から虎口から来た道の方向を眺めた様子です。



小さな平削地が何段かあり、
館跡の曲輪へと繋がっています。

紅葉した木々が陽を浴びて綺麗でした。



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二の郭から主郭


館跡を訪れた後、二つ目の虎口まで戻りました。



虎口の左右は、小高い土塁となっていて
ここは櫓台だったようです。
櫓台の基部には石垣が築かれていました。

この虎口を抜けると、目の前には
二の郭が広がっていました。



木々が生い茂り、開けた空間はなく、
二の郭を囲う様に土塁が築かれていました。

二の郭の南側に、東西に築かれた土塁です。



この土塁に沿って西に向かいます。
途中に土塁への上り口がありました。



ここを上がると、思わず広い平坦地がありました。



この平坦地が主郭の一部です。

土塁の上の様子を振り返った様子です。



自然石で出来たと思われる
碑の様な石が立っていました。


主郭は、ここから西に広がっています。
西側に主郭を南北に二分する土塁がありました。

この土塁は石垣で覆われていたようで
一部にそれが残っていました。



かなり初期の石垣の様で、小さな岩が
積み上げられて築かれていました。

大給城は松平乗元が、1510年(永正7年)までに
大修築を行ったと言われています。
この石垣は、その際に築かれたものなのでしょうか。


この土塁の西側に主郭のメインの部分が広がっています。
その中央付近に大きな二つの岩がありました。



左側の岩には大給城碑がありました。
城内に大きな岩がいくつもある
大給城を象徴するような眺めです。

ここから更に西に向かうと景色が開けてきました。



主郭の端に物見岩と呼ばれる大きな岩があります。
ここで平坦地は尽き、急な斜面と
なって落ち込んで行きます。



物見岩からは遮るものが無く、
豊田の市街地が眼下に広がり、
その向こうには遠く名古屋の
高層ビル群も見る事が出来ました。



物見岩の隣にも、斜面に大きな岩がありました。


大給城の主郭からの景色や
大きな岩があちらこちらに存在している
城内の様子は、とてもスケールの大きなものでした。



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水の手曲輪


主郭を訪れた後、水の手曲輪を訪れました。



二の郭まで戻り、そこから案内板に従って進みます。
水の手曲輪は、かなりの下り斜面が続いていました。



曲輪というともっぱら兵士の駐屯所や城主の館などの
建物の建つ平坦な土地を指していると思っていたのですが、
この大給城の水の手曲輪は珍しいのではないでしょうか。



この斜面を下って行くと、
ダムの様な土塁がありました。



この下に回り込むと、このような築堤が
何段にも築かれている事が判ります。

この築堤はかなりの急傾斜で築かれています。



落ち葉が溜まっていますが、この築堤は
石垣で築かれているようです。



この水の手曲輪は、こうした築堤で水を
貯えた取水設備と考えられているようです。

最下段の築堤です。



山城では飲料水の確保が重要な課題に
なっていたようですが、それにしても
このような大規模な取水施設を造るとは
水の確保に、かなり苦労していた事が伺えます。



最下段の築堤から水の手曲輪の上の方を眺めた様子です。



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