三枚橋城(沼津城)
Sanmaibashi Castle, Japan
登城日:
2009. 6. 13
三枚橋城は1577年(天正5年)又は1579年(天正7年)に
武田勝頼によって築かれたと言われています。
1575年(天正3年)の長篠・設楽ヶ原の戦いで
織田・徳川連合軍に敗れた武田軍は、
北条氏と結び徳川家康の攻勢を凌いでいましたが
1578年(天正6年)に上杉謙信が死去した後に
起きた御館の乱が生じます。
この乱の際、武田勝頼は、上杉景勝を援ける事とし、
結果としてそれまでの甲相同盟を破棄してしまいます。
天正5年に築かれたとすると、武田と北条は
同盟を組んでいるので、三枚橋城は徳川への
備えを強化する為に築かれたもので、
天正7年に築城されたとすると、敵対した
北条氏に対して築かれた事になります。
その後三枚橋城は、北条氏から徳川の城となり、
家康の江戸移封後は、中村一栄が3万石で入城します。
関ヶ原の後は大久保忠佐が城主となりますが、
1613年(慶長18年)に死去すると後継がいない為
断絶となり、廃城となってしまいました。
大久保忠佐は小田原城主となった大久保忠世の弟で、
忠佐共々長篠・設楽ヶ原の合戦では功を挙げています。
長篠・設楽ヶ原古戦場はこちらです。
小田原城の登城記はこちらです。
三枚橋城は現在の沼津駅の南、
狩野川の右岸に近い中央公園辺りを中心に
御成橋辺りまでの一角にあったそうです。
その後、1777年(安永6年)に後の
老中・水野忠友が沼津に領地を得て、
三枚橋跡に沼津城を築きます。
この水野家は幕末の1868年(慶応4年)に
千葉県の菊間に移封となるまで、続いたそうです。
沼津城は、三枚橋城跡の北半分程の広さで
現在の狩野川に近い中央公園辺りが本丸で、
その周囲に二の丸、三の丸が囲む
梯郭式の城郭だった様です。
JR沼津駅南口から徒歩10分程です。
【三枚橋城(沼津城)登城記】
2009年6月、出張の折に狩野川沿いに
建つ沼津のホテルに宿泊しました。
ホテルから眺める狩野川の流れです。
このホテルの入り口に三枚橋城の
石垣が復元されていました。
外堀に用いられていた石垣です。
切り込みハギに近い整った石垣は
武田勝頼が築城した当初ではなく、
大久保氏が整備したものでしょうか?
このホテルの前の通りにも外堀石垣がありました。
案内板によると、ここが三枚橋城の南端で、
外堀のほぼ中心に位置しているそうです。
1994年(平成6年)にここで石垣が発見されたそうで、
その時の写真では丸みを帯びた野面積の石垣の様です。
宿泊したホテルの道を隔てた反対側には
上土朝日稲荷神社がありました。
この神社の案内板によると、1577年(天正5年)に
武田勝頼が三枚橋城築城にあたり、
城地守護の為に祀ったと記されています。
沼津駅から延びる目抜き通りを北に向かうと
アゴラという商業施設の入り口にも
三枚橋城の石垣が復元されていました。
ここは三枚橋城の本丸
入り口にあたるそうです。
この先に川廓通りがありました。
沼津城と狩野川の間を通る道で
旧東海道になっています。
廓はお城の曲輪や郭が転じて
付けられた名前と思います。
寛政年間(1789年〜1801年)に幕府の命令で
描かれた「五街道其外分聞見取延絵図」では
沼津城下を通る東海道の様子が描かれ、
川l廓通りは、狩野川の船着き場にも
面していた様子が伝わっています。
川廓通りは川沿いの一段低いところを通り、
一段高い位置に、中央公園がありました。
ここが三枚橋城跡に築かれた
沼津城本丸跡になります。
沼津城跡はすっかり市街地化されてしまい、
城址の面影は、この中央公園しか残っていません。
公園の片隅に城址碑がありました。
城址碑近くにある石は三枚橋城当時
石垣に使われていた石だそうです。
この中央公園から更に北に向かうと
立派な鳥居の城岡神社がありました。
その名の通り、この神社は沼津城ゆかりの
神社で、古くからこの地には祠があり、
沼津城二代城主水野忠成功が1824年
(文政7年)に社殿を造営したそうです。