小田原駅 - 大手門跡
小田原城へは小田原駅から歩いて向かいました。
まずは新幹線口にある北条早雲の像です。
1495年(明応4年)に北条早雲が小田原城を奇襲した際、
牛の角に松明をくくりつけて襲撃したという逸話に基づいて
騎乗の早雲周囲には牛も何頭かいました。
小田原駅東口には"揚げ土"という石碑が立っていました。
ここは、小田原城三の丸の空堀を掘った土を
この地に揚げて,埋め立てたので
この地名が付いたそうです。
この辺りは、谷津口門にも近いそうです。
この後、小田原駅から程近い所にある
北条氏政・氏照の墓所に向かいました。
北条氏政は北条氏の第四代の領主。
氏照はその弟で、八王子城をはじめ
5つのお城の城主でした。
秀吉の小田原攻めに屈した際
この二人は自害して果てたそうです。
中央の小さな五輪の塔が氏政のお墓、
左隣の小さな塔が氏照のお墓だそうです。
花が飾られ、400年以上の時を
経た今も綺麗に保たれています。
五輪の塔の前にある、平たい石は
生涯石といい、この石の上で
北条氏政と氏照は自害したそうです。
強者が生き延び、弱者のが敗れ去っていくのが
戦国の世の倣いとは言え、この小さな生涯石を
見ていると、なんとも言えない思いがしました。
北条氏政・氏照の墓所から通りに沿って
南に下り、小田原城を目指しました。
途中、幸田門跡がありました。
幸田門は三の丸の入り口にあたる門で、
土塁跡が発掘で発見されたそうです。
その一部が残されていました。
この辺りは駅からも近く、住宅や商店が建ちこめ、
土塁跡も民家の裏庭みたいな感じでした。
幸田門跡を過ぎ、さらに歩いていくと
小田原城のお堀が見えてきました。
二の丸を取り囲む大きなお掘です。
橋を渡ると二の丸で、その奥の天守へと
行けるのですが、その前にもう一箇所
立ち寄ろうと思います。
二の丸の堀の中程のところから左に折れ、
しばらく行くと大手門跡がありました。
写真は大手門跡に建つ鐘楼です。
この大手門は1633年(寛永10年)、稲葉氏の時代に
この場所に移されたのだそうです。
この大手門からお城のある西側が三の丸で
当時は多くの家老級の屋敷が並んでいたそうです。
この大手門跡を訪れた後、いよいよ
二の丸から本丸を目指すことにしました。
"小田原城"のTopに戻る
馬屋曲輪(馬出門)
大手門跡を訪れた後、小田原城の城郭に向かいました。
後北条氏が滅亡した後、関東に移封された家康は
総構えの小田原城には入らず、江戸に居を構えます。
江戸城の様子はこちらです。
小田原城の堅牢な総構えは廃却され、
お城の規模は三の丸以内に縮小されたそうです。
その後、1632年(寛永9年)に稲葉氏が入封した
翌年から大規模な改修を受けたようです。
小田原城は江戸時代中期から
度重なる地震で何度も損害を受け、
その度に復興されてきたようです。
現在は二の丸から本丸にかけて遺構が残り、
天守をはじめ幾つかの建物が復元されています。
二の丸へは馬屋曲輪からアプローチしました。
堀越しに眺める二の丸隅櫓と馬出門の様子です。
堀と石垣、そして白壁に復元された
櫓や門が並び、期待が高まります。
馬屋曲輪へは、ねがね橋を渡って行きます。
めがね橋の向こうに、2008年3月に完成した
馬出門の白壁の土塀と高麗門が見えています。
馬出門は土塀で囲われた枡形形式で、
内冠木門と対になっています。
この馬出門枡形が築かれたのは
1672年(寛永12年)の事の様です。
馬出門の手前の様子です。
馬出門の向こうに二の丸隅櫓が見えていました。
馬出門を間近で眺めてみました。
門の向こうに内冠木門も見えていました。
馬出門をくぐり、枡形に入りました。
写真左手が高麗門形式の内冠木門、
その向こうには銅門の甍が見えています。
また銅門の右側には遠く、天守も見えています。
枡形門は、江戸時代の近世城郭では良く見られます。
櫓門と高麗門の組み合わせが殆どですが、
こうして、二つの高麗門で囲われた枡形は
珍しいのではないでしょうか。
内冠木門を抜けた右手には1999年(平成9年)に
復元された銅門(あかがねもん)が堂々とした
姿を見せていました。
内仕切門と渡櫓の二つの門と、
石垣と土塀で囲まれた立派な枡形門です。
銅門に向かう途中で、先ほど通ってきた
馬出門枡形の様子が見えてきました。
当時の様子が、蘇っていました。
"小田原城"のTopに戻る
二の丸
住吉橋を渡りいよいよ銅門に向かいました。
この銅門は1872年(明治5年)に解体されてしまいましたが
1983年(昭和58年)から行われた発掘調査や
古文書、古写真を元に当時のまま復元されたものです。
復元されて11年経っているのですが、
石垣と土塀はまだ真新しい姿を保っています。
橋の向こうの内仕切門を抜けた枡形内の様子です。
内仕切門の左手には堂々とした
渡櫓門が姿を現していました。
やはり渡櫓門は堅牢な造りで、
とても威厳ある姿で迫ってきます。
門には名前の由来となった
銅の飾りがありました。
渡櫓門を抜け、振り返って眺めた様子です。
銅門を抜けたところに土塀の模型がありました。
銅門の土塀は江戸時代の工法
そのままに復元されていますが、
使用する土や木材の収縮程度などを
確認する為にこの模型が使われたそうです。
土壁の復元一つをとっても、色々な
検討がなされている事に驚きました。
銅門を抜け、北に向かうと二の丸が広がっていました。
今は何もない空間ですが、当時は
所狭しと御殿が建ち並んでいたようです。
1703年(元禄16年)の大地震で多くの被害を受けた際
本丸御殿は復興されなかったので、
それ以降は、この二の丸御殿が
小田原藩庁の中心だったと思います。
二の丸の南西にある隅櫓です。
この隅櫓は二の丸平櫓を復興したものです。
二の丸平櫓は、小田原城で明治以降も
唯一残っていた建物だったそうです。
それが関東大震災の時に
倒壊してしまっていたのですが、
それを1935年(昭和9年)に復興したのですが、
予算の関係で半分の規模になってしまったそうです。
昭和初期では、お城の文化財的な価値が
充分認識されていなかったので、
無理もないことだったのでしょうか。
二の丸の後はいよいよ本丸へ向かいました。
本丸へは平地にある二の丸から小高い丘の上の
赤い常盤木橋を渡って上って行きます。
常盤木橋の下のところは
空堀のようになっていたようです。
上の写真の左手に本丸があります。
この空堀跡は常盤木橋の向こう側にも続いています。
左手の切り岸の上が本丸で、
丁度この辺りには鉄門があった位置と思います。
6月、菖蒲が綺麗に咲いていました。
常盤木橋の袂まで戻り、
本丸方向を眺めた様子です。
ちょっと迷路のようになっていて敵の侵入を
遅らせる仕組みになっていたのでしょうか。
"小田原城"のTopに戻る
本丸
常盤木橋を渡ると、目の前に
常盤木門が見えていました。
常葉木門は本丸の正門にあたり、
小田原城で最も堅牢な門でした。
1703年(元禄16年)の元禄地震で崩壊し、
1706年(宝永3年)に再建されたそうです。
その時の門が明治まで残っていたのですが、
その後取り壊され、1971年(昭和46年)に再建されています。
常盤木門を抜けて振り返って撮った写真です。
夏の陽の高い時期でしたが、逆光になっていて
コントラストの強い光景でした。
この常葉木門を抜けると本丸跡です。
一画に小さな動物園があり、象の梅子が居ました。
暑さの中、ちょっと動きが
緩慢なのが気にかかりました。
象の梅子は2009年9月に死去しています。
そして、その先には小田原城の
天守閣が聳えていました。
三重の天守閣ですが、高く積まれた石垣の上に
聳える姿はとても大きく迫力がありました。
1960年(昭和35年)に鉄筋コンクリート製で
再建されていますが、外観は江戸時代の設計図や
模型を参考に造られ、史実に基づいているようです。
但し三階の高欄は観光用に作られているようです。
天守閣へはスロープの様に石垣が続いています。
そこから眺めた、天守閣前に広がる本丸跡です。
この本丸跡にあった御殿も1703年(元禄16年)の
地震で倒壊したそうですが、この本丸御殿は
その後復興されなかったそうです。
明治までの170年余りは本丸は
空き家同然だったのでしょうか。
天守閣に入って、高欄から外を眺めてみました。
下の写真は、小田原城の南西、約3キロ程の
ところにある石垣山を眺めたものです。
小田原征伐の際、秀吉はこの山に石垣山城を築き、
小田原城の後北条氏の気勢を削いだと言われています。
石垣山城の様子はこちらです。
想像していたよりは遠くに見えたのですが、
秀吉は建設中は木々に覆われていたお城を
木々を伐採する事で、あたかも一日で
築城したかのように、籠城する
後北条軍に見せ付けたそうです。
その時の後北条軍の驚きは
どれ程大きかった事でしょうか。
石垣山の左手には
相模湾が広がっていました。
広々としたこの景色を大久保忠世や
忠隣も眺めていたのでしょうか。
北には小田原駅がすぐ近くに見えていました。
本丸跡を訪れた後、秀吉の小田原征伐に備えて
防御を固めた、小峰の大堀切に行ってみました。
小峰の大堀切はこちらです。
"小田原城"のTopに戻る
御用米曲輪・弁財天曲輪
天守から下り常盤木門を抜け、
御用米曲輪や弁財天曲輪に向かいました。
菖蒲が咲く本丸下の空堀跡を
北に向かい、堀から上がった
左手が御用米曲輪跡と思います。
曲輪跡は、平地になっています。
城内の地図では駐車場になっているので、
整備の計画があるのでしょうか。
小田原城址の公園を抜けると
空き地が広がっていました。
この辺りは弁財天曲輪だったところです。
かつては家が建っていたと思われる
この一角にあった案内板には
"弁財天曲輪として整備するまでの間
一般に開放しております"と書かれていました。
御用米曲輪ともども、整備されるとしたら嬉しい話です。
小田原城址から駅に向かって歩いていると
"弁財天"と書かれた碑がありました。
江戸初期の弁財天曲輪は、
今の小田原駅寄りにあったようです。
1697年(元禄10年)に、蓮池南を弁財天曲輪とし、
この地を単に弁財天と呼ぶ事になったそうです。
江戸末期には、中堅藩士の屋敷が
6〜7軒程あったそうです。
この弁財天から小田原駅に向かうと
日向屋敷の石碑がありました。
ここは江戸時代初期に小田原藩主だった
大久保忠隣公の夫人・日向御前所縁の地だそうです。
大久保氏は、古くから松平氏に仕えた歴代の家臣で、
大久保忠隣は秀忠公に仕えていましたが、
本多正信・正純らに陥れられ改易になってしまいます。
その際、日向御前がこの地で閉居したそうです。
"小田原城"のTopに戻る
小峰の大堀切
小田原城の本丸を訪れた後、
二の丸の歴史見聞館でレンタサイクルして
小峰の大堀切に行ってみました。
小峰の大堀切は、小田原城の西
約1キロの程にある空堀の遺構です。
小田原城を取り囲んでいる総構の一部なのですが、
小田原城の西に広がる丘陵地に空堀や土塁、
そして堀切を設け敵の襲来に備えたものです。
1590年(天正18年)、秀吉の小田原征伐の
直前に完成したそうです。
平地の小田原城の二の丸から
坂道を上って行きました。
かなりの急坂で自転車を押して歩きました。
坂道の途中で小さな神社が見えてきました。
大久保神社です。
ひっそりとして、境内の一部が
道路用に削られてしまっているようでした。
この大久保神社の裏側に土塁がありました。
この土塁が道路に沿ってしばらく続いています。
毒榎平の碑を過ぎ、左手に空き地が広がると
そこが御鐘ノ台と呼ばれる曲輪だったと思います。
その先に丘陵地が大きく抉られた様な大堀切がありました。
再び道路を歩いていくと、先ほどの大堀切よりも
更に規模の大きな堀切が現れてきました。
今までに見たこともない規模の
大きな堀切に圧倒されてしまいます。
木が生い茂っているなか、
整然と続く土塁の様子です。
この辺りが東堀だと思います。
この東堀を抜けると、やがて土塁と
土塁に挟まれた、ところを歩いていきます。
途中で道路に出ましたが、
そこが多分中堀だったと思います。
土塁の端に石がゴロゴロとしていました。
土塁の一部は石垣で覆われていたのでしょうか?
土塁が折れ曲がり、迷路のようになっています。
どこをどう歩いているのか判らなくなった頃
深い木々から抜けたような景色となりました。
この先に二重土塁のある西堀があった筈ですが
どこをどう歩いているのか判らなくなって
しまったので、ここで引き返しました。
北条氏政、氏直が秀吉の来襲に備えて築いた大堀切。
上杉謙信や武田信玄の侵攻をも撥ね退けた
小田原城に、これだけの規模の土塁や空堀を築けば
秀吉の来襲にも城は耐えられると判断したのも
無理ない事だったように思います。
事実、この小田原城は21万もの秀吉軍も
攻め落とす事は出来ず、3ヶ月の包囲の後に
開城によって戦いは終結しています。
小峰の大堀切からの帰り道は
坂道を自転車で一気に下り、
とても気持ちよかったです。
"小田原城"のTopに戻る
"日本全国お城巡りの旅"に戻る
Shane旅日記 日本編に戻る