江戸城
Edo Castle, Japan


登城日:
2005. 11. 04






【江戸城 概要】


江戸城は将軍の居城として、
また江戸幕府の政庁として
天下一の格式と規模を誇ったお城です。

この江戸城は1457年に大田道潅が
築城したのが始まりだそうです。

1590年に家康が関東に移封されたときには、
荒れ果てていたようですが、徳川幕府成立後、
家康、秀忠、家光の3代に渡り築城が繰り返され、
1637年の天守再建、1648年の三之丸御殿建設で、
一応の完成をみたようです。





本丸、二之丸、三之丸に西之丸や
北之丸といった曲輪を備えていました。
その外側に、神田川の流れをうまく用い、
浅草 - 小石川 - 四谷 - 虎ノ門 - 幸橋を結ぶ範囲を
堀で囲った、総構の造りとなっていたようです。

明治維新後、総構の部分は開発され
当時の面影は残っていませんが、
江戸城が皇居として使われた為に
遺構がかなり残っています。





本丸や二之丸、三之丸は皇居東御苑
として一般開放されています。

西之丸は現在皇居として使用されています。
紅葉山や吹上共々、立入りは禁止されています。


この江戸城をいくつかの
区域に分けて紹介します



【江戸城へのアクセス】


江戸城大手門まで、東京メトロ及び
都営地下鉄の大手町駅から徒歩約7分。

JR東京駅から約15分弱です。





【江戸城登城記】


和田倉門 - 外桜田門
(皇居前広場)
Nov. 03, '14

三之丸
(大手門 - 平川門)
Nov. 16, '14

二之丸
(皇居東御苑)
Nov. 16, '14

本丸
(皇居東御苑)
Nov. 21, '14

西之丸
(皇居)
Nov. 08, '14

紅葉山 - 吹上
(蓮池濠に沿って)
Nov. 11, '14

外桜田門 - 北桔橋門
(桜田濠、半蔵濠に沿って)
Nov. 05, '07

北之丸
(北の丸公園)
Nov. 07, '07

千鳥ヶ淵の桜
(千鳥ヶ淵)
Nov. 09, '07


江戸城 外濠
June 05, '18

外濠 (1)
(幸橋見附 - 赤坂見附)
NEW ! May 09, '20

外濠 (2)
(赤坂見附 - 喰違見附)
May 11, '18

外濠 (3)
(喰違見附 - 市谷見附)
May 15, '18

外濠 (4)
(市谷見附 - 牛込見附)
June 06, '18

外濠 (5)
(牛込見附 - 聖橋)


外濠 (6)
(聖橋 - 浅草見附)





"江戸城"のTopに戻る

"東京"のTopに戻る


"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る







和田倉門 - 坂下門 - 外桜田門
(皇居前広場)


東京駅の丸の内口から西に向かうと、
皇居前広場に出ます。

今では、片側4車線程の広い通りが
真っ直ぐ皇居に繋がっています。
道幅が広すぎて気が付きにくいのですが、
皇居前広場に行く途中に広い濠があります。



この濠が江戸城の遺構で馬場先濠と呼ばれています。

当時はこの広い道はなく、一ブロック北側の
通りの位置に橋が架かっていました。

これが和田倉橋です。



当時の橋が復元されています。
この門の先に和田倉門がありました。



今は、石垣が残るばかりで、枡形になっていた
門の建物は取り壊されているのですが、
それでも、当時の様子を彷彿とさせてくれます。

和田倉門の内側は西之丸下と呼ばれていた曲輪で、
老中な幕府の側近の屋敷が並んでいたそうです。

現在、和田倉噴水公園として整備されています。



並木の向こうに丸の内の高層ビルも
眺める事が出来ました。




ここを抜けると再びお堀が現れ、
堀の向こうに櫓が姿を現しました。



三之丸の東南の角に建てられた桜田櫓です。
二重二階の堂々とした櫓です。

江戸城にはこのような二重櫓が13棟、
三重櫓が6棟も建っていたそうです。
この桜田櫓は、関東大震災で倒壊した
当時の櫓を修理したものだそうです。

堀に沿って進むと、内桜田門が見えてきました。



西之丸下から本丸へ行くときに通った門で、
今は桔梗門と呼ばれているそうです。
この門は宮内庁の管理下にあるようで、
厳重な警戒が敷かれています。

当時も、門の前には武装した門番が
常時詰めていたことでしょう。

内桜田門(桔梗門)から広いお堀に
沿って南に向かいました。


やがて、お堀の奥に
宮内庁の建物も見えてきました。
その手前の立派な門は坂下門です。



今は皇居への通用門となっているようで、
内桜田門よりも警備が厳しくなっているようです。

この坂下門では、1860年に
「坂下門外の変」という事件が起きています。
この事件は、大老・井伊直弼が暗殺された
「桜田門外の変」の事態収拾に当たっていた
時の老中・安藤信正対馬守が水戸浪士によって
襲われたというものです。

普段は立ち入り出来ない坂下門ですが、2014年4月に
蓮池濠沿いの桜並木が一般開放された際は、
この坂下門から中に入る事が出来ました。



見上げるような坂下門です。
当時の坂下門は、枡形門になっていたそうですが、
現在は枡形が壊され、門の向きも90°変えられているそうです。



坂下門の右側の蛤濠沿いの櫓台と
門の左側、西之丸の東側の湟池の様子です。


坂下門の背後は皇居前広場となっていて、
広々とした敷地に芝生にクロマツが植えられ、
その向こうに丸の内の高層ビルが聳えています。



晴れ渡った空の下、とても広々とした空間です。
当時は、この場所に武家屋敷が
所狭しと建ち並んでいたことでしょう。

この広々とした空間も、2014年4月の桜の際には
人で埋め尽くされてしまいました。




坂下門から更に南に下がると、
TVのニュースで御馴染みの二重橋前に出ました。

ここは西之丸大手門に架かる大手橋と
その奥の二重橋、そして伏見櫓の景観で
広く知られている景色と思います。



明治以降、西之丸大手門は、
皇居への正門と呼ばれるようになり、
大手橋は石橋に、二重橋も
鉄橋に架け替えられました。

ちなみに、二重橋というのは、奥の橋が
二重構造だったことに由来するそうです。



皇居二重橋前を過ぎると、広大な
皇居前広場の外れに近づいて来ました。

お堀に沿って右手に折れると、
再び立派な櫓門が現れてきました。

外桜田門(桜田門)です。



櫓門をくぐると左に高麗門が続きます。
外桜田門は門の両側がお堀で囲われていて
とても珍しい枡形となっているようです。

1637年に建てられ、櫓門は復元だそうですが、
高麗門と合わせ、重要文化財に指定されています。

外桜田門の高麗門を出ると、江戸城の城外です。
広いお堀の向こうに国会議事堂の姿も見えました。



西に傾いた日が差し込み、
とても穏やかな景色です。
お城の静と、お堀の外側の行きかう
車の騒々しさがとても対照的です。

ここでは1860年(万延元年)3月24日、
江戸城への登城途中の大老・井伊直弼が
水戸藩浪士に暗殺されています。

雪の朝、無念の命を落とした井伊直弼・・・
しかし、この風景からは当時の様子を
思い浮かべるのはなかなか出来ませんでした。

井伊直弼が生まれた彦根城の様子は
こちらです。
お墓のある豪徳寺の様子はこちらです。


外桜田門(桜田門)から東に向かい、内堀通りを
渡ると、芝生に松林が生い茂る一角があります。



この一画は皇居外苑と呼ばれています。
ここに楠木正成の騎馬像があります。



楠木正成は南北朝時代の人で、
後醍醐天皇の建武の新政を援け、
足利氏と戦い、1336年(延元元年/建武3年)に
湊川の戦いで戦死した武将です。


この皇居外苑の周囲にも広い濠が取り囲んでいます。



この広い濠が日比谷濠で、北側の馬場先濠に続いています。



"江戸城"のTopに戻る






三之丸
(大手門 - 平川門)


西之丸下、今の皇居前広場に行ったときには
実は、江戸城の本丸が残っている事や、
そしてそこが開放されている事は知りませんでした。



2005年11月下旬の東京近郊出張の際に
再び江戸城址に行ってみました。
(写真はその後の再訪の際のものです)

和田倉門を過ぎ、桜田二重櫓から
お濠端を北に向かうと大手門です。



当時は、和田倉門の北側に東西にもお堀があって、
和田倉門をくぐった場合は、内桜田門を通り
三之丸に入るようになっていました。


さて、いよいよ大手門です。



この大手門に入るのを許されたのは
大名や限られた数の付き人だけだったので、
門の手前は”下馬所”という広い空き地になっていて、
ここで大勢の供の者たちが、大名の帰城を待っていたそうです。

お供の者たちは、待つ間に情報交換に勤め、
”下馬評”というのは、ここからきているそうです。



お堀に突き出た土橋を渡って大手門に向かいます。
大手門の手前には立派な濠が築かれています。
大手門に向かって左手が桔梗濠、右手が大手濠です。



お濠の手前には立派なオフィスビルが幾つも
建ち並び現代の東京を象徴する眺めです。
このお濠が現在と過去を隔てています。

大手門も、高麗門と櫓門を組み合わせた
枡形になっていて、守りを固めています。



高麗門をくぐり枡形に入ります。
枡形門は最も守りが堅い門形式とされています。
江戸城は外濠も含め数多くの枡形門が築かれていました。

この写真は、大手門の櫓門です。



さすがに堂々とした造りです。
1963年(昭和38年)に復元されたそうです。

ここからは三之丸で、今は皇居東御苑の園内です。
大手門を過ぎたところに、窓口があり、
ここでプラスチックのカードを受け取ります。

東御苑に入ってすぐ右手に尚蔵館があります。



ここには宮内庁が所蔵する
貴重な文化財が展示されています。


2010年9月には木戸孝允が記した
薩長同盟の覚書が展示されていました。
この覚書には坂本龍馬が記した裏書がされています。

一介の浪人だった龍馬が、薩摩と長州の
両大藩の密約に保証を与えたとは、余程、
信頼を得ていた事の表れだと思います。

朱書きの裏書は、実に堂々とした筆跡で
動きの激しかった幕末の様子が伝わってくるようでした。

坂本龍馬が生まれた高知の様子はこちらです。
坂本龍馬が命を落とした京都・河原町の様子はこちらです。
坂本龍馬のお墓のある京都・霊山の様子はこちらです。



この尚蔵館の周囲は、二之丸や本丸へと続く
散策路以外は立ち入り禁止になっているようです。
散策路の先には、立派な石垣が見えていました。



この石垣は大手三之門跡です。

当時は、この門を籠で通るのを許されたのは、
徳川御三家の大名だけで、門の手前の橋を
下乗橋と言ったそうです。

ここから先は、二之丸です。

二之丸の様子はこちらです。



三之丸は、二之丸の東側に沿って北側に伸びています。
当時は二之丸との間に天神濠があったのですが、
今は埋め立てられています。

この一画は立ち入りが禁止されている為、
三之丸の東側に、大手門から内堀通りに沿って
伸びる大手濠に沿って歩いてみました。



30m程の幅の広い濠が続き、
整備された街路樹が続く道は歩きやすく、
ジョギングしている人とも行き交います。

お濠の反対側にはビル街が続いていますが
お濠と江戸城の緑で、ほっとするような景色の
内堀通りは日本の道100選にも選ばれているようです。

しばらく歩くと、江戸城の三之丸が
鉤状に折れ曲がり、濠と内堀通りとの間に
ちょっとした公園が現れました。

ここにはどんな謂れかは判らないのですが、
和気清麻呂の像が立っています。



清麻呂の像の近くには関東大震災の際の
大火事に焼け残った公孫樹の木も立っています。

この公園を過ぎるとお濠は西へと向きを変え、
遠くに三之丸の正門にあたる
平川門が現れてきました。



大手濠に架かる平川橋との景色は
当時の様子を彷彿とさせてくれます。

平川門は枡形もしっかり残っていて、
高麗門を抜けると、立派な櫓門が現れました。



この平川門には三代将軍・家光公の乳母、
春日の局が門限に遅れ、門外で一夜を
明かしたというエピソードが残っています。

平川門は大奥の女中らが出入りする時に
使われた門だったようです。
平川門の奥には帯曲門がありました。



江戸城の鬼門、東北に位置する平川門は
不浄門とも言われ、城内の死者や罪人は
この門から出されたそうですが、その際には
帯曲門が使われたようです。

この平川門の辺りは構造がが複雑で
現地にも航空写真がありました。



平川門の西側には、細長い帯曲輪が伸び、
竹橋門に繋がっています。

平川門をくぐりすぐ右手に見える濠は平川濠です。



平川門をくぐった所は三之丸ですが、
平川濠に細長く突き出た曲輪に向かいます。



立派な石垣に囲まれ、
馬出や枡形のような構造です。
ここから二之丸に入りました。



"江戸城"のTopに戻る






二之丸
(皇居東御苑)


江戸城二之丸は、本丸の東側の一段低い曲輪です。
大手門から入城すると幅の狭い三之丸を抜け、
枡形門の大手三之門から先が二之丸です。



大手三之門の立派な石垣の背後に当時の
警護人の詰所、同心番所が残っていました。



そして左手に折れたところにも百人番所と
呼ばれる城内最大の番所も残っています。



ここには4組、各組百人づつの
番人が詰めていたそうです。

この百人番所前に中之門があります。
中之門は1607年に藤堂高虎に
よって縄張りされています。



江戸城で一番大きな石が組まれた石垣で
当時は、石垣と石垣の間に櫓門が
載っていました。



中之門は1657年(明暦3年)の大火、
1703年(元禄16年)の大地震の後に
修復されているようです。
平成に入っても2005年から約1年半の期間、
修復されていました。

門の脇に平成の修復で取り出された
石が展示されていました。
石は思ったよりも薄く切り出されているようです。


中之門の奥に大番所が残っています。



左手に折れ、石垣に沿って
ゆるやかな坂道を登っていきます。

いよいよ江戸城本丸への最後の門、
書院門(中雀門)の跡の石垣です。




人と比較すると、石垣に使われている
石が如何に大きいかがわかります。



ちなみに、御三家の大名も
この書院門の手前で籠を下り、
徒歩で登城しなければならなかったそうです。

この先、本丸の様子はこちらです。




大手三之門からこの書院門までは
二之丸の南側のごく一部です。

二之丸は、もともとは三代将軍・家光が
本丸や西之丸の造営後に、遊興の為の
別荘を造ったのが始まりだそうです。

その後、拡張工事が行われ、
1636年(寛永13年)に二之丸御殿と
庭が完成したそうです。

その後、1643年(寛永20年)には、
後の四代将軍家綱となる嗣子竹千代の
為の御殿として作り変えたそうです。


本丸跡の、展望台からは二之丸が一望出来ます。
二之丸は木々に覆われ、その向こうに
高層ビルが建ち並んでいました。



左手に白鳥堀の向こうに汐見坂門跡が見えています。
二之丸へは、ここから下りていくことが出来ます。



汐見坂門の跡を下り、
二之丸に足を踏み入れました。



汐見坂門の櫓門があったところの
石垣はとても立派なものでした。

坂の正面には、二之丸御殿が建っていたのですが、
今では鬱蒼とした雑木林が広がっています。

昭和天皇のご発案で、武蔵野の自然を
ここに残しているとの事でした。

その雑木林の北側を歩いていくと
諏訪の茶屋が見えてきました。



諏訪の茶屋は、もともとは西之丸の奥の
吹上に建っていたそうですが、
明治の時代にここに移築されたそうです。

とても落ち着いた佇まいです。

更に奥に進むと、二之丸庭園です。



寛永20年に建てられた
二之丸御殿の庭の遺構とのことです。
回遊式というそうですが、
さすがに趣のある庭園です。

ちょうど紅葉も終わった頃で、
華やいだ雰囲気ではなかったのですが、
春や夏には、きっと多くの花が咲いて、
趣のある中にも華やかな雰囲気で
溢れている事でしょう。


二之丸の北側には平川門から
本丸へと続く、道があります。

平川門を抜け、平川濠と天神濠の間の
細長い曲輪を抜けて行きます。

枡形を抜けると深い緑の水を讃える
天神濠が左手に見えてきました。



平川門は江戸城の鬼門の方角にあたり
不浄門とされていましたが、今でも
このあたりはひっそりとしています。

さらに大きな四角い石で築かれた
石垣が現れてきました。



下梅林門の枡形でしょうか。
ここを過ぎると、左手に
二之丸が見えてきます。



一段高くなっている本丸の石垣が
優美な曲線を描いていました。

当時はこの上に櫓が建っていたかと思うと
その姿を想像すると圧倒される思いです。

この先の坂道を登っていくと本丸です。

平川門から二之丸の北側を経由し本丸へと
至るルートは、短い間隔でいくつもの門が現れ、
堅牢な構えだった事がわかります。

梅林坂を上ると、本丸の裏口に当たる
上梅林門が見えてきました。



この梅林坂は、大田道灌が1478年(文明10年)に
天神社を祀り、数百本の梅の木を植えたそうです。



"江戸城"のTopに戻る






本丸
(皇居東御苑)


二之丸の中之門から緩やかな坂道を上り
書院門の石垣に沿って右に坂道を登り、
ついに本丸に辿り着きました。



書院門の立派な櫓門の石垣跡です。

ここまで4箇所の門と多くの番所があり、
如何に本丸への警護が厳重だったかがわかります。


この石垣を抜けると、広々とした
本丸跡が目の前に開けてきました。



当時は、書院門をくぐると目の前に本丸御殿の玄関と、
塀の奥に大広間の銅葺の屋根が見えていたそうです。




本丸御殿の拡大図はこちらです。


所々に木々が生い茂り、その向こうに広大な芝生広場が
広がる今の本丸跡からは想像も出来ない程、当時の
江戸城本丸には多くの建物が密集しています。

本丸の手前側が、大広間や白書院といった
江戸幕府の政庁としての建物、
そして奥に行くにしたがい将軍の私的な空間となり
大奥へと繋がっていたようです。


本丸に入ってまずは、左手奥の木々に囲まれた
一角にある富士見櫓に行ってみました。



江戸城の天守は1657年の明暦の大火で焼失し、
それ以降は再建されることがなかったそうで、
この富士見櫓が天守代用になっています。

隅田川の花火祭りには、将軍が
この櫓から花火を見物したそうです。

西之丸から眺める富士見櫓は屋根に破風が付けられ
装飾も意識されていますが、内部は質素な外観です。



西之丸から眺める富士見櫓です。


富士見櫓を眺め、林の中を歩くと、
小さな標識が見つかりました。
松之廊下跡です。



松之廊下は、大広間とその奥の白書院を繋ぐ
L字型の廊下で、総延長は50m以上もあったそうです。

浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた有名な事件が
起こったのは、1701年(元禄14年)3月14日です。

TVドラマでは何度か見た出来事が実際にこの場所で
起きたのか、と思うと、感慨もひとしおです。

松之廊下があった位置は、本丸の南西側で、
すぐ西側には土塁が続いています。



この土塁の上に富士見多聞櫓があります。
蓮池濠沿いに見る富士見多聞櫓は白壁が綺麗に
映えていましたが本丸側から眺める姿は、少々地味でした。

土塁を下り、北に向かったところには石室があります。



長方形に加工された石で、綺麗に室が組まれています。
金蔵とか抜け穴とか諸説あるようですが、
大奥の調度品を収納していたようです。


本丸の西側の土塁付近を紹介しましたが、
本丸跡の中央には芝生広場が広がっています。



遠くには天守台も見えています。
この広い空間は都心にいる事を忘れてしまう程です。


春には、この本丸跡でも綺麗な桜が見られました。




広い芝生広場の北側に天守台がありました。
当時は大奥の建物に囲まれる様な位置でした。



江戸城の天守は、1607年(慶長12年)、1623年(元和9年)
そして1638年(寛永15年)と、家康から家光にかけての
三代の間に三度建てられています。

初代の天守は本丸の中央付近にあったそうですが、
元和天守以降は、この奥まった位置に移されたそうです。

寛永度天守は一階が間口18間、奥行16間、
5層5重、高さ44.8mの天下一の天守でした。
屋根は銅葺き、壁も銅板張りで、
将軍家の威光を見せ付けていた事でしょう。

寛永度の天守が1657年(明暦3年)の火災で焼け落ちた後、
天守台は、その翌年に加賀前田家によって築かれています。



間近で眺める天守台は黒ずんだ部分と
綺麗な白い部分とがある事が判ります。
黒ずんだ部分は、明暦の大火の跡です。


天守台は立ち入り自由なので、上ってきました。



広々とした芝生、そして木々の向こうに
丸の内界隈の高層ビルが見えています。
芝生にはくつろいでいる人もいて平和な景色でした。

寛永度天守の一階部分は穴蔵の構造になっていたようで、
今残る天守にもその痕跡が認められました。




この天守台は、本丸のほぼ北の端に位置し、
この近くには、吹上に向かう柚木門や北桔橋があります。

天守台のすぐ左手にある柚木門です。



この門は、普段は立ち入りが出来ませんが
2014年4月に乾通りの桜が特別公開された際には
この門を通る事が出来ました。

本丸の西にある吹上や
紅葉山の様子はこちらです。


そして天守台のすぐ北側には北桔橋門があります。



ここも枡形の二重構造の門構えだったのですが、
櫓門の跡は、残念ながら残っていません。

表側が3重、4重の門構えだったのに対し、
裏側は一重で、守りが手薄になっていますが、
その分、桔橋の先にはお濠に沿って高い
石垣が築かれ、敵の進入を防いでいます。



石垣の曲線と漆喰の土塀、
そしてお堀の組み合わせが、
江戸時代の様子を今に伝えているようでした。


本丸北側の東側には二つの門がありました。
一つは上梅林門そしてもう一つが汐見坂門です。



この汐見坂門を抜けると二之丸を見下ろす事が出来ます。



二之丸の杜の向こうに高層ビルが建ち並んでいました。

二之丸の様子はこちらです。




"江戸城"のTopに戻る






西之丸
(皇居)


西之丸は本丸の南西の丘陵地に築かれた曲輪です。



西之丸は、宮内庁の建物のあたりから、
二重橋前から眺める伏見櫓までの範囲です。
現在は宮殿や皇居として使われています。


西之丸は、元々は家康の隠居所として造営されました。
家康が隠居したのは、征夷大将軍に任命されて
僅か2年後の1605年(慶長10年)の事です。



二代将軍・秀忠が隠居後にこの西之丸に暮らし、
以降は将軍を引退した大御所や、
次期将軍となる嗣子が暮らしたそうです。


この西之丸は皇居として使われているため、
普段の立ち入りは禁止されていますが、新年と
天皇誕生日の参賀の際には中に入る事が出来ます。

2010年の新年一般参賀に参加して来ました。



皇居前広場に集まった多くの人です。
新年一般参賀は、西之丸正門から二重橋を渡り
宮殿へと向かうコースになっています。

手荷物と身体の検査を受けて、
いよいよ西之丸に向かいます。



皇居正門石橋から眺める伏見櫓です。
西之丸大手門前に架かるこの石橋は
江戸時代には木橋だったそうです。

人波に押されながら、橋を渡り
目の前に西之丸大手門が迫ってきました。



警備の人から立ち止まらないようにと、
何度も拡声器で指示が出されているので、
残念ですがゆっくり観察している余裕はありません。

当時はこの櫓門の前に高麗門が配されていたようです。


西之丸大手門(現在の皇居正門)を抜けると、綺麗に
整備された道が、緩やかなカーブを描いていました。



この左手には土塁も見えていましたが、
しっかりとは確認出来ませんでした。

この道には思ったよりも勾配があります。

当時は途中に中仕切門があった筈ですが
跡形も残っていませんでした。


道を進むに従い、伏見櫓と多聞櫓が
綺麗に見えて来ました。



江戸城跡にはこの他に富士見櫓と桜田巽櫓がありますが
この伏見櫓の眺めは当時の江戸城を彷彿とさせる
数少ない眺めの一つです。


そして二重橋を渡りました。
二重橋から眺める皇居正門石橋です。



二重橋の名は、江戸時代に架かっていた橋が、
深い谷になっている濠に架橋する際に、
橋桁を二重にした事に由来しています。

二重橋を渡り終えたところには
西之丸書院門跡の石垣です。



この書院門も当時は立派な櫓門でした。
ここを抜けると新宮殿です。



当時は西之丸御殿が建てられていました。

新年一般参賀では多くの人が新宮殿の前に集まり
天皇・皇后両陛下をはじめ、皇室の方々が
お出ましになられると日の丸を振ってのお祝いです。


皇室の方々のお出ましが終わると、
急に人が少なくなりました。
西之丸御殿裏門から退出です。

正面に、富士見櫓の端正な姿が見えました。



江戸城は、江戸時代の初めに3度天守が建てられましたが
1638年(寛永15年)に建てられた天守が1657年(明暦3年)に
火災で焼失するとその後は再建されず、
この富士見櫓が天守代用とされました。
この右手には坂下門が見えています。


西之丸は背後の吹上を含めるとかなり広い敷地です。
江戸時代には本丸は何度も火災に遭ったそうですが、
その際にはこの西之丸が本丸の代わりとなったそうです。

残念ながら西之丸の一部しか見る事は出来ませんでしたが、
それでも、一般参賀は十分すぎる程の体験でした。



"江戸城"のTopに戻る





紅葉山 - 吹上
(蓮池濠に沿って)


紅葉山は、西之丸の北西に広がる領域です。
家康を祀った東照宮や歴代将軍の霊廟があります。

西之丸の西に広がる広大な緑地が吹上です。
元々は御三家の屋敷が建っていたそうですが、
1653年の明暦の大火の後に、火避け地として
庭園として整備されました。

この二つの広大な範囲には、
一般の人の立ち入りが出来ません。

一般参賀や特別公開時に本丸との間の
蓮池濠に沿う乾通りを歩く事が出来ます。

ここでは2010年1月の一般参賀と、
2014年4月の桜の時期の特別公開時に
歩いた乾通りの様子を紹介します。


西之丸の北の入り口、坂下門を抜けると、
目の前に見えるのは宮内庁の建物です。



古絵図を見るとこの辺りには6代将軍・家宣公の
廟所があったようですが、今はどうなっているのでしょうか。

因みに将軍の廟所は、日光や増上寺、そして
寛永寺に葬られ遺骸はそちらに安置されています。

宮内庁の建物の北側には
現存の富士見櫓が聳えています。



この富士見櫓は本丸の南端に建ち
1657年(明暦3年)の火災で本丸が焼失すると
その後は天守代用とされました。

この富士見櫓は蓮池濠の東端にあり、
北西に伸びる蓮池濠に沿って
高石垣が続いています。



この蓮池に沿って乾通りが通っています。
ここがその入り口です。



2010年の一般参賀のも2014年の
桜の時もこの乾通りを歩きました。

立ち入りが禁止されている紅葉山と
吹上ですが、この乾通りが唯一
その一端を知る事が出来る道です。

乾通りを歩きだしてすぐに新宮殿に
向かう道が左手に見えていました。



4月初めには沿道の桜も綺麗に咲いていました。

乾通りの右手には蓮池濠がずっと続いています。



その向こうの本丸の高石垣には折れが幾つもあり、
また富士見多聞櫓の白壁が綺麗です。
蓮池濠の奥には西桔橋が見えてきました。

2014年4月の際にはお濠端に咲いた桜が綺麗でした。

乾通りを歩いて行くと通りに沿って
当時の門と長屋門がありました。



この門の名前は判りませんでした。

乾通りはこの辺りから枝垂れ桜や
山桜が並木になっています。



綺麗な桜を眺めるうちに、左手の
木々の間に水濠が見えてきました。

この水濠は江戸城を築城した
太田道灌にちなみ道灌濠と呼ばれ、
紅葉山と吹上を隔てています。



緑豊かなこの景色を眺めていると
まるで自然に出来た沼地に見えます。

当時はこの辺りに紅葉山下門がありました。


道灌濠を過ぎると、固く閉ざされた門がありました。
ここは吹上御所へと通じる道でしょうか。



黄色い花が綺麗でした。

右手には、本丸へと続く西桔橋が見えています。



蓮池濠と乾濠の間の土橋の一部が空堀となり、
そこに跳橋が掛けられていたそうです。

2014年4月には、この土橋を通り、
西桔橋門跡から本丸へと向かいました。

左手には乾濠、右手に蓮池濠を眺めながら進みます。



折れが幾つも入った本丸の高石垣が見事です。
蓮池濠沿って聳える富士見多聞櫓が印象的でした。

当時は跳ね橋だった西桔橋を渡った
先の石垣が西桔橋門跡です。



西桔橋門は本丸の守りを固める櫓門だったようで
その石垣は立派なものでした。

門跡を過ぎると、上り坂となりますが
周囲の石垣は野面積で、江戸城では
あまり見かけない古い年代の積み方です。

坂道の先には本丸の入り口となる柚木門跡があり、
天守台のすぐ脇へと抜けられます。

本丸の様子はこちらです。



2010年の新年一般参賀の際には、
乾通りを真っ直ぐ進み乾門を目指しました。



乾濠に沿って歩いていくと、高石垣も尽き
北桔橋門跡が見えていました。



乾通りの脇には芝生の空間も広がり
遠くには乾門も見えてきました。



乾門は元々は西之丸裏門だった門です。
場所は、坂下門の内側にあったそうです。
1888年(明治21年)に、明治宮殿造営に際し、
今の場所に移築されたそうです。



江戸時代には吹上奉行や、吹上の庭園の
管理をする人たちが住む吹上役所がありました。


この乾通りは広大な紅葉山や吹上の
北側のごく一部しか眺める事は出来ませんが
それでも、普段立ち入りが出来ないところに
足を踏み入れる事が出来たのは貴重な経験でした。

吹上の西側は桜田濠や半蔵濠に接しており
内堀通り越に眺める事が出来ます。

外桜田門から半蔵門を経て
北桔橋門までの様子はこちらです。




"江戸城"のTopに戻る






外桜田門 - 半蔵門 - 北桔橋門
(桜田濠、半蔵濠に沿って)


江戸城の西側、今は皇居になっている西の丸や
吹上(現:吹上御所)の外側に、お濠が残っています。
桜田濠です。

2007年4月初め、桜の時期にこの桜田濠に沿って、
外桜田門から半蔵門そして北詰橋門まで歩いてみました。


江戸幕府お膝元の江戸城のお濠ですが、
総石垣ではなく、土塁の上に石垣を載せた
鉢巻石垣と呼ばれる構造です。



この日はとても綺麗に晴れ上がり、
広いお濠と、その奥に芝生の土塁が続く眺めは
広々としてとても気持ちのいいものでした。

しばらく歩いたところから振り返った外桜田門です。



お濠に沿って緩やかな坂道になっていて
外桜田門が次第に低い位置に見えるようになりました。

土手には菜の花や色々な花が咲いていて
気持ちのいい散策です。

お濠端に「柳の井戸・桜の井戸」の
案内板がありました。



この井戸は江戸時代から名水と知られていたようです。
この辺りには彦根藩井伊氏の藩邸があったそうです。

彦根城の様子はこちらです。

お濠に沿う坂道を上りきったあたりから
外桜田門の方向を振り返った景色です。



幅の広いお濠と高い土塁がとても
規模の大きな景色を作り出しています。

あの日、井伊直弼はこのお濠に沿って
坂を下り、外桜田門に向かったのです。

外桜田門からお濠に沿うこの坂道は
三宅坂と呼ばれているそうです。
この名前は、この坂の頂上の辺りにあった
田原藩三宅氏の上屋敷から付けられたそうです。

三河田原の様子はこちらです。

「蛮社の獄」で罪を得た渡辺崋山も
この田原藩上屋敷で生まれ、幼少の頃、
ここで貧窮の暮らしを送ったそうです。


やがて深く切れ込んだお濠に立派な
土橋が架かりその先に城門が見えてきました。



半蔵門です。
この半蔵門の名前は、服部半蔵の屋敷が
あったことから付けられたそうです。

当時は枡形の櫓門があったのですが、
現在の半蔵門は、和田倉門の高麗門を移築したものです。


半蔵門を過ぎると、半蔵濠に沿って公園となります。
前日の春の嵐でかなり散ってはいましたが、
桜が綺麗に咲いていました。



しばらく桜の咲く公園を歩くと、土橋が現れ、
今度はお濠の江戸城側を歩くようになります。

千鳥ヶ淵の架かる高速道路越しに
綺麗な桜の花が見えていました。



桜の花も春の日差しを浴びて輝いているようです。
しばらくするとお濠と別れ、やがて乾門が現れました。



この乾門は明治以降に西之丸裏門を
現在の位置に移設したもののようです。

皇居の北西にあるため、この名が付けられたようです。
乾門まで来ると、江戸城本丸の搦め手にあたる
北詰橋門はもうすぐです。

乾濠に堅牢な構えの高石垣が現れ
土橋の向こうに北詰橋門が見えてきました。





"江戸城"のTopに戻る






北之丸
(北の丸公園)


江戸城本丸の搦め手口、北詰橋門を抜け、
長い土橋を渡り、道路を横切ると北の丸です。

江戸城が築城された当初は武家屋敷だったそうです。
その後、8代将軍・吉宗が次男の徳川宗武を初代とする田安家、
四男・徳川宗尹(むねただ)を初代とする一橋家、
そして、9代将軍・家重の時に、家重の次男・徳川重好を
初代とする清水家と、御三卿が興されると、
田安家、清水家の屋敷が作られ、北之丸とされました。

今、この北之丸跡地は北の丸公園として残され、
田安家、清水家の門が公園の入り口になっています。



緩やかにカーブしている道路に沿って
西に歩き、乾門の向かいから北の丸
公園に足を踏み入れました。

公園の西側には芝生の公園が広がり、
桜の木の下で花見をしている人達が何人もいました。



公園の東側には雑木林が広がっていました。



日光あたりの高原にでもいるような光景で、
野花が咲き、都心とは思えません。

雑木林を抜けると吉田茂元首相の像がありました。



その先に、空間が広がりビル群が
現れ、清水濠が見えてきました。



この景色の左側の階段を下っていくと
清水門があります。



この門が作られたのは1624年。
とても堂々とした櫓門です。

ちなみに御三卿の清水家の名は、
この門の名前から付けられたそうです。

この櫓門は枡形になっていて
外側に高麗門も残っています。

北の丸公園の出入り口になっているのですが、
この門を通る人は少なく、ひっそりとした感じでした。


清水門から再び吉田茂像に戻り、
奥に進んでいくと武道館が現れ
その奥に田安門が見えてきました。

ひっそりとした清水門とは違い
北の丸公園で花見を楽しんだ人や
武道館での大学の入学式に参列した人か、
多くの人が田安門に向かっていました。



田安門がいつ頃造られたかはどうも
はっきりしていないようですが、
江戸時代初期に建てられた事は
間違いないようです。

田安門の高麗門を抜け振り返ると桜の花と
高麗門の組み合わせがとても綺麗でした。



門を出た土橋の両側にも
植えられている桜が丁度見頃でした。



これは土橋の東側の牛が淵を眺めたところです。
お濠に写る桜はなんとも言えず綺麗な光景でした。



"江戸城"のTopに戻る






千鳥ヶ淵の桜
(千鳥ヶ淵)


田安門から北の丸公園を抜け、
左手に折れると、千鳥ヶ淵です。



この千鳥ヶ淵沿いに小路が続き、小路沿いと
堀の北の丸の土手に桜並木が続いています。



この千鳥ヶ淵を訪れたのは4月5日。

しばらく前から東京では桜が満開という言われていて
前日には春の嵐で強い風雨が吹いていたので、
満開の桜も散ってしまったかと思っていたのですが、
行ってみると、まだまだ綺麗な桜が咲いていました。



千鳥ヶ淵に沿う小路は桜のトンネルです。
平日にも係らず、多くの人が小路を
歩き、桜の花を眺めています。



この日は快晴の良い天気だったのですが、
千鳥ヶ淵を歩いている頃に、生憎
陽が雲に隠れてしまったのが、ちょっと残念でした。



それでも、この千鳥ヶ淵の桜は綺麗でした。
お堀に浮ぶボートも絵になっています。

桜の花だけではなく、紫色の花も綺麗に咲いていました。



うららかな春の一日。
千鳥ヶ淵の綺麗な桜を眺められて良かったです。



やはりお城と桜の組み合わせは最高だなと思います。

いつの日にか、桜咲く千鳥ヶ淵で
ボートを漕いでみたいな、とも思いました。

"江戸城"のTopに戻る

江戸城 外濠

江戸城のお濠というと、皇居の周囲を巡る
大手濠や桜田門から半蔵門にかけての桜田濠、
桜が綺麗な千鳥ヶ淵が知られています。

これらの皇居を周囲を巡る濠は、江戸城の内濠です。
今は、内濠の外側はすっかり都市化されていますが、
江戸時代には、この更に外側に濠が巡っていました。


外濠は、八重洲から新幹線の線路に沿って虎ノ門に至り、
虎ノ門から西に向かって赤坂見附から四谷へと続いていました。
四谷からは、市ヶ谷、飯田橋と現在も残る濠が当時の外濠で
飯田橋から神田川に繋がり、浅草橋まで続いていました。

一部の外濠は消失していますが、現在も残る
濠の様子を中心に紹介しようと思います。

"江戸城"のTopに戻る

外濠 (1)
(幸橋見附 - 赤坂見附)

幸橋見附は、今の新橋駅北側あたりにあった門でした。


撮影: 2011年7月

JR新橋駅日比谷口の北側の交差点周辺の様子です。
幸橋見附は江戸城外濠の南東に位置しています。
外濠はここから西側は、途中溜池を経由し、
赤坂見附へと続いていました。


撮影: 2011年7月

幸門見附があったとされる新橋第一ホテルの様子です。
この辺りはすっかり市街地化されてしまって、
見附の痕跡は全く残っていません。

新橋第一ホテルの南側の道が外濠跡のようですので、
この道に沿って西に向かいました。

江戸時代、新橋第一ホテルとその北側は、
大和郡山藩の御屋敷があったようです。

大和郡山城の様子はこちらです。


撮影: 2011年7月

上の写真は新橋第一ホテルの南西角の交差点です。
この交差点を抜け、更に西に向かうと都営地下鉄
三田線の内幸町駅に辿り着きました。

内幸町の駅からは、日比谷セントラルビルと
新橋スクエアとの間の狭い通りを歩きました。


撮影: 2011年7月

上右の写真の背の高いビルが日比谷セントラルビルです。
その狭い路地を歩いて行くと、石垣の一部が残っていました。


撮影: 2011年7月

この辺りの石垣は、三代将軍・徳川家光の時代の
1636年(寛永13年)に、柳川藩、臼杵藩、久留米藩、
佐伯藩などの九州諸藩によって築かれたそうです。

この先の道は、現在は閉鎖され、ビルの建築中の様ですが
2011年に訪れた際には物産ビル別館がありました。


撮影: 2011年7月

先程の石垣はこのビルの増築工事中に発見されたそうです。


撮影: 2011年7月

その先で、やや広い通りに出たところです。
中央に写っているビルが大同生命霞が関ビルです。
江戸時代は、信濃国松代の真田家の御屋敷がありました。


撮影: 2011年7月

江戸切絵図を見ると、大同生命霞が関ビルの南に、
当時は外濠に架かる新橋があったようです。

更に西に行くと、国道一号線に出ます。
広い通り向こう側の右手に財務省、
左手に文化庁の建物がありました。


撮影: 2011年7月

ここは当時、虎ノ門見附があった所です。
1606年(慶長11年)に肥前佐賀藩主・
鍋島勝茂によって築かれています。

この辺りから官庁街になります。
財務省と文化庁の建物は江戸時代に
三河拳母藩の内藤氏の屋敷跡に建っています。

拳母城の様子はこちらです。

外濠はここで南に向きを変えていました。


撮影: 2018年6月

文化庁の建物の奥に建つのが霞が関ビルです。
霞が関ビルの下にも当時の外濠の石垣が残っています。


撮影: 2018年6月

霞が関ビルから横断歩道を渡った
反対側にも石垣が残っています。


撮影: 2018年6月

外濠はここで再び西に向きを変えていました。
この石垣はその隅にあったものです。


撮影: 2018年6月

道幅も広く交通量の多い外堀通は、その名に昔は
濠だった事を表していますが、周囲には立派な
ビルが建ち並び、江戸時代の面影はありません。

外堀通りの北側には特許庁の立派な庁舎が建ち、
西には溜池山王方面が見通せます。


撮影: 2018年6月

当時の外濠は、今の特許庁の建物辺りで、
溜池と呼ばれる細長い溜池に続いていました。

溜池山王駅の交差点の様子です。
高速道路の高架橋がビルが建ち並ぶ通りを
貫いていて、とても近代的な眺めです。


撮影: 2018年6月

溜池は江戸時代初期に上水道用として造られ、
そこに金魚や鯉などが放され、庶民には上野の
不忍池と並ぶ人気スポットになったそうです。

東京・上野の様子はこちらです。

溜池山王から外堀通りはやや北に向きを変えています。
通りに沿って首相官邸や日枝神社の鳥居が見えてきました。


撮影: 2011年7月

日枝神社は東京・赤坂のページで紹介しています。
赤坂の散策記はこちらです。

日枝神社を過ぎると、赤坂見附です。


撮影: 2011年7月

新橋駅に近い幸橋門見附から虎ノ門見附を経て
赤坂見附に至る区間は、外濠は全て埋められ、
今ではビルが建ち並んでいます。

人通りも多く、賑やかな街の様子からは
江戸時代の様子を思い浮かべ事も
なかなか出来ませんでした。

"江戸城"のTopに戻る

外濠 (2)
(赤坂見附 - 喰違見附)

地下鉄の赤坂見附駅から高速道の下を歩き
坂道を登って行くと、石垣があります。

江戸三十六見附の一つ赤坂見附門跡です。


撮影: 2011年7月

1636年(寛永13年)に福岡藩の黒田忠之が石垣を築き、
3年後の1639年(寛永16年)に御門普請奉行の
加藤正直、小川安則によって門が完成したそうです。

当時は枡形門だったようですが、今ではこの石垣が残るだけで、
当時の堅牢な様子を伺い知る事は出来ません。

周囲の景色も高架の高速道路や外資系企業が入った
高層ビルや高級ホテルなどが建ち並び、洗練された
現代の東京の街の景色です。


撮影: 2011年7月

東京の赤坂見附界隈の様子はこちらです。

しかし、その高速道路の北側に江戸城外濠が残っています。


撮影: 2011年7月

赤坂見附から紀尾井町に向かう弁慶橋の両側に、
江戸城外濠の弁慶濠を見る事が出来ます。

右上の写真には、今は無き赤坂プリンスホテルが写っています。

ここから弁慶濠に沿って歩いていました。
高速道路の下を行く外堀通りは、濠に沿って
緩やかなカーブを描きながら上り坂になっています。


撮影: 2011年7月

外堀通りと高速道路の高低差が逆転し、
高速道路は地下へと吸い込まれていきます。


撮影: 2011年7月

この坂道は、この地にあった紀州の中屋敷から
紀の国坂と呼ばれているようです。

この紀州藩中屋敷は、現在は赤坂離宮になっており、
その東門には移築された紀州藩中屋敷表門が建っています。


撮影: 2011年7月

訪れた2011年6月には生憎修理中でした。

紀の国坂を登りきると交差点があります。
その交差点を右に折れて、江戸城の城内に向かいました。


撮影: 2011年7月

右に折れた道は、当時は右手に弁慶濠、
左手に真田濠を望む土橋だったと思います。

今は真田濠は埋め立てられ、
上智大学のグランドになっています。

土橋が尽きると濠に沿って伸びる土塁の
間を道路がクランク状に曲っていました。
江戸時代、この場所に喰違見附がありました。


撮影: 2011年7月

他の見附は枡形門でしたが、この喰違見附は
虎口と同じように単に折れ曲がっているだけでした。

ここの案内板によると、他の見附が整備された
1636年(寛永13年)の外濠門の整備に先駆けて
この喰違門が整備された為と記しています。


撮影: 2011年7月

喰違見附跡を抜けると立派な
ホテルニューオータニがありました。

"江戸城"のTopに戻る

外濠 (3)
(喰違見附 - 市谷見附)

喰違見附からは、外濠の内側(東側)に沿って
土塁が残り、その土塁を歩く事が出来ました。


撮影: 2011年7月

土塁の高さは5m程もあったでしょうか。
こうした土塁が都市化の波に洗われずに
今も残っているのは貴重な事と思います。


撮影: 2011年7月

土塁には木が生い茂り、都心に
いるとは思えないような光景です。


撮影: 2011年7月

土塁からは上智大のグランドも見ることが出来ます。
四ツ谷駅に近づくと、濠の下をトンネルで走っていた
東京メトロ丸の内線が地上に現れました。


撮影: 2011年4月

丸の内線の左手のグランドが、江戸城真田濠跡です。
真田濠は、喰違見附から四谷見附の間の外濠の名称です。

この区間は、武蔵野丘陵が江戸城へと延びる丘にあり、
外濠で最も標高が高く、玉川上水の水をこの真田濠に
引き入れ、その後他の外濠へと流していったそうです。

ふと下を見ると、丸の内線の線路の下に
中央本線の線路が見えていました。


撮影: 2011年7月

中央東線の乗車記はこちらです。

こちらはJR四ツ谷駅の様子です。


撮影: 2011年7月

この四ツ谷駅麹町口の駅前広場が四谷見附後でした。
四谷見附は半蔵門からの甲州街道が江戸城外へと抜ける
門だったので、特に立派な桝形門があったと思います。

駅前広場の北西隅に石垣が残っていました。


撮影: 2011年4月

この石垣とJR四ツ谷駅の駅舎の位置にあった
石垣との間に高麗門があったそうです。

この石垣の東側には中央本線を跨ぐ
新四谷見附橋が架かっています。

中央快速線と総武緩行線との複々線の線路には
ひっきりなしに電車が行きかっていました。


撮影: 2011年4月

当時もここには土橋が架かっていたのでしょうか。
新四谷見附橋を渡り、四谷見附からは外濠の
西側を歩いて市谷見附を目指しました。


撮影: 2011年4月

中央本線の西側は緩やかな坂道が続いていました。
この辺りも外濠は埋められています。


撮影: 2011年4月

坂道を下ったところにあった公園です。
グランドもありました。

このグランドの先からは濠が残っています。
濠越しに行き交う中央本線の電車を
眺めながら歩いていました。


撮影: 2011年4月

やがて濠の向こうに市ヶ谷駅が見えてきました。
市ヶ谷駅に向かって土橋が伸びています。


撮影: 2012年4月

土橋から濠の西側を眺めた様子です。
丁度桜が満開で、綺麗な景色でした。

2011年4月には四谷見附から市谷見附まで、
外濠の西側を歩きましたが、その2か月後に
また機会があり、今度は東側を歩きました。

四ツ谷駅北側の土塁に石段があり、
土塁に登れるようになっていました。


撮影: 2011年4月

土塁の上はよく整備されています。
幅は10m近くあるでしょうか。

所々に石垣に使われていた石が置かれ、
そこに腰を掛けて休んでいる人もいました。


撮影: 2011年7月

土塁には松が生い茂っていましたが、
その隙間からは中央線の電車が走るのが見えました。


撮影: 2011年7月

しばらく立派な土塁が続いていましたが、
その高さは低く、幅も狭くなっていきました。


撮影: 2011年7月

この先からははっきりとした土塁はなく、
五番町児童遊園という公園になっていました。


撮影: 2011年7月

土塁は市街地化で消失しているようで
公園が尽きると街中を歩く事になりました。

江戸時代にはこの辺りは番町と呼ばれ、
旗本の屋敷が軒を連ねて居た辺りです。


撮影: 2011年7月

現在は雑居ビルが密集する地域になっています。
市ヶ谷のこの辺り、一時期は定期的に
訪れていたのが懐かしい思い出です。

その所用を終え、市ヶ谷駅からの土橋から
夕暮れの外濠を眺めた様子です。


撮影: 2012年4月

綺麗な夕焼けを眺めることが出来ました。

"江戸城"のTopに戻る

外濠 (4)
(市谷見附 - 牛込見附)

江戸城の外濠散策、市ヶ谷と飯田橋の間の
様子は、東側の飯田橋から紹介します。

飯田橋駅の西口の様子です。


撮影: 2012年4月

神楽坂を通り、高田馬場の早稲田大へと向かう
早稲田通りをその反対の東南に向かいます。


撮影: 2011年4月

掘割を走る中央快速線の線路の
東南側の土手の所に石垣が見えます。
そして、道路を隔てた反対には立派な石垣がありました。

ここが江戸時代の牛込見附です。
当時は下の写真の石垣の右側に高麗門が、
左側に櫓門が架かっていました。


撮影: 2012年4月

牛込見附は阿波藩蜂須賀氏によって築かれたそうです。
当時は楓が植えられ、秋の紅葉は綺麗だったそうです。

この北西側に外濠が築かれ、外濠の
神楽坂側から土橋が伸びていました。


撮影: 2012年4月

丁度、桜が満開の時期の外濠の様子です。
濠に沿って桜並木が植えられ、見事な景色でした。

その桜並木の下を外濠に沿って市谷見附へと歩きました。
歩き出してすぐに瀟洒なレストランがありました。


撮影: 2012年4月

東京水上倶楽部という1918年に創業した
東京で最も古いボート場の様です。

ここからも桜並木が続きます。


撮影: 2012年4月

2012年に訪れた際には、満開の桜が綺麗でした。


撮影: 2012年4月

江戸城の桜は千鳥ヶ淵が知られていますが、
ここの外濠の桜も素晴らしい景色です。

桜とお濠越しに中央線の電車が
行きかうのも見え、楽しい散策でした。


撮影: 2012年4月

牛込見附と市谷見附の間にも濠に向かって
土橋が伸びていました。


撮影: 2012年4月

桜色に染まった外濠の様子が
なんとも言えない光景でした。

上は牛込見附方面の眺め、そして
下の写真は市谷見附方面の眺めです。


撮影: 2012年4月

この土橋は江戸時代には無く、明治に
入ってから新たに設けられました。


撮影: 2011年4月

中央線を跨ぐ橋の上からと橋を
渡り終えた交差点からの眺めです。

当時は土塁が巡っていたと思いますが
その痕跡は残っていませんでした。

新見附の土橋から再び、外濠の北側に戻り、
再び桜を眺めながら歩きました。


撮影: 2012年4月

この辺りまで来ると市ヶ谷駅もすぐそこです。
この地下鉄南北線の市ヶ谷駅に向かうと、
江戸城の石垣があります。


撮影: 2012年4月

南北線は飯田橋から溜池山王まで、
江戸城外濠に沿ってその地下を走っています。
この石垣は、南北線の建設の際に発掘され、
ここに展示されているようです。

"江戸城"のTopに戻る

"東京"のTopに戻る

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る