土呂城
Ruins of Toro Fort, Japan
登城日:
2007. 4. 15
土呂城は、徳川家康(当時は松平家康)が
石川数正に築城させたお城です。
築城年も何時廃城になったのかも
不明だそうですが、築城を命じたのは
1564年(永禄7年)の三河一向一揆の後だそうです。
土呂城の本丸位置は、岡崎駅から2km程
南の岡崎市福岡町に位置しています。
三河一向宗の一大拠点だった
本宗寺の西約500mの御堂山に
本丸があったそうです。
二の丸は土呂八幡宮の北側の
御坊山周辺だったそうです。
土呂八幡宮の様子はこちらです。
【土呂城へのアクセス】
土呂城はJR東海道本線・
岡崎駅の南、約2.0km程です。
徒歩約30分程です。
岡崎駅前から福岡町行き名鉄バスで
福岡町下車、徒歩約5分です。
名鉄バスの時刻はこちらから検索可能です。
【土呂城登城記】
岡崎市南部の福岡町の中心部にある
福岡郵便局から西尾街道を北に少し歩くと
道路沿いに土呂城の碑が立っていました。
道路の左手に5m程の高台があり、
この御堂山が土呂城の本丸だったようです。
御堂山東側の切り岸。
福岡の町は、戦国時代には土呂という名の集落で、
ここには蓮如上人にまつわるお寺や
史跡が数多く残っています。
この御堂山も「蓮如上人御舊所」とされ
蓮如が1466年(文正元年)から1468年(応仁2年)に
かけて滞在したところだそうです。
本丸跡には1533年(天文2年)に分骨した
蓮如上人のお墓がありました。
本丸跡のお堂と境内の様子です。
土呂城の本丸跡は狭く、
ざっと30m四方程度でしょうか。
西尾街道を隔てて御堂山の反対側にある
コンビニエンス・ストアから眺めた
土呂城本丸跡の御堂山の様子です。
御堂山の西側には砂川という
小さな川が流れています。
この川はお堀の役割を
果たしていたのでしょうか。
土呂城が築かれると土呂の集落は
城下町として栄えたそうですが、
三河一向一揆の戦火で焼かれた
土呂の町の復興の為に徳川家康が
三八市という市場を開かせたそうです。
その記念碑が砂川の畔にありました。
御堂山にあった案内表示によると
土呂城の二の丸は、本丸跡の御堂山から
東へ200mほど行った土呂八幡宮のある
御坊山にあったそうです。
奈良時代末期から平安時代初期に
創立された古い歴史を持つ八幡宮です。
一の鳥居、二の鳥居をくぐり
拝殿や本殿へと向かうと、
一段低くなったところを通ります。
拝殿から二の鳥居を望んだ様子です。
この窪地は空堀跡のような趣です。
三河一向一揆の際に、この土呂八幡宮も
戦火に遭い、家康は土呂八幡宮の再建も
石川数正に命じているそうです。
本殿の北の裏山が二の丸跡なのでしょうか。
土呂城の城郭と土呂八幡宮の
位置関係がよく判りません。
本殿の左脇の竹藪に人の通った跡が
残っていたので、進んでいくと
小さな五輪塔がありました。
海月左五介塚とありました。
土呂八幡宮の北の裏山の先は
宅地化されています。
その一角に高野山金剛閣という寺院があり
その境内から御坊山の様子を眺めてみました。
小さな谷を隔てて広がる雑木林が
土呂城二の丸とされる御坊山、
その右手遠くに本丸跡の御堂山が
小さく見えていました(赤矢印位置)。
御堂山よりも御坊山の方が標高も高く、
城郭の面積も広く取れそうなので、
この景色を眺めていると、御坊山が本郭で
御堂山は出城のような関係に見えました。
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