藤川宿は、旧東海道の宿場町です。
品川宿から数えて37番目の宿場です。
大平から東に向かうと、旧東海道の
松並木が続いていました。
約1キロほどの距離に90本程の
クロマツの並木が続いているそうです。
名鉄電車の踏切を越えて松並木が続いているので、
電車と松並木のツーショットを撮ることが出来ます。
この名鉄の踏切を過ぎ東に向かうと
藤川の集落が続いています。
藤川宿は南北を山に囲まれ、
東西の谷に沿って細長く伸びています。
しばらく進むと、一里塚跡がありました。
大平の集落にも一里塚があったので、
ここまで約4km程の距離です。
一里塚から藤川の集落を眺めた様子です。
丁度、下校途中の中学生の
カップルが歩いていました。
二人の距離感が初々しい感じです。
道の傍らには芭蕉の句碑がありました。
"爰(ここ)も三河 むらさき麦の
かきつばた" はせを
と記された句碑は、高さ1.65mあり、
この近辺の芭蕉の句碑としては
最大級の大きさだそうです。
むらさき麦とはかつてこの辺りで栽培されていた
穂が紫色をした紺屋麦で(高野麦)、
食用や染色用として使われていたそうです。
藤川宿の名産で、東海道名所図会でも
紹介されていたそうです。
芭蕉の句碑のある十王堂の建物です。
冥土で死者の罪を裁く十人の「王」。
その王が座る台座には、宝永7年(1710年)との
記載があり、この十王堂もこの頃建てられたようです。
古びて廃屋のようですが、歴史を重ねているようです。
古写真を見ると、以前は寄棟造りだったようです。
十王堂の先に「西棒鼻」がありました。
棒鼻というのは宿場の端を示す言葉で、
当時はここから東が藤川宿でした。
大名行列が宿場に到着すると本陣や問屋衆らは
この棒鼻まで出迎え、口上を述べたそうです。
藤川宿は東西約1kmの細長く伸びた宿場で、
1843年(天保14年)には302軒、
1213人の住民がいたそうです。
この地は、幕府の直轄領だったそうです。
今は普通の民家が軒を並べる旧宿場を
東に向かうと、常夜灯がありました。
昔は、この常夜灯の灯りを頼りに
薄暗くなった宿場を歩く旅人もいたことでしょう。
この常夜灯のすぐ近くに脇本陣跡がありました。
脇本陣は約130坪もの敷地があったそうです。
脇本陣は今は資料館になっていますが、
門構えは当時のものだそうです。
脇本陣の裏側に回ってみると、
古い石垣がありました。
この石垣は脇本陣跡の遺構でしょうか。
石垣のすぐ前を名鉄の名古屋本線の線路があり、
豊橋へと向かう特急列車が駆け抜けて行きました。
大名や幕府の重臣らが泊まった本陣跡は、
ごく普通の民家のようになっていました。
藤川宿の様子です。
何軒かは、古い商家も残っているようです。
この時は平日に藤川宿を訪れましたが、
静かな集落には、殆ど人通りもありませんでした。
西棒鼻から1km程、集落の間を行くと東棒鼻がありました。
藤川宿の東の外れです。
この棒鼻では道の両側に石垣を積んだ
宿囲石垣が復元されています。
下の写真は、歌川広重が描いた、
東海道五十三次藤川宿です。
毎年8月に幕府が朝廷に献上していた
馬を連れた一行が棒鼻に
差し掛かるところだそうです。
この棒鼻は藤川宿の
象徴になっているそうです。