JR西岡崎駅から南に行くと、
石工団地という工業団地があります。
岡崎は御影石(花崗岩)の産地で、
この御影石を用いた石製品の加工業が盛んです。
この石製品加工を育成発展させる目的で
1970年頃に出来た工業団地です。
この石工団地のすぐ近くに
上宮寺があります。
上宮寺は1563年(永禄6年)に起こった
三河一向一揆の発端になったお寺です。
この一揆は、家康の家臣・菅沼定顕が
守護不介入の特権を持っていた上宮寺から、
兵量米の取立てをした事が発端と言われ、
上宮寺、本證寺そして勝鬘寺が一揆側の拠点になっていました。
三河一向一揆では、家康の家臣も二分して
一向宗徒と家康側との戦いが半年間も
続いたのですが、最終的には家康が勝利します。
戦火に遭った上宮寺もその後復興されましたが、
1988年(昭和63年)に火災があり、220年前の
江戸時代に建てられた伽藍の多くを焼失しています。
この鐘楼や水盤舎、経蔵が焼け残って
往時の面影を伝えています。
上の写真は経蔵です。
水盤舎には施主として、当国(三河国)太田佐兵衛と
江戸深川の上水場・太田徳九郎の名前が入っていました、
この上宮寺を訪れたのは1月の事なのですが、
季節はずれの桜が咲いていました。
境内の中ほどにある、上宮寺の本堂です。
1988年(昭和63年)の火災の後に復興されていますが、
コンクリート製の近代的な建物になっていました。
聖徳太子が開基したとも伝えられる由緒あるお寺ですが、
この鉄筋コンクリートの建物には驚きました。
境内には、三河一向一揆の後の復興に
力を尽くした芳春院妙西尼のお墓もありました。
この上宮寺のある一角は上佐々木という集落で
古い寺院がいくつもありました。
上宮寺の山門の前にある浄慶寺です。
上宮寺も100を超える末寺・道場があったそうなので、
浄慶寺もその一つだったのでしょうか。
その南「圓乗山」と札の掛かった
物々しい伽藍のお寺です。
当時の上宮寺も、このお寺のように
塀や櫓のような伽藍に囲まれていた
のだろうかと、思いを巡らせていました。
集落の一角にあった土蔵です。
上佐々木の集落を抜け南に向かうと、
のどかな岡崎平野の田畑が広がり、
再び古い集落へと入ります。
下佐々木の集落です。
この集落には、岡崎藩で1万石を拝していた
という庄屋の屋敷跡がありました。
一万石というと大名格の石高です。
こののどかな地域に、それ程の
格の高い庄屋がいたとは驚きました。
下佐々木の集落から、すぐ近くを流れる
矢作川の堤防に上って岡崎平野を眺めました。
450年程前には、こののどかな地で
戦いが繰り広げられていたとは
思えない程の眺めでした。