わが街 岡崎 / 勝鬘寺
ShomanJi Temple in my Hometown Okazaki







勝鬘寺は岡崎市の南部、
JR岡崎駅の西口から南に歩いて
10分程のところにあるお寺です。


西尾へと向かう街道に面して、
「勝鬘寺」と大きく書かれた石碑が建ち、
本堂へと通じる石段が続いています。



石段を隔てた反対側には
「寂光山」という石碑が建っています。



実はこの勝鬘寺は、子供の頃から
馴染みのあるお寺です。
小学校に上がる前、この勝曼寺の
境内にある保育園に通っていました。

境内もそれ程広くはなく石段を上ると
すぐに本堂の前に出ます。



そんな身近な、勝鬘寺なのですが、
戦国時代後期の西三河の歴史には、
欠かすことの出来ないお寺です。



開基・信頼房了海、正嘉2年建之
と書かれた石碑が建っていました。
正嘉2年は1258年、鎌倉時代の創建です。


この勝鬘寺が西三河の歴史に欠かせないお寺というのも、
桶狭間の戦いの後、今川氏の人質の身から解き放たれた、
徳川家康が西三河一帯を平定する途中で起こった
三河一向一揆の本拠地となったお寺の一つなのです。

1563年(永禄6年)に起きたこの一揆は、
安城市南部の本證寺、そしてこの勝鬘寺と
岡崎市西部の上宮寺を拠点として、
松平家康(後の徳川家康)に反旗を翻した戦いです。

本證寺の様子はこちらです。
上宮寺の様子はこちらです。

当時・寺社に認められた守護使不入の特権を
家康の家臣が無視したというのが
事の発端だったと言われています。

この頃、家康は西三河平定の途中で地盤も弱く、
しかも一向宗を信じる家臣が一揆側に加わるという
内紛状態となり、命からがら逃げる場面もあったそうです。


境内の北側にある山門です。



この勝鬘寺に立て篭もった一揆勢は
ここから小豆坂や和田へと討って出たそうです。

小豆坂古戦場の様子はこちらです。


三河一向一揆は、半年間の戦いの後に
家康によって鎮められ、この勝鬘寺の
伽藍も炎上したそうです。

その後、再建されましたが、末寺道場数は
百を超える大寺だったようです。

山門を抜けると、真宗大谷派の徳圓寺がありました。



この徳圓寺もそうした末寺の一つだったのでしょうか。



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