本宿は旧東海道沿いにあり、
岡崎市の東の端にある集落です。
断層にそって谷が東西に走り、
その谷に沿った集落です。
この本宿には、徳川家康が
子供の頃に手習いや漢籍を習った
法蔵寺があり、ここには新撰組の
近藤勇の首塚があります。
藤川宿から国道1号線に沿って東に向かい、
山中の集落を過ぎ、下り勾配を走ると本宿です。
「是より東、本宿村」と書かれた案内板には
1803年(享和2年)に122軒の家屋があったそうです。
藤川宿が1844年(天保14年)に302軒の
家屋があったそうなので、その半分以下の
集落だったようですが、東海道五十三次の
赤坂宿と藤川宿の間の宿として栄えていたようです。
松並木に沿って東に向かうと、
古い民家が現れました。
宇都野龍碩邸跡に残る長屋門です。
宇都野氏は18世紀半ばの宝暦年間に
この本宿で開業した医者で、
7代目の龍碩は、シーボルト門下の
青木周弼に医学を学び、
安政年間に、種痘を施したそうです。
集落の中程にあった一里塚の跡です。
藤川宿にも一里塚があったので、
約4km離れていることになります。
その近くに本宿村道路元標がありました。
大正9年に制定された旧道路法で
各市町村に一箇所、道路の起終点を示す
碑を設置することが決められたそうです。
この道路元標の一番の大元が
東京・日本橋にある道路元標と思います。
この陣屋は1698年(元禄11年)に柴田勝家の子孫、
旗本・柴田出雲守勝門が、知行所支配の為に
設けたものだそうです。
陣屋跡の隣には陣屋代官屋敷がありました。
古びた農家のような建物が代官屋敷のようです。
それにしても、柴田勝家に子孫が残り、
岡崎で陣屋を構えていたとは、
知りませんでした。
本宿の集落を東に進み、
町並みも尽きようとしている辺りに、
法蔵寺があります。
お寺のすぐ西側の旧東海道に
架かる法蔵寺橋です。
旧東海道から眺める法蔵寺の山門です。
法蔵寺は行基が701年に
開山したと言われる古刹です。
松平氏の初代・親氏が深くこのお寺に帰依し、
1387年(元中4年、至徳4年)に堂宇を建立したそうです。
徳川家康も幼いころ、この法蔵寺で
手習いや漢籍を学んだそうで、
硯箱・硯石などの遺品も残っているそうです。
法蔵寺の入り口の左手には
家康お手植えと言われる
御草紙掛松という松がありました。
名前の由来は、家康が手習いの際、
この松に草紙を掛けたといわれています。
いま生えている松は4代目だそうです。
法蔵寺は、こうした家康の所縁の深いお寺だった為、
江戸時代には、法蔵寺前の東海道では
下馬して通らなければならなかったそうです。
参堂を進み、見上げる山門です。
山門をくぐると、石段が続き、
上りきったところに鐘楼門がありました。
山の中腹にある法蔵寺の
境内に広がる堂宇の様子です。
写真左に見える大きな屋根が
法蔵寺の本堂です。
本堂の左手には地面が苔むしていて
傍らには、六角堂と小さな祠がありました。
なかなか雰囲気のある境内です。
本堂の左手を進むと、墓地があり、
その一角に新撰組隊長の
近藤勇の首塚がありました。
近藤勇は武蔵の流山で官軍に捕まり、
1868年(慶応4年)、東京の板橋で
打ち首になっています。
その首は京都に送られ、
三条大橋に晒されていたのですが、
新撰組同志によって持ち出されたそうです。
近藤勇が親しくしていた、新京極裏寺町の
称空義太夫和尚に供養してもらことにしていたそうですが、
称空和尚が、この法蔵寺の貫主となっていたため、
この本宿まで運ばれたそうです。
その首塚は土に埋められ、隠されていた為に
その存在もいつしか忘れ去られたようですが、
1958年(昭和33年)に発掘されたそうです。
今では、石像も作られ、首塚は
花や隊旗で飾られていました。
近藤勇の首塚の奥には東照宮がありました。
武士に憧れ、徳川幕府存続の為に戦った近藤勇の首が、
家康所縁の法蔵寺で、家康を祀る東照宮の
すぐ近くに葬られているのは、
何かの縁も感じます。
この法蔵寺には、家康の父・松平広忠公の
お墓もあるそうですが、それは見逃してしまいました。