黒石陣屋
Kuroishi Jinya, Japan

登城日:
2010. 12. 24

【黒石陣屋 概要】

黒石陣屋は、1656年(明暦2年)に弘前藩2代藩主・津軽信牧の
次男・津軽信英が5,000石の分知を受け、築いた陣屋です。

この分知には、津軽信牧没後の弘前藩の跡継ぎ騒動があり、
その事後処理の幕府の裁定によるもののようです。
津軽信英は旗本でしたが、徳川家康の義理の孫でした。

弘前城の登城記はこちらです。

その後、黒石・津軽氏は8代・親足の時代に1万石に
加増され、黒石藩が立藩し、明治に至っています。

黒石陣屋は、黒石駅から700m程南の
台地の端に位置していました。


陣屋の御殿は、現在の市民文化会館辺りにあり、
その南の御幸公園が馬場跡と伝わります。

【黒石陣屋へのアクセス】

弘南鉄道弘南線の黒石駅から徒歩約10分。

弘南鉄道弘南線の乗車記はこちらです。

【黒石陣屋登城記】

2010年12月24日、黒石陣屋を訪れました。
弘南鉄道弘南線の電車を終点の黒石まで乗車し、
黒石駅から真っ直ぐ南に歩きました。

弘南鉄道の乗車記はこちらです。

途中、古い民家も見かけました。


撮影: 2010年12月

500mほど南に向かうと御幸公園がありました。


撮影: 2010年12月

御幸公園は中央に空き地が広がっています。
訪れた時には雪が積もって一面の雪原でしたが、
当時は、ここが馬場となっていました。

公園の南東部には小さな杜があり、
そこに城址碑がありました。


撮影: 2010年12月

中世の時代に黒石城が存在していたようですが
その城址は弘南鉄道境松駅近くにあったようで、
この"黒石城"は陣屋の事をさしていると思います。


撮影: 2010年12月

この城址碑の近くには、他にも
立派な碑がいくつかありました。


撮影: 2010年12月

城址碑の前から眺める雪の馬場跡の様子です。
馬場跡の雪原の向こうに規模の大きな建物が見えますが
これが黒石市の市民文化会館で、江戸時代に
陣屋の御殿が建っていたところです。


撮影: 2010年12月

城址碑は黒部陣屋の南端にありますが、
この南側の部分は出城のように
突き出ています。

その南東側の様子です。
台地の端が低地へと落ち込み、守りを固めています。


撮影: 2010年12月

こちらは南西側の様子です。
南東側と同じ様に、急な切岸が続いています。


撮影: 2010年12月

南西部には空堀もありました。


撮影: 2010年12月

黒石陣屋は戦の無くなった時代に築かれていますが、
この切岸や空堀は中世の古城の雰囲気を漂わせています。

この空堀の脇から切岸の下に降りてみました。


撮影: 2010年12月

切岸の下には宇和堰という疎水が流れています。


撮影: 2010年12月

宇和堰の脇には小さな祠がありました。


撮影: 2010年12月

宇和堰の南側には小阿弥堰が流れ、その更に南には
浅瀬石川が流れ、黒石陣屋の天然の護りとなっています。

御幸公園の北東には藩祖・津軽信英を
祀る黒石神社があります。
足を延ばしてそこまで行っていました。


撮影: 2010年12月

黒石神社は、陣屋内にあった祠を明治に入ってから
移して神社として創建したそうです。
神社の手前の門は、黒石陣屋の廟門を移築したもので
江戸時代から残る唯一の遺構とされています。


撮影: 2010年12月

神社からの陣屋跡の眺めも、中世の
古城跡を彷彿とさせるものでした。

この古城の雰囲気を味わえた事に満足し、
御殿跡に建つ市民文化会館には立ち寄らずに
街中の散策を始めました。

黒石の散策記はこちらです。

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