黒石陣屋は、1656年(明暦2年)に弘前藩2代藩主・津軽信牧の
次男・津軽信英が5,000石の分知を受け、築いた陣屋です。
この分知には、津軽信牧没後の弘前藩の跡継ぎ騒動があり、
その事後処理の幕府の裁定によるもののようです。
津軽信英は旗本でしたが、徳川家康の義理の孫でした。
弘前城の登城記はこちらです。
その後、黒石・津軽氏は8代・親足の時代に1万石に
加増され、黒石藩が立藩し、明治に至っています。
黒石陣屋は、黒石駅から700m程南の
台地の端に位置していました。
陣屋の御殿は、現在の市民文化会館辺りにあり、
その南の御幸公園が馬場跡と伝わります。
弘南鉄道弘南線の黒石駅から徒歩約10分。
弘南鉄道弘南線の乗車記はこちらです。 【黒石陣屋登城記】
2010年12月24日、黒石陣屋を訪れました。
弘南鉄道弘南線の電車を終点の黒石まで乗車し、
黒石駅から真っ直ぐ南に歩きました。
弘南鉄道の乗車記はこちらです。
途中、古い民家も見かけました。
500mほど南に向かうと御幸公園がありました。
御幸公園は中央に空き地が広がっています。
訪れた時には雪が積もって一面の雪原でしたが、
当時は、ここが馬場となっていました。
公園の南東部には小さな杜があり、
そこに城址碑がありました。
中世の時代に黒石城が存在していたようですが
その城址は弘南鉄道境松駅近くにあったようで、
この"黒石城"は陣屋の事をさしていると思います。
この城址碑の近くには、他にも
立派な碑がいくつかありました。
城址碑の前から眺める雪の馬場跡の様子です。
馬場跡の雪原の向こうに規模の大きな建物が見えますが
これが黒石市の市民文化会館で、江戸時代に
陣屋の御殿が建っていたところです。
城址碑は黒部陣屋の南端にありますが、
この南側の部分は出城のように
突き出ています。
その南東側の様子です。
台地の端が低地へと落ち込み、守りを固めています。
こちらは南西側の様子です。
南東側と同じ様に、急な切岸が続いています。
南西部には空堀もありました。
黒石陣屋は戦の無くなった時代に築かれていますが、
この切岸や空堀は中世の古城の雰囲気を漂わせています。
この空堀の脇から切岸の下に降りてみました。
切岸の下には宇和堰という疎水が流れています。
宇和堰の脇には小さな祠がありました。
宇和堰の南側には小阿弥堰が流れ、その更に南には
浅瀬石川が流れ、黒石陣屋の天然の護りとなっています。
御幸公園の北東には藩祖・津軽信英を
祀る黒石神社があります。
足を延ばしてそこまで行っていました。
黒石神社は、陣屋内にあった祠を明治に入ってから
移して神社として創建したそうです。
神社の手前の門は、黒石陣屋の廟門を移築したもので
江戸時代から残る唯一の遺構とされています。
神社からの陣屋跡の眺めも、中世の
古城跡を彷彿とさせるものでした。
この古城の雰囲気を味わえた事に満足し、
御殿跡に建つ市民文化会館には立ち寄らずに
街中の散策を始めました。
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