奥殿陣屋
Okutono Jinya, Japan


訪問日:
2009. 2. 8







【奥殿陣屋概要】


奥殿陣屋は、徳川家を支えた松平一門の一つ
大給松平氏から別れた奥殿松平氏ゆかりの陣屋です。


松平氏第4代の松平親忠の次男乗元が
大給に大給松平氏を興します。
15世紀末の頃の事です。

その五代目・真乗の長男・家乗が岩村城主となり、
次男・真次(さねつぐ)が大坂の陣で攻を挙げ
先祖ゆかりの大給で知行を得て6000石の旗本となります。

二代・乗次は大坂定番となり1万6000石に加増され、
その後、四代・松平乗真(のりざね)の時に
大給から奥殿へと陣屋を移し、奥殿藩を興します。

1711年(正徳元年)の事です。

奥殿藩はその後、幕末の1863年(文久3年)に
11代・松平乗謨の時に信州・田野口に
移るまでの150年間続きました。




奥殿陣屋は岡崎市の北、矢作川の支流、
巴川を遡り、山間に入ったところにあります。

のどかな、山間にひっそりと佇んでいます。


当時は御殿、書院や役所、学問所などの建物があり、
現在は書院が移築復元されています。



この図の赤線で囲まれた部分が
現存する奥殿陣屋の範囲です。

奥殿陣屋の裏手の山には
奥殿松平氏の廟所もあります。



【奥殿陣屋へのアクセス】


名鉄電車東岡崎駅またはJR東海道本線・
岡崎駅から名鉄バス・奥殿陣屋行きバス。

東岡崎駅から約35分、岡崎駅から約50分です。

名鉄バスの時刻はこちらから検索可能です。





【奥殿陣屋訪問記】



書院周辺
May 14, '11

奥殿松平氏廟所
NEW ! May 17, '11




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書院周辺


岡崎の中心街から国道248号線を北上し、
巴川に沿う足助街道に分け入り、
門立の交差点で右に折れると、
山間ののどかな景色が広がりました。



道端に、奥殿陣屋の幟が立ち、
陣屋への期待が高まります。

奥殿陣屋は、当時の敷地のうち
約1/4程が屋敷跡として整備されています。

その入り口の門の様子です。



この門から中に入り、左手に折れると
土塀の向こうに書院の屋根が見え、
その向かいには学問所の跡に
資料室がありました。



学問所は第十代藩主・松平乗利が
1846年(弘化3年)に設立した明徳院と呼ばれた
藩校を1856年(安政3年)に改称したものです。


土塀を回り込んだところの様子です。



当時は、土塀の内側に御殿が建っていました。

御殿と隣接して建っていた書院は、明治以降に
龍渓院の庫裡として払い下げられていたものを
1985年(昭和60年)に復元移築されました。



書院の庭は綺麗に整備され、
縁側に座ってのんびり眺めると
時の経つのも忘れてしまいます。



2009年2月に訪れた時には
雛飾りが展示されていました。

書院を出たところにある門です。



当時もこの辺りに大手門がありました。

書院の一段高いところに建つお食事処。
当時はこの辺りに金鳳亭と呼ばれる
東屋があったようです。



金鳳亭の庭も綺麗に整備されていました。
金鳳亭の庭から書院を眺めた様子です。




書院の西側はかつて大手門があり、
陣屋の敷地の外側に枡形の見附が
あった辺りは畑やお花畑になっています。



2010年4月に訪れた際には、お花畑には
綺麗にチューリップが咲いていました。




奥殿陣屋は、とてものどかな佇まいでした。
徳川家康が幕府を開いて100年近く経った
天下泰平の世に築かれた奥殿陣屋。
当時も"城郭"としての側面は殆どなく
奥殿藩の政庁として機能していた事でしょう。



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奥平松平家廟所


奥殿神社の金鳳亭脇に、
山に向かう道が続いています。

この道を辿ると奥殿松平氏の
廟所に行くことが出来ます。


廟所に向かう途中、木々の生い茂った
山の中腹に土塁がありました。



陣屋の東側から南側にかけて
敷地の境に築かれているそうです。

訪れる人もいない山道に
小さな祠が祀られていました。



この先に奥平松平氏の廟所が
ひっそりと佇んでいました。



家祖・松平真次(さねつぐ)公から11代・
乗謨(のりかた)公まで続いた奥殿松平氏のうち、
八代・乗尹(のりただ)公と11代・乗謨公を除く
9人がここに葬られています。

上の写真は真次(さねつぐ)公から
四代・乗真(のりざね)公までのお墓です。


そのうち、藩祖・真次公とその母のお墓(写真左上)と
二代・乗次公と三代・乗成公のお墓です(写真右上)。


他に訪れる人もなく、ひっそりとした廟所です。



5代目以降の当主のお墓は、この上に2〜3の名毎に、
山の中腹に階段状に並んでいました。

五代・盈乗(みつのり)公と
四代・乗真公息女のお墓
六代・乗穏(のりやす)公と
その夫人のお墓

廟所には坐像の地蔵仏もありました。

五代・盈乗公は若くして亡くなったそうで
その母、四代・乗真公夫人がその供養のために
建立し、奥殿松平氏の繁栄を祈ったものだそうです。




立派な華台に載った地蔵仏は風雨に晒されて
いたのか顔かたちもはっきりしていませんが、
若くして亡くなったわが子を悼む、
遠い昔の悲しみと祈りが伝わってきました。


廟所の最上段にあったお墓です。



七代・乗友(のりとも)公と
九代・乗(のりより)公のお墓
十代・乗利公夫妻のお墓

廟所から熊野神社へと下る途中に
算木積みの立派な石垣がありました。



この奥殿松平氏廟所は三代・乗成公の
時に整備されたそうです。
乗成公の没年が1703年(元禄16年)なので、
17世紀末の事だったと思われます。

この石垣もその頃に積まれたものでしょうか。


ちなみに奥殿松平氏の8代・乗尹公の次男が
幕末に活躍した永井尚志(なおゆき)公です。

永井尚志公は旗本の身分ながら若年寄に抜擢され、
時の将軍・徳川慶喜公を補佐し、後藤象二郎の
大政奉還建白を慶喜公に周施しています。

討幕後も、箱館戦争に加わるなど最後まで、
徳川幕府への"義"を貫いた一人と思います。

箱館戦争の舞台となった
五稜郭は
こちらです。



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