この図の赤線で囲まれた部分が
現存する奥殿陣屋の範囲です。
奥殿陣屋の裏手の山には
奥殿松平氏の廟所もあります。
道端に、奥殿陣屋の幟が立ち、
陣屋への期待が高まります。
奥殿陣屋は、当時の敷地のうち
約1/4程が屋敷跡として整備されています。
その入り口の門の様子です。
この門から中に入り、左手に折れると
土塀の向こうに書院の屋根が見え、
その向かいには学問所の跡に
資料室がありました。
学問所は第十代藩主・松平乗利が
1846年(弘化3年)に設立した明徳院と呼ばれた
藩校を1856年(安政3年)に改称したものです。
土塀を回り込んだところの様子です。
当時は、土塀の内側に御殿が建っていました。
御殿と隣接して建っていた書院は、明治以降に
龍渓院の庫裡として払い下げられていたものを
1985年(昭和60年)に復元移築されました。
書院の庭は綺麗に整備され、
縁側に座ってのんびり眺めると
時の経つのも忘れてしまいます。
2009年2月に訪れた時には
雛飾りが展示されていました。
書院を出たところにある門です。
当時もこの辺りに大手門がありました。
書院の一段高いところに建つお食事処。
当時はこの辺りに金鳳亭と呼ばれる
東屋があったようです。
金鳳亭の庭も綺麗に整備されていました。
金鳳亭の庭から書院を眺めた様子です。
書院の西側はかつて大手門があり、
陣屋の敷地の外側に枡形の見附が
あった辺りは畑やお花畑になっています。
2010年4月に訪れた際には、お花畑には
綺麗にチューリップが咲いていました。
奥殿陣屋は、とてものどかな佇まいでした。
徳川家康が幕府を開いて100年近く経った
天下泰平の世に築かれた奥殿陣屋。
当時も"城郭"としての側面は殆どなく
奥殿藩の政庁として機能していた事でしょう。
陣屋の東側から南側にかけて
敷地の境に築かれているそうです。
訪れる人もいない山道に
小さな祠が祀られていました。
この先に奥平松平氏の廟所が
ひっそりと佇んでいました。
家祖・松平真次(さねつぐ)公から11代・
乗謨(のりかた)公まで続いた奥殿松平氏のうち、
八代・乗尹(のりただ)公と11代・乗謨公を除く
9人がここに葬られています。
上の写真は真次(さねつぐ)公から
四代・乗真(のりざね)公までのお墓です。
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二代・乗次公と三代・乗成公のお墓です(写真右上)。 |
5代目以降の当主のお墓は、この上に2〜3の名毎に、
山の中腹に階段状に並んでいました。
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四代・乗真公息女のお墓 |
その夫人のお墓 |
立派な華台に載った地蔵仏は風雨に晒されて
いたのか顔かたちもはっきりしていませんが、
若くして亡くなったわが子を悼む、
遠い昔の悲しみと祈りが伝わってきました。
廟所の最上段にあったお墓です。
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九代・乗(のりより)公のお墓 |
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この奥殿松平氏廟所は三代・乗成公の
時に整備されたそうです。
乗成公の没年が1703年(元禄16年)なので、
17世紀末の事だったと思われます。
この石垣もその頃に積まれたものでしょうか。
ちなみに奥殿松平氏の8代・乗尹公の次男が
幕末に活躍した永井尚志(なおゆき)公です。
永井尚志公は旗本の身分ながら若年寄に抜擢され、
時の将軍・徳川慶喜公を補佐し、後藤象二郎の
大政奉還建白を慶喜公に周施しています。
討幕後も、箱館戦争に加わるなど最後まで、
徳川幕府への"義"を貫いた一人と思います。